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今年も8月15日の終戦記念日に合わせて追悼法要が高田公園内の慰霊塔で行われました。
私は高田仏教会会長として導師と法話を行いました。
一昨日は41℃と猛烈な暑さで本日も朝から痛いほどの日差しで
10時からの法要ですが、主催者との打ち合わせで法話を短くすることになりました。
以下は今日の法話を抜粋したものです。
追悼法要法話
私がこの地に帰ってきて35年になりますが
当時地区の戦没者追悼法要をお勤めさせていただいたときは本堂は満堂で
女性がはとんどでその時はあまり気にもなりませんでしたが、今思えば
戦争で夫を亡くした妻であり、子供を亡くした母親だったのです。
戦後物資のない中で残された家族を養うことは大変はずです。
日々の暮らしは今の私たちには想像もつかない過酷なものだったはずです。
そのような思いで生活している人々がなぜ、8月15日一日を裂いてお参りに来られていたのでしょうか。
この日だけは同じ思い苦しみ悲しみを分かち合える唯一心が休まる日だったように思います。
言葉は交わさなくでもお互い手を合わせる姿をみて同じ境遇であること、同じ思いで生きている事を共有できたのではないですか?
例えば私たちもつらい事悲しい事を誰かに相談し、その物事が解決しなくても自分の立場を理解してくれるだけで少しではありますが心は晴れます。
その思いを共有できればその苦しみ悲しみは半分になります。
当時、お参りに来られた方々はその8/15日をかてに日々の過酷な生活をのりきっていたのではないでしょうか?
平成の平和はそのような女性の姿が平和の尊さを示したように思います。
またその子供たちは親の一生懸命に生きる姿を見てきたからこそ平和であることの大切さを実感し平和な平成をつくりあげたのです。
これからの追悼法要はどうあるべきかを考えた場合、
戦争によってつらく悲しい思いをされた方がどんどん少なくなってきます。
昨年の市主催の戦没者追悼法要を厳修させていただきましたが、
驚いたのは
市主催でもあるにもかかわらず代理が焼香、弔辞を述べたことです。
また県知事も同じ対応でした。
民衆に選ばれた方が頭をたれる姿が戦争で苦しんだ人々をどれだけ勇気づけられるのか
当事者に知ってほしいものです。
人の死や悲嘆に対してもっと真摯に対応すべきです。
選ばれた人は追悼法要で非戦のメッセージを伝えるという大切な役目もあります。代理人が訴えるほど軽々しいものではないと思います。
最後になりますが
この令和が未来において戦前と呼ばれないことを願うばかりです。
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