忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2009.2.13

2009年02月13日 | 過去記事
私は「テレビ」というものについて批判的である。最近ではバラエティもドラマも見なくなった。野球や格闘技くらいを気になれば観る程度か。残念なのは妻などとも「トレンディドラマ」の話が合わないことだが、私ばかりが年を取っているような扱いをされるのが納得いかないところだ。▼代わりに増えたのが映画館へ足を運ぶ回数だ。以前よりも時間に融通がきくようになったので頻繁に通うようになった。そして、当然、出かけるわけだから買い物にも付き合わされる。ショッピングと言えば聞こえは良いが、それこそ「夕飯の食材」から「倅の弁当のおかず」まで知ることになる。妻と倅、娘や孫のもの、そして私の晩酌の肴を選ぶ。おかげで、物流の仕事から離れてずいぶん経つが、今の相場も把握できている。カップラーメンの価格も言える。▼私は妻や倅が夢中になっているドラマの主演女優の名前は知らないし、流行りの主題歌も知らない。しかし、私の家族が何を喰って、何を読み、どんな映画が好きかは言える。私に「テレビの話が通じない」と周知だから、食事中の会話からテレビは排除される。代わりに増えたのが質問だ。質問される、質問する。考えたり、調べたりすることができる。つまり、「議題の中心にお父さんがいる」状態となる。▼テレビを見ない代わりに増えたのが読書量だ。映画に行かない日は書斎に籠るのが通例となった。ちょっとした仕事なんかも、その際に片付けてしまう。妻がコーヒーを入れてくれる。その際、読んでいた本の話題も出る。関連する会話が広がりを見せる。話したく、そして聞きたい衝動に駆られる。▼妻との映画デートの際、ちょくちょく倅が「お邪魔虫」をする。そのときは家族揃って映画鑑賞となる。映画館だからマナーもある。タバコは吸えないし、酒も飲めない。横になれないし、トイレも事前に済ませておかねばならない。いろいろな制約の中、静かに同じものを観る。▼夕食時に映画の話が出る。同じものを観たはずだが感じ方、捉え方が違うと気づく。なるほど、そういう見方があったのかと思い知ることもある。たぶん、これがコミュニケーションだと思う。▼テレビでは小泉元首相ばかり。同じ顔。同じ方向。同じ意見。少しずつ、感性が殺される。


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