忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

日本の背骨が軋む音

2009年04月30日 | 過去記事
■2009/04/30 (木) 日本の背骨が軋む音 1

どうなるのかと思っていたが、とりあえず「常識」が通ったようだ。

http://www.asahi.com/national/update/0428/TKY200904280147.html
<最高裁が「体罰」認定破棄 熊本の損害賠償訴訟>

コレ、小学校2年生の男子生徒が廊下で女子生徒を蹴り、注意した臨時講師のケツを蹴ったということで、胸ぐらを掴んで壁に押し当て「もうするなよ?」とクンロク(口頭で脅すこと)入れられただけの話であったのだが、この餓鬼が心的外傷後ストレス障害(PTSD)になり、それで『350万円払え!』と訴えられていたという話である。

それにしても、小学校2年生といえば8歳とかだと思うのだが、この餓鬼は今年で14歳になっているということだから、もう、わけがわからない。些細なことをいつまで・・

朝日は、

<最高裁が民事訴訟で教員の具体的な行為について「体罰でない」と判断したのは初めて。学校教育法は体罰を禁じているが、どのような行為が体罰にあたるかの具体的な例示はない。どの程度の指導が許されるのかが学校現場で議論になっているなか、幅広い影響がありそうだ。>

と心配しているが、普通の教師や親は安堵していると思われる。これで有罪となるならば、もう、子供の教育はできん。今でも「異常な事態」であると明白だが、未だ「阿呆な親」は多数存在しているようだ。我が子を「そんな風に」しておいて、さあ、社会で通用するのかどうかもわからん阿呆親が、売国勢力の工作の後押しをする構図は変わらない。

穿った見方をすれば「モンスターペアレンツ」なる阿呆親が、日教組などの売国教育を正当化させているともいえる。日教組の教員も「訴えられるくらいなら腑抜けにして、ちゃっちゃと卒業させてしまえ。知ったことか。」と思っても致し方ない。「教師も労働者だ!」ならば、職場の改善という範疇において「餓鬼のレベル」は別問題。授業を聞かずとも放っておけばよい話だ。立ち歩こうが寝てようが、それこそ子供の人権、子供の自由であると「尊重」しておけとなる。つまり、どっちもどっちなのである。

また、悪知恵の働く餓鬼は、これらの非常識をことあるごとに「体罰だ!」「人権侵害だ!」と悪用するだろう。私も子供の頃、使えばよかったと後悔するほどだ(笑)。

「2」へ

■2009/04/30 (木) 日本の背骨が軋む音 2

しかし、ちょっと本気で考えれば「叱られない子供」というものは、とても不幸であるとわかる。未成熟で客観性のない子供時代において「大人からの本気の指導」を受けられない子供はどうなるのか。それはもう、最近の「ゆとり世代」を見るまでもないのだ。

自己肥大が過ぎるから、ちょっと「恥ずかしい思い」をしただけですぐに折れる。すぐに損得勘定で物事を計る。「怒鳴られる」などはあり得ないわけだ。いったい、何の権利があって僕に怒鳴りつけるの??とかになるわけだ。嗚呼ぁ、勝手に汁。

また、こうなってくると見落としてはならないのが、生徒の暴力行為である。この「胸ぐらを掴まれただけでPTSDに陥る気弱な小学2年生」も注意してきた臨時講師に蹴りを入れているわけだ。これが高学年、中学、高校となるにつれてエスカレートする可能性もふんだんにある。現実に「警備員をおいている学校」などは外国には珍しくなく、アメリカの学校ではついに「教師が拳銃を所持している」学校が登場したことも記憶に新しい。

世界に冠する自由国家アメリカの大人の威厳とは、授業中に銃を乱射するような悪い子は、先生が射殺しちゃうぞ!までに至る。日本はその劣化コピーになろうとしているのだ。

つまり、「子供の人権は尊重されるが、教師の尊厳は踏みにじられる」ということだ。日教組の暗躍もむべなるかなである。せめてもの報復は「役立たずの阿呆餓鬼」を大量に生産して親どもに返すということだ。ついでに日本の背骨を腐らせる「仕事」も達せられる。

「自ら学び、自ら考える力」という自主性の尊重。また「総合学習」に「生きる力」などの「ゆとり教育」は、さすがにダメだと文科省自身が認めた。蔓延する悪平等も子供から活力を奪い、失敗する、恥をかく、という貴重な機会を子供から奪った。

「成長しないものは廃れる」という絶対的な法則に従い、今、徐々に「未成熟な大人」が社会に増加し始めている。働くこと、税を納めること、子供を育てること、本来の権利が「義務」とされて久しい。日本国が軋んでいる。インフルエンザよりも怖いと思う。

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