忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2009.1.7

2009年01月07日 | 過去記事
私も仕事柄「年始の挨拶」などをすることがある。改まって「モノを言う」ことは書くよりも神経を使う。言うまでもなく「訂正が利かない」からだが、事前にチェックすることも難しい場合もある。▼総務省の坂本哲志政務官が、仕事始めのあいさつで「本当に真面目に働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と、「派遣村」について触れたことにマスメディアの矛先が向いている。飛んで火にいる・・とはこのことか。▼さらに続けて<「(厚生労働省の)講堂を開けろ、もっといろいろな人が出てこい(と主張した)。何かしら学生紛争の『学内を開放しろ、学長よ出てこい』という戦術、戦略が垣間見えるような気がした>とも述べた。▼テレビでも左派の電波芸人が仕事をする。「権力側の暴言」に対し、満場一致で呆れ果て、嘆き、憂いてみせる。いつもの所作である。鳥越俊太郎がこだわっていた。「政治的な運動のようなものはあったんですか?イデオロギーのようなものがあったのか、そんなものはなかったですよね?」▼「あったかなかったか」は知らないが、昨日(1/5)の天声人語が参考になればと思う。<貧困の発信地としては絶妙だった。(中略)メディアがひしめく都心。(中略)しかも最寄りの役所は、健康と雇用に責任を負う厚生労働省である><足元から凍死者は出せないということか、省の講堂が「村民」に開放された。国の鼻先に貧困を突きつけた主催者、なかなか考えている。><生活防衛を争点に、政治決戦の年が動き出す。野党の面々は派遣村で「政治災害」打倒を誓った>▼安っぽいイデオロギーは「あった」ようだ。


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