忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2号機施設破損、高濃度汚染水が直接海へ

2011年04月02日 | 過去記事
2号機施設破損、高濃度汚染水が直接海へ(朝日新聞) - goo ニュース

<東京電力は2日、福島第一原子力発電所2号機の取水口付近にある、電源ケーブルなどをおさめているたて坑に、1時間当たり1000ミリシーベルトを超える高濃度の放射能汚染水がたまっているのがみつかったと発表した。たて坑の側面のコンクリート部分に亀裂があり、たて坑内の汚染水が海にもれ出ていることが確認されたという>






千葉県の銚子沖で28日に捕獲されたマイワシからは、放射線物質は検出されなかった、と報道があった。銚子沖は日本の南から流れてきた海流が、そこで方向を変えてアメリカへと流れていく海域である。黒潮だ。ならば、北海道から福島沖を通って流れる「親潮」はどこにいくのかといえば、これまた行先はアメリカだったりする。

そして、もちろん、放射能汚染された水が海に流れると、これは薄まっていく。冷却に使用された汚染水は海に交じり、放射性物質は薄まりながらアメリカ西海岸に向かう。地下水に染み込んだり、土壌が汚染されることも憂慮すべきだが、また、海だけではなく、空もみてみると、気象庁のホームページなどは「日本列島の風向き」は「西から東に」吹いているのだとわかる。今日の東日本も風速3メートルから5メートルの風が太平洋に向けて吹いている。不謹慎の誹りを覚悟で言えば、日本海側にある原発だったら、もっと酷いことになっていた可能性がある。そういう意味では「不幸中の幸い」だったかもしれん。

いま、日本中に「安全だ!」という人と「いや、危険だ!」という人がいる。私はどちらかわからない。自民党の政治家らが福島県産の野菜や果物を並べて喰って、菅直人のパフォーマンスの機会を奪ってしまったが、あれも賛否両論、よくやった!もっとやれ!という声と「10年間喰い続けろ!」とか「子や孫に喰わせろ!」という声もある。



私だって、福島県産の野菜や果物を口に入れることくらいできる。しかし、それを孫に喰わせることが出来るのか?と問われれば、残念ながら「止めときなさい」と言うに知れている。理由は「わからない」からだ。つまり、いま、日本中に蔓延しているのは「わからない」であり、安全も危険もない。あるのは「わからない」ことによる不安だ。

民主党の池田元久経済産業副大臣は参議院の予算員会、福島原発の今後について質問された答弁で、思わず「神のみぞ知る」と答えてしまって野党から叱られた。「半径30キロ圏内であれば健康上の問題はない」は神の声ではなく、専門家の意見を聞いて政府が判断したと思うのだが、ここであっさりと「わからない」と認めてしまった。

こういうとき、本当に「わからないことがわからない連中」というのは迷惑だ。いわゆる「無知の知」のことである。ソクラテスだ。

しかし、ちょっと思い出しながら考えると、だ。ソクラテスは「自分がわからないことを自分はわかっているのだ!」という阿呆の理屈を言ったのではもちろんない。また、どこかの総理大臣のように「仮免許だった」とか「疎いもので」も言わなかった。「学べば学ぶほど抑止力だとわかった」と言いながら、あとになって「いや、それは方便でした」とも言わず、ソクラテスは人間、当時のギリシャの賢者らが何を知らぬと言ったのかといえば、それは「真善美」であり、最終的には「徳(アレテー)」であった。難しい学問を説き、日々、汗を流して働かずに本を読む連中の頭の中には、それはそれは膨大な知識が詰まっていることに異論はないが、ソクラテスは、キミらにそれを使う「真善美」があるのかい?そこに「徳」はあるのかい?と問うているのだった。そして、わたしはあるもんね、として毒盃を仰いだ。

「知徳合一」である。「何が善い行いかを知っていながら行わないのは知らないのと同じ」ということだが、ギリシャ人はこれをプラトンもアリストテレスもやったのに、その子孫はユーロ圏に入りたいからと「ドラクマ(ギリシャ通貨)」をなくし、EUの看板で金利が安く借金できるとなって、票の欲しい政治家はバラマキをやって財政が破綻した。支那大陸では民の時代、王陽明が「知行合一」として教え広めたが、漢民族お得意の大弾圧(文字の獄)などで「洪武帝が気に入らない文字を使ったから死刑」とかやって、それどころではなく、そのうちに満州から女真族が攻めてきて清が出来たりした。だから現在の支那人に「知行合一」がシュウマイよりもありがたいと教えるのは、あと100年ほど不可能だろう。

日本では頭の良い哲学者や学者などではなく、「知徳」も「知行」も関係なく、普通に親や教師、近所の年寄り、その辺を歩いているオッサンなどが「道徳」としてこれを教えた。だから今でも、日本で「電車の中で携帯電話使う人の気が知れないね!」という話を電車の中、携帯電話を使ってやれば病院を勧められるはずだ。何の特技もない、そこらをウロウロする、ひと山ナンボの安モン日本人でも「悪いこと」と知りながら、それを行うということはできなくなっている。行う者には「犯意」というものがあるし、それで本当に行った者は「犯罪者」として日本の公共からは隔離されることになる。また、その悪者を行政が取り扱えなくとも、そういう場合、日本には「村八分」という優しいシステムがあった。ちなみに残りの二分は「火事と葬式」だ。どんなに非道な馬鹿でも、火事と葬式まで放っておくのはあんまりだ、という人権擁護の観点からも優れたシステムである。

また、その代わり「善いこと」だと判断すれば、それを誰に勧められなくとも「やったほうがいい」としてやることができるのも日本人だ。並んだり、静かにしたり、平等に分けたり、譲ったり、差し上げたり、女性や子供、老人を優先したりすることは「善いこと」として日本人のDNAに刷り込まれてしまっている。だから、あんな凄惨な悲劇のあとでも、日本人は淡々としているように見えてしまう。



さて、

一般の人々が原子力発電所や放射能のことを知らない、としても「無知」とは言わない。それらは専門性の高い「知識」を要することであり、ちゃんと「その道のプロ」がいることになっているからだ。日本人はソクラテスから「無知の知」など教えられずとも、そういう「その道のプロ」を尊重して重んじることができる。餅は餅屋、ということで専門家を信じて用いる、すなわち「信用」するという文化を持つ。また、被災地では同じ人間同士、信じて頼る、すなわち「信頼」という相互依存の文化もある。だからこそ、中途半端な知識をかじり、その場その場で適当抜かして誤魔化す連中のことも本能的に見抜けることになっている。

自民党の政治家がホウレン草を丸かじりしても意味はない。枝野が「直ちに人体には影響しません」と言っても風評被害は収まらない。そもそも、それが風評なのかどうかも怪しいかもしれない。それより、日本人は現場で命を賭けて働いてくれている自衛官、警察、消防、レスキュー隊、ボランティアの人々、全国、世界から届く支援にこそ信用し、信頼を置く。残念なのは、そこにこの国の政府やマスコミが追い付いていないことだ。





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