「元気だが空腹」…チリ落盤事故、通話に成功
<南米チリ北部コピアポ近郊の鉱山の地下約700メートルの避難所に作業員33人が閉じこめられた落盤事故で、チリのゴルボルネ鉱業相は23日、救助隊が作業員らと電話ケーブルを通じて会話に成功したことを明らかにした。
作業員らは「みんな元気で、空腹だ」と話し、食料の供給や換気対策などを求めたという。チリ紙メルクリオなどが伝えた。
通話の際、作業員らはチリ国歌を合唱し、士気が高いことを示した。今月5日の事故発生時に地上に逃れた同僚の安否を尋ね、無事と聞いて喜んだという。ただ、粉じんによる目の痛みや胃痛を訴えた人もおり、救助隊は早急に目薬などを手配する。
ロイター通信などによると、避難所の広さは約50平方メートルで、木のベンチが2台ある。坑内にあるトラックやヘルメットの明かりが使えるという。通気孔があるが換気は不十分で、気温は30度以上とみられる>
私の「嫌な死に方ベスト1」は、細くて暗くて深いところで「逆さに詰まって死ぬ」のが堂々の一位である。生きたまま棺桶に入れられて埋められるのも、想像しただけで息が詰まる。誰にも気付かれず、声も光も届かぬところでは、人間の精神とはどうなってしまうのか、と考えるだけで恐ろしいのである。この落盤事故も深さ700メートル、もう、早くなんとかならんのかと思う。1秒でも早く出してあげたい。
救出には4カ月ほどかかるらしい。マスコミはこれを「地中の作業員には知らされておりません」としていた。知れば精神的ショックを受けるから、ということだが、事故で埋まった作業員の人らは専門家である。自分らがどのくらいの深さにいるとか、内部の構造も知り尽くしていると思う。外にいる者よりも見立ては厳しいかもしれない。
マスコミはそんなことよりも、彼らがなぜ、地中深くに閉じ込められながら「チリ国歌」を合唱しているのかを考えたほうがいい。<士気が高いことを示した>とあるが、つまり、これは「士気を高めている」のだともわかる。
彼らはもちろん、33名全員が助かるに決まっているが、こういう場合、自分に置き換えて考えてみるに「絶対に生きて外に出よう!」とか「絶対に助かるからあきらめるな!」という言葉が、この地中深くの避難所内においては、どれほどテレビドラマなのかも想像がつく。いつ崩れ落ちるかわからぬ地中、地表の様子などまったくわからぬ700メートル地下において、人間の精神を保つには「士気を高める」こと以外にないのだともわかる。目も開けられぬ粉塵舞う地下深くで「生きること」を目標にされても、何のリアリティも感じられぬばかりか、より触発される「早く外に出て、これからも生きたい」という概念は「こんなところで死にたくない」という発狂水準を上げるだけなのかもしれない。
だから、彼らは国歌を斉唱して、自分が何者であるかを確認する。彼らは「死ぬかもしれない」を受け入れることで「生きて出ることが出来る」可能性が増すことを知っている。絶望に打ち勝つには、己の魂を高貴に保つ他ないと知っているのだ。
この絶望を打ち破って生きて出るためには、己の魂を昇華させる他ない。己を奮い立たせ、想像を絶する艱難辛苦、いつ終わるやもしれぬ千辛万苦に「立ち向かう」姿勢こそが「生きて出る」ための唯一の方途なのだと知っているから、彼らは地中深く、チリ国歌を合唱する。
自分に置き換えて考えてみよう。この落盤事故で閉じ込められた33名の中に自分がいると考えてみよう。怖くて気が狂いそうだろう。絶望して壁に頭を叩きつけたくなる。生きていること自体が耐え難い苦痛となる。出られないなら、いま、ここですぐに絶命したい、とさえ思うことだろう。次の日、もし地上で目覚めることが出来るなら、その日が「世界でいちばん最悪な日」でも幸せだと感じることが出来るほどの不安だろう。だから、彼らはチリの国歌を合唱する。自分とは何者なのか。自分とは何なのか、命とは何なのか、死ぬとは何か――――それらを超越したところに魂を運ぶ。忠誠心や公共心、愛国心や郷土愛を自分の中に認めるとき、彼らは鉱山作業員から「チリの戦士」へと昇格する。戦士は怯えない。戦士に不安などない。
戦士は勝って祖国の土を踏む。
絶望をぶっ殺すのは闘志である。そして、どんな国で生きていようとも、戦争などしていなくとも、人は絶望するほどの困難に立ち向かわねばならぬときがある。そのときに必要なモノとは「生命至上主義」などではない。無論、人権や平和などクソの役にも立たない。それらはすべからく「結果」だからだ。近代国家に暮らす国民は「死ぬかもしれない」ような危険な目に遭った場合、もしくは「生きていけない」ほどの辛苦に耐えねばならぬ場合、自分とは何者かを思い出すことで立ち向かえる場合がある。いや、そうでなければ太刀打ち出来ぬはずだ。その瞬間を生きるだけの個人に出来ることなど、たかが知れているからだ。だから、この国では働き盛りが毎年3万人以上も自分を殺す。「絶望に対する耐久力」が低過ぎるのである。
そして、国際社会の人々はこういうとき「国家」というものを意識する。自分が何者か、を思い出すときとは同時に、何をすべきか、を悟ることになるからだ。恐怖や不安とは「先が見えぬ」から恐ろしい。しかし、先が見えぬならば、後ろが見える。自分は何処から来て、何をすればよいのか、こういうとき、自分の前の人はどうしたのか?どうするのか?
国歌を合唱して士気を高める―――――これは人類の知恵である。「国歌など、歌うも歌わぬも個人の自由」という連中は、700メートル地下に閉じ込められれば数時間で発狂死するだろう。自分の命が大切、自分だけが唯一無二、自分の権利、自分の自由、という自分教の信者であれば、その大事な自分が誰の目にも触れず、誰も知らぬところで埋まっているなど発狂する他ない。
地中で闘う戦士に「がんばってください」と言えるだろうか?ケーブルでつながる地上から「がんばって生きて出て来て下さい!」と声をかける野暮は言うまでもあるまい。自分の愛する人が4ヶ月間も地下に埋まっていなければならない、と想像するに、いったい、なんと声をかけることが出来ようか。「何があっても待っている」と告げることが精一杯ではなかろうか。
今も昔も戦士を待つ際は「信じて待つ」しか出来ぬのだろう。必要なこと、可能なこと、手伝えること、ともかく、何か出来ることはないかと懸命になり、且つ、その帰還を信じて待つ他ないのである。65年前の日本がそうだったように、待つ者は信じて待つ。戦士は闘魂をもって難局を打破する。自分の帰属する主体に対して忠誠を誓うことで、自分の中の恐怖や不安をぶっ殺す。
そんなとき、主権国家の国民は国歌を斉唱する。君が代も日の丸も、天皇陛下万歳も、自分が何処の何者なのかを確認すべきものである。すべては心の平安のために、すべては闘志に燃えて闘えるように。このチリの33名の戦士の帰還を信じて待ちたい、と思う。
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