忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

アリときりぎりすときりぎりす 

2009年10月14日 | 過去記事
■2009/10/14 (水) アリときりぎりすときりぎりす 1

名古屋にいる妻の母親。先日、妻の携帯に電話してきて「やっと、わたしも携帯電話もったぁ♪」とハイテンション。「わたし専用!♪」とご機嫌である。更に「わたしの番号をメモリーしておいてね♪」などと、とても60過ぎのアナログ婆さんとは思えぬセリフが飛び出す。はいはい、と妻がメモリーしようとしたのだが・・・そこに出ている番号は052・・・

052?

名古屋の市外局番??

・・・・嫁のオカンよ、それは、

子機だ。

まさかバッグに入れて持ち歩き、あのセリフを吐いているのではあるまいな。

「電波、悪いぃ~~♪」

しかし、まあ、さすがは妻のオカンである。アルツハイマーなのか、天然なのかがわからない。判然としない。14年前、初対面で「シャボン玉セット」を渡したときも、「うわぁ♪」と心底喜んでいたくらいである。冗談で渡したこっちが引いた。

ま、私のオカンも相当なもん(携帯は持っていないww)だが、どちらにも感心するのは「まだ元気に、なんとか働いている」ということである。それも「勤めに出ている」わけだ。私に父親はいないが、妻の父親はもうすぐ70になろうかというのに、バリバリの現役である。最近、ちょっと高いカメラ(デジカメではないww渋いww)を買って「曾孫」の写真を撮りまくっている。朝も早くから現場に行って掃除をしたり、仕事の段取りをしたりと動き回り、周囲からは「たぶん死なない種類の生き物」と言われているらしい。元航空自衛官である。禿げている。妻は「ハゲおとしゃん」と呼ぶ。

「2」へ

■2009/10/14 (水) アリときりぎりすときりぎりす 2

私もお陰さまで社会に出て「20年と少し」が過ぎた。今の会社は来月で「丸10年」となる。10年間を過ぎて勤めさせてもらうのは人生で「2社目」だ。妻も某大手百貨店の「サービスカウンター」からスタートして5年勤めさせてもらったらリーダーになった。しかしながら転勤の話が出たこと、また、私が「(朝7:00に出て夜10:00に帰ることから)仕事ばかりで家がおろそかになる!!こりゃ!!」と注意したことから、泣く泣く退職することになったが、店側からは「いつでも戻ってきてくれ」と言われていた。「妻の送別会」には私の会社の社員が倍になっても適わぬ人数が集まり、涙涙のお別れ会もあった。

今の「パート勤務」も、もう数年になる。「家のことができるように」と「空いた時間で働きなさい」と言っていたのだが、なんの、どっこい、もう今では店のカギを持ち仕入れも担当している。とても忙しくなり大変だが、以前と違うのは「お父さんの休みの日に休みを合わせる」という条件がついたことだ。また、「お父さんがこの日は休めと言ったら休まねばならない」ということも重要視される。あくまでも「私の許し」を得て働きに出ているのだ。店側もその条件で動く。妻が休まねばならないならば、本社から社員が補充人員として来る仕組みを取っている。急なシフト変更も妻優先であり、その際「確認されるべきこと」は「お父さん、大丈夫かな?(許してくれるかな?)」である。ありがたいことだ。

まあ、我妻を褒めるわけではないこともないが(笑)、つまり、ちゃんと仕事をする人間は店も会社も「放っておかない」のである。自然にそういうポジションに移行していく。「観ている人は観ている」ということだ。「そんなことない」と思うのは「見切りが早い」だけだ。本当に「そんなことない」ような会社は潰れているか、ブラック企業だけだ。

妻は「パートに出ること」を私に頼んでいる。私は専業主婦でも共働きでもどちらでもいい(ホントはちょっと専業がいい)。ただ「すべきこと」を成すならば、妻が喜ぶほうを選ぶだけだ。そして、出来る限りフォローもする。出来る限り「私が合わせること」もする。

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■2009/10/14 (水) アリときりぎりすときりぎりす 3

しかし、まあ、それはお互い様だ。

妻は「外で働きたい」から仕事も懸命に楽しくやる。本当に勉強熱心だし努力家だと思う。パート勤務なのに関連する書籍を探し読んでいる。勉強して資格も取る。だから重宝される。母子加算を切られて嘆きながらパートに出る母子家庭の女とは違う。妻は「働けるだけでも嬉しい」と言う。先ず、仕事ができる健康な体が嬉しいと、そして「当てにしてくれる」勤め先が嬉しいと、一緒に働く「職場の人」が嬉しいと、それに協力して理解してくれる家族が嬉しいと言う。そして、最後に「お小遣いになるから」嬉しいのだと言う。

しかし、これは「私が出会った頃の妻」も同じであったと付け加えておかねばなるまい。

当時、26歳の妻は子供が二人いた。母子家庭だ。しかし、何年か前の「離婚に絡む複雑な事情」から母子手当などの一切を受け取れない状態だった。また、妻のことだから市役所で問答する時間があるならば職場にいたはずだ。私は覚えている。彼女は一切の「遊び」を拒絶していた。仕事が終わって飲みに行くこともなかった。私がフラれていたのではなく(笑)、誰が誘っても断り続けていた。金がなかったのだ。閉店前のスーパーで「見切り品ばかり」をカゴに入れレジに並んでいた妻の姿を、私は昨日のことのように覚えている。

当たり前に生活はとても苦しかっただろう。まだ小さかった倅がいたし、なにかと小遣いもかかることから、商人会で行く「慰安旅行」に参加できず、帰ってきた皆の土産話を楽しそうに聞いていた。子供のころ、両親が出て行った妻の人生には旅行がない、外食もほとんどない、服も小物も持っていない、遊びや趣味がない。計画性と堅実性のある毎日しかない。余裕やゆとりはない。毎日生きて、仕事をして子供を喰わせ、学校にやるだけの人生だ。それでも職場では明るく元気だった。前向きで仕事熱心だった。

そんなとき出会ったのが、最悪の状態だった私だった。若くして店長になったとはいえ私は無能だった。人の所為にし、会社の所為にし、家庭の所為にし、ライバル店舗の所為にし、あまつさえ顧客の所為にまでしていた。私には「毎日会社に行く」というスキルしかなかった。いや、今でもそれは変わらない。妻は苦労と心配が増えた。迷惑もかけた。

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■2009/10/14 (水) アリときりぎりすときりぎりす 4

ただ、私は私の唯一のスキルを最大限に押し出した。それしかないわけだから仕方がない。馬鹿にされても嫌われても辞めない。辛いとかキツイでは辞めない。ましてや「人間関係(笑)」などで辞めていては職場がない。ともかく、会社が無くなるか、辞めろと言われるか、まではしがみつくのだと心に決めた。借金の返済がキツイときは、会社に内緒で短期のアルバイトもした。私にはそれくらいしかできない。ちょっとだけ働いてたくさん収入を得るなど、そんな能力は残念ながらない。「人の3倍やってトントンでいい」と「思えた」。

もちろん、そう「思えた」のは妻の滑稽なまでの愚直さを尊敬したからだ。理屈はともかく、なぜか「人はそうすべき」だと確信した。苦労しているはずなのに、文句も不満もあるだろうに、決して人前で泣かない妻を見て(今はすぐ泣くww)甘ったれた自分自身を恥じた。その10年後、我ら夫婦は人目も憚らず「ディズニーランド」で一緒に泣いた。

妻は私が14年前に買ってあげた「Tシャツ」を今でも着る。なんでもかんでも「買えばいい」と言う私を叱る。「金や物」の価値ではなく「人の価値」を大切にする妻は周囲を活かすことで生きる。そして妻が生きることで周囲を活かす。つまり『生活する』ということを、私は妻から学んだ。私は仕事をしながら「次の仕事」を考える。現在の状況を考えて、次の状況を予想する。明日明後日、1年後、3年後、5年後、10年後を想い描く。活かすために生きねばならない。生きるには活かさねばならない。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-02-19/2009022501_19_0.html
<ホンダ期間工切りの非情>

もうすぐ寒くなる。また、大きな公園にはテントが並んで「村」ができるだろう。先月の失業率は5.5%だったとマスコミも騒ぐ。赤い新聞は「炊き出しに1500人も並んだ」と嘆いてみせる。「この人たちにも“生活”がある」と赤い新聞は憤る。正義の拳を振り上げて、「企業の内部留保を吐き出せば失業者を全員救える」と“提案”している。

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■2009/10/14 (水) アリときりぎりすときりぎりす 5

契約社員の40代の男性は怒る。

<普段は物静かな四十代男性が声を荒らげました。この男性の契約期間はたった二カ月。契約更新を繰り返して約三年間働いてきました。「みんな正社員と同じ仕事を一生懸命やってきた。それを二カ月契約だからと使い捨てにしていいんか」と憤ります。>

私は3年間も綱渡りしていたのかと唖然とする。3年間、何をしていたのかはともかく、3年間も無策だったことへの驚きである。2ヵ月で切れる更新を「継続は当たり前。この先もずっと同じに決まっている」と安穏としながら「不惑」を迎えたのかとゾッとする。大変失礼ながら、そんなことだから正社員になれなかったのだろうと思う。そういう意味では同情する。また、次の「親孝行」な30代男性はこう言う。

<鈴鹿の寮内談話室で、三十代男性は「二カ月契約といっても、みんなそれぞれ生活があるんや」と語ります。実家に住む母親への月六万円の仕送りができなくなります。「かあちゃんがショックを受けるから」と打ち明けることができず、悩んでいます。>

上っ面を撫でれば「美談」であり「孝行息子がかわいそう」となるのかもしれんが、「みんなそれぞれ生活がある」のは当たり前だ。それに「ショックを受ける」かどうか知らんが、早く教えてあげねばならんだろう。仕送りを「当てにしている」んだったら尚更だ。

それにしても「2か月」である。つまり、2ヶ月後には仕事があるかないかわからないわけだ。私ならばそんな「不安定な状況」から脱したいと思う。常に「無くなったこと」を想定しながら行動すると思う。もちろん、私がひとりならば呑気でも構わない。しかし、この人たちは「他の誰か」のために、それも大切な人のために働いていたと嘆いている。どうしてくれるんだと怒っているのであろう?だから私はわからないのである。

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■2009/10/14 (水) アリときりぎりすときりぎりす 6

50代男性だ。

<男性の妻と三人の娘が京都府内の自宅で暮らしています。クビになれば、高校二年の長女には進学をあきらめてもらうしかありません。月十五万円の住宅ローン返済、生活費、教育費―、焦りはつのります。>

大概、世の中を舐めてると思しき、薄ら甘ったるい私ですらが驚いた。この話はつまり、

「50代の男性が2カ月契約の仕事で月額15万円の住宅ローンを組んでいる」

という話なのである。どうする気だったのか。ホンダを擁護する義理はないが、これはあんまりではないのか。この「計画性のなさ」までが企業の責任で、国の対策が悪いというならば、もはや、そんな「魔法の国」は地球に存在しない。

冬がくる前には熊でも蛙でも蛇でも脂肪を蓄えて穴に潜る。それは「気温が下がって喰い物に困る」という計画に基づいた「生活」なのである。ゾウでもシマウマでもキリンでも水飲み場を探して移動する。それは「水がなくなったら困る」という計画に基づいた「生活」なのである。渡り鳥も海を越えて「生活」を守る。リスなどの小動物でも木の実を隠して溜めておく。動物ですら「春があれば冬もある」と知っている。

やり方はふたつ。

ずっと春でいられるように努力、工夫するか、冬が来ても耐え凌ぐだけの知恵を持つかである。勝手にずっと春だと、春でなければおかしいじゃないかと、なんで冬なんかくるんだと怒っても仕方がない。自分と自分の大切な人は、自分が護らねばならない。

自分が生きることによって誰が活かされるのか。
誰が生きることによって自分は活かされるのか。

その答えは派遣村のテントにない。「炊き出し」に並ぶのは大地震がきたとき、戦争で焼け野原になったとき、ゴジラが暴れたとき、そして「生活」を捨てたときだ。

2 コメント

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Unknown (ハイサイハー)
2009-10-16 12:16:46
久代千代太郎さん、こんにちは。初めまして。

年末から派遣テント村に対して違和感…、もにょもにょとしながらも、ものすごい違和感を抱いていたのですが、このエントリを拝読してすっきりしました。

奥様のお話とも併せて、自分が生きることによって誰が活かされるのか、誰が生きることで自分が活かされるのか、という問題だったんですね。
どうもありがとうございました。

ところで、久代千代太郎さまのファーストネームはどこまでなのでしょう?あ、読み方も…(;)。

ひさよ・ちよたろうさま
くよち・よたろうさま
くよちよ・たろうさま

すみませんすみません(;)。

今後もエントリを楽しみにさせていただきます。
どうもありがとうございました^^


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Unknown (久代千代太郎)
2009-10-16 16:16:02
>ハイサイハ―様


いらっしゃいませ。


私のHNは「久代・千代太郎(くしろ・ちよたろう)」と読みます。理由はもう、びっくりするほど単純なことですwwよろしく願います。


またのお越しをお待ちしております^^



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