あ、それと、そういえば昔から「大嫌いなもの」があった。
もう、私が大嫌いでどうしようもないもの。
それは
“子供”
である。
それも小学校の1年生くらいから18才くらいまでの「子供」である。いや、しっかりしていなければ20才くらいでも嫌いだな・・・。ファミレスやコンビニでダラダラと、チャラチャラしている餓鬼・・・嗚呼・・・いやだいやだ。気持ち悪い。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/54954/
<【季節風】“友達感覚”の行く末は>
<「てめえ歩くのはえーんだよ。もっとゆっくり歩けっていってんだろ」
近所の量販店で買い物をしていると、ヒステリックな女性の声が聞こえてきた。若い恋人同士の会話なら気にもとめなかったのだが小学生ほどの子供が高齢の男性に向かって話している言葉と分かり耳を疑った。
店のエスカレーターを降りて歩いてきたのは60代らしき男性と、10歳ほどの少女。年の差から祖父と孫娘と見受けられた。孫が半歩先をうつむき加減に歩く祖父の背中に向かって大きな声でわめき散らしているのだ。>
いくらなんでも、こんな餓鬼はおらんだろうと思ったそこのあなたっ!!
残念です。実在します。
倅の学校で問題があった時、そらもう、嫌というほど見ました。
お母さんが話しているのに、舌打ちして睨みつけて黙らせる餓鬼とかね。あんなもん、帰り道にどんなこと言われてるか想像がつくというものであろう。嗚呼・・・いやだいやだ。
<小さな子供用のハンドバッグを男性に突きつけ、「ほら、かばん持てよ。重いんだよ」。
後ろから男性のひざにけりを入れて、「だから歩くの早いっていってんだろ。止まれよっ」。
男性が「何か食べようか」と話題を変えても、「いらねえよ。腹なんか減ってねえんだよ」。
男性はなすすべなしといった風で、一度も顔を上げないまま足早に店を出ていった。時間にすれば1分ほどの出来事だったが、これまで「祖父と孫」に抱いていたほほえましいイメージは一瞬にして覆された。>
嗚呼・・・いやだいやだ。私も孫にそんな風に言われるのだろうか・・・。
「おいっ!ガチコメじじい!!アイス買ってこいよ!ほらっ!」
「こらっ!じじい!!小遣いくれよぉ!セコイこといってんじゃねぇ!!」
・・・・・・。
ンなこと抜かしやがったら、そのまま抱きついてベランダから一緒に飛んでやる。
まあ、うちの孫に限ってそれはないなぁ・・・のほほ。
個人主義の弊害。
想像以上の威力を発揮している。もう「個室」に住んで「消費者」気取りで、何者かになってしまっているのだろう。嗚呼・・・怖い怖い。
ちなみに、私の倅は母親に命令口調で話すことがある。といってもそれは、阿呆のように「~~しろっ!」というものではない。それは、たとえば「~~しなさいよ?」ってな具合だ。無論、冗談の範疇である。化粧を落とさずにリビングで眠ってしまう妻に「化粧落として、布団に行って寝なさいよ?」とたしなめるのだ。たとえば家族で「回転すし」なんかに行くと、妻は量が食えないのでネタだけを食うことがある。そして私の前に「しゃり」だけ置くのだ。となると私は、その「酢飯」をそのまま食うか、まず普通に食ってすかさず「しゃりダブル」で食うか、それとも、妻が気を利かせて「ガリ」を乗せて醤油をかけてくれる「オリジナル・ガリ寿司」を食わされるのである。そんな時、倅は妻に言う。
「そんなことしたら、お父さんがかわいそうだからやめなさいよ?」
つまり、私の口調が伝染してしまっているのだ。
倅は私のそんな姿をみて、父親の大変さを知るのだろう。どれほど「オリジナル・ガリ寿司」が不味いかわかるか?それに、妻は横綱ラーメンに行っても「チャーシューメンと注文したいだけ」という考えられない理由で注文し、シナチクとネギを食い、適当に麺を食い千切り、焼き豚をつつき回してから「もう食べるところがなくなった」という理由で私に回すのである。だが、妻は「脂っこい」という理由でチャーシューは食えないのだ。
でも、妻は「チャーシューメン!!」と高らかに注文したいのだろう。それはわかる。だって、かわいそうではないか。誰だってラーメン屋に行けば「チャーシューメン一丁ッッ!!」と宣言したいはずではないか。わかるわかる。それがわからないのは愛が不足しているからであろう。私にはそれが愛の宿命なのであった。だがしかし、もうそうなれば、薬味を入れようがネギを足そうが、ぬるくてブチブチに千切れたラーメンほど不味いものはない。もはや罰ゲームである。つまり、愛がなければ食えないのだ。
しかしこれは、付き合ったときに
「これからキミの食べ残しは、僕が全部食べてあげるからね。」
という口説き文句を実践させられているのだ。12年も。妻は食い意地が張っているのに量が食えないからそうするほかないのだ。思えばツレの結婚式のゲームで、ありきたりの「どれかひとつがワサビ入りシュークリーム」とかいう、くだらん遊びの中、一緒に行っていた妻が引いてしまったのだった。ワサビショックで硬直状態になった妻をみて、咄嗟に私は妻の口からそれを取り出し、自分で食べたのであった。
「ずっるぅぅぅい!!」
「やり直しぃぃぃ!!」
という周囲の声をものともせず、その主催者に詰めより
『貴様、俺の女になにかあれば、こんなパーチーはぶち壊してやるぞ?』
と脅し上げ、司会者も
「と・・・とくれい・・・特例でぇ~~す!!」
と空気を読んだのであった。その代り、私がその「ワサビショック」を5個も喰わされる羽目になった。その帰り道、妻に「お寿司の匂いするぅ!!」とおちょくられたとき、私は痺れた口からよだれの糸を引いて「ダレの所為だと思ってんだっ!!んしゃこなろぉぉぉ!!!」と思う前に「この女は私が生涯において、私が守ってやらねばならん。」と決心したものである。ったく、私が自他ともに認めるドMだったからよかったが・・
で?
話が逸れているな。
そうそう、倅の口調の話だった。
だから、うちの倅は中学生特有の反抗期においても
「おばはんっ!!こらっ!」
とか
「はよせぇ!!」
とか
「腹減った!メシまだか?」
などというような旦那口調はあり得ない。
ンなもん、私の耳に入れば修羅場である。
ちなみに我が家は、私が仕事に行っている間など、留守にしているときは倅が妻を守る役目を担う。これは倅に明確な指示を出している。妻に何かあれば、無条件で倅は責められるのだ。延々と私にな・・・むふふのふ。
周りが薄暗くなると、牛乳を買い忘れていようが、車の中に忘れ物をしていようが、妻は外に出ない。条件付きで外出禁止である。その条件とは
倅が付き添う
ということであるが、それでも10時以降についてはもう私ではなければ無理である。
つまり、それ以降の我が家の外出を伴う所用については、私か倅が「担当する」ことになる。これも癖になっているようで、妻が仕事で遅くなると、倅は駅まで迎えに行って待っている。お巡りさんには申し訳ないが、倅が自転車で二人乗りして連れ帰るのだ。
男が女を守るのは当たり前。
母親でもお姉さんでも妹でもおばあちゃんでも、誰でもだ。はっきり言って、それ以外に男の価値はない。男なんぞそれだけだ。働いて守って食って寝て死ぬのだ。私はそう思う。
そして、どうにか、うちのヘナチョコでも男だということである。
<兵庫県警で少年犯罪を担当している警察官に話をすると、真っ先に少女の「言葉」を案じる答えが返ってきた。そして、「学校も家庭も、子供と大人が友達感覚で話をする時代。この少女も、人を敬うような丁寧な言葉遣いを学ぶ場がないのだと思います」と。
人間が驚くべき能力を発揮して体得する「言葉」。それが、たった10年でこのような形に“完成”してしまうこともあるのだと知り、恐ろしさを覚えた。少女の未来を考えたとき、周囲の大人の責任はあまりに大きい。>
まったく同感である。この少女の周りにいる大人は阿呆である。責任とれるのか?
嫌な思いをしてでも、もっといえば嫌われても、厳しくせねばならない時はあるのだ。
我が家の話ばかりで恐縮だが、家族で外食しているときなども関係なかった。それはたぶん、現在においてもそうだと思う。「うっかり」とか「つい・・・」というのも関係ない。嫌であろうが、なんであろうが関係ない。
かなり前だが、外食している最中、倅が「うっかり」と妻の眼前にグラスを突き出したことがあった。たしかに妻の横にお冷のボトルがあった。倅は水を入れてほしかったのだろう。ただ、それだけである。だが、我が家でのその行為は「許されない行為」であり「取り返しのつかない行為」なのである。やりすぎだと言われても関係ない。しったこっちゃない。譲れない。私は倅の人生に責任がある。
そのときは、私が怒鳴る前に妻がグラスを叩き落した。倅はとっくに気づいているので下を向くしかない。そのとき、万が一でも言い返そうものなら、私は烈火のごとく叱りつけるだろう。無論、体罰も辞さん。親としての覚悟の一撃を喰らわせてやるつもりである。
食事の最中だったが、私は席を立って「帰るぞっ!」とだけ言い放った。妻は支払いを済ませて出てくる。倅はそのあとについている。車に乗り込む。
クドクドは言わない。ひとことだけ。
『わかってるな?おい・・・?』
「はい・・・ごめんなさい。」
一生記憶に残るだろう。それはもちろん、私も妻も同じだ。
たしかに、せっかく家族で外食に出かけたのだ。楽しく過ごしたいことは言うまでもない。
だが、家族だからこそ、もっと大事なことはあるのだ。
親だからこそ、見過ごしてはいけないことはあるのだ。
些細なことだろう。どっちでもいいかもしれん。もしくは
『こら。ちゃんと口で言いなさい。』
と諭しても結果は同じかもしれん。
だが、「躾」とは結果がすべてではない。
私は父親である。私は倅の「教育係・躾役」ではないのだ。
だから、感情が入る。心からそんな餓鬼にはなってほしくないと思う。冷静に分析して、ああでもないこうでもないと理屈を並べることなどできない。
我が家の慣例は守ってもらう。私の価値観や感覚は伝えるつもりである。そして成長した倅が、しっかりとした常識を身につけたとき、それらを判断すればいいのだ。
「俺の親父はこうだった。」というひとつの基準、決断する基準になればそれでいい。
そして、それは引き継がれていくのだろう。ちょっとクセのあるまま・・・。
私の1000年後の子孫も、嫁はんの残した牛丼でも、ラーメンでも、おにぎりでも、お茶でも、食わされているだろう。とほほな顔をしてな。
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