忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

対馬日記①

2010年01月25日 | 過去記事


昨年の12月半ばまで勤めた会社に、もはや趣味のレベルといっては失礼なほど「四柱推命」に通じている店長がいた。そういえば今月17日、元大リーガーの桑田氏の父親の訃報があったが、その父親と「キャッチボールしたことがある」ことが彼の自慢でもあったので、今、大いに嘆いていることだろう。共に冥福を祈りたい。

また、その彼が言うには「私の運勢」は今年、桑田の投げるカーブのように「変化」するらしい。それも今年2月からだと聞いた。結果から言えば、引退する間際の桑田のように「不安定」になるとのことだった。しかし、まあ、人が「2月から本気出す」と言っているのに、コレもんであるのだ。水を差すとはこういうことを言う。でも、ま、世の中や人生における変化とは、どうせ不安定を暗示するわけでもあるし、どこを探しても絶対安心の人生など落ちていないことも、社会で20年以上も働けばなんとなく知っている話でもある。

しかし、彼曰く、この10年間の私は、なにか水道管というかガス管というか、ともかく、なにか「運勢のパイプ」のようなものを想像してほしいのだが、言うなれば、私の10年間とは「そのパイプの中を安全に進んできた」に過ぎないということがわかった。そのパイプの中で、いくら上がろうが下がろうが、良くも悪くも「パイプの中の範囲」であったわけだ。実に彼らしい「私への悪口」であるが、彼の「こういうところ」が震えるほどムカつくのである。家に帰って風呂に入っているときに、思い出してムカついてくるあの感じだ。実に絶妙である。

だから、その10年に限り、私の運勢は落ちるとこまでは落ちないし、登るにも登れる限界は当然にあった。私は、その私の10年を「パイプの直径」という「限界」との引き換えで得た「安定」であったことに異論はなかったし、愚痴も不満もなかったのであるが、底意地の悪い彼が言うには、その「10年分のパイプが、そこで切れている」とのことだった。彼はこれ以前にも、例えば「虹の会での出会い」を言い当てるという恐ろしき能力を発揮したこともあるから、実のところ、私も軽口を叩くほど不真面目には聞いていなかった。ある意味、借金返済の期日を伝えられたように、どこかで帳尻は合わなくてはならないし、どこかで「変化する」ことは摂理であると、大仰ながらも真摯に受け止めていた。

ともあれ、あと半月もすれば、私のはその「切れたパイプ」の端から中空に飛び出し、2年ほど上も下もない世界を彷徨い、運が良ければ(日頃の行いが良ければ)、また、安定した「パイプ」に巡り合う(戻れる)わけだ。すなわち、広大な空間を自由に泳ぎまわりながらも、2年後には見えてくる「パイプの口」に照準を合わせて生きよ、というのが私の長年のメンターであった「とおみい店長」からの警句であった。

今、思えば、彼と働いた7年半、彼は公私ともに、いつも私に的確なアドバイスをくれていたと思い出す。波に逆らわず、それはまるで「イカの泳ぎ」のように、障害物があってもしれっと避けて、ムラッとくる誘惑もぷりっとかわし、するりするりと世の中を泳ぎ抜く、彼の生き様からのアドバイスであり、イカに血液はないけれども、実に血の通った助言でもあった。もし、私が彼の助言に素直であれば、私のパイプはともかく、大勢の社員が通るパイプくらいは守れたかもしれないが、残念ながら、私にそのような後悔の念がないことも、イカなら、いや、彼なら理解してくれていることだろう。

そんな彼は、出来れば、2年後に見え始めるという「パイプの口」の付近を(大人しく)彷徨いながら、「入口」が見えたら、しっかりとコースを確認した後、速やかに下降なり上昇なりしてロックし、安定した速度で「パイプの口」に飛び込むことをアドバイスするだろう。そうしてまた、しばらくはその「パイプの中」で安定した人生を進めば良いと、私の身を案じて、そう言ってくれるに違いない。いやいや、ほんま。いや、ほんま。


平成22年1月10日。

そんなことを思い出しながら、私は昼間の京都駅に向かうのであった。








駅まで送ってくれた妻と昼食をとりながら話す。

「今まで頑張ってきたんやから、ゆっくり好きなことしぃやぁ♪」

昨年から、何度この言葉を聞いただろう。こう言われると逆に「男はのんびりできない」と知っての作戦だろうか。でも、そういうセリフは、あと35年マッテ欲しい。おとしゃんは、まだ40にもなっていないんだョと言いながら、13時過ぎの新幹線の乗車券を購入。

博多行きだ。喫煙ルーム近くの指定席をとってくれた。しかも、この時間、良い感じでガラガラだろう。妻は「ガンダムに初めて乗ったセイラさん」の如く、まごまごしながらガチコメタンクに乗って帰って行った。「いってらっしゃい」と「いってきます」を間違えてもいた。この場合は「いってらっしゃい」のほうがよい。んで、ここで「ハゲリーマン川柳」をひとつ。


気をつけて、される心配、する心配


ちよたろです。






新幹線で3時間半ほど。東野圭吾の「赤い指」を読んでいると、信じられないほど早く着く。昼食は済ませたし、弁当も喰わず、ただひたすらに本を読んでいると、ラスト近く、ちょうど良いところで、ちょっと泣きながら博多駅に到着。見渡すと「IC乗車券」のポスターが「ICOCA」から「SUGOCA」に変わっていることに気づき、なんとなく博多だと認識する。ホテルは「サンシャインホテル123」の1号館を予約してある。フロントで「マッサージは何時がよろしいですか?」と聞かれたから「いらない」と言ったら2千円も値引きしてくれた。どうやらマッサージ込みの値段だったらしい。黙っていればわからないのに、なかなか親切なホテルである。覚えておこう。浮いた金でパソコンを借りた。

すぐにチェックインして「続き」を読む。最後まで読んで号泣してからシャワーを浴びて、パソコンで報告してから繰り出す。もちろん、行先は「中洲」である。

タクシーの運ちゃんと話すと、いくつか「中洲での飲み方」を指南される。先ず、川沿いにある屋台は観光客からぼったくるから近寄ったらダメだということ。この大きい道路を挟んで右側がお酒を飲める店が並ぶということ。左側はパンツを脱がねばならない店が並ぶということ。運ちゃんの「お勧めコース」は右側で串焼きを喰いながら焼酎を飲んで、それから左側に移動してパンツを脱ぎ、帰るふりをして右側に再度移動して「博多ラーメン」を喰って帰れとのこと。根が素直な私は、タクシーを降りるとすぐに「川沿い」に行った。こっちは普段、どこで飲んでると思ってんだ、この明太子どもめ。


そういえば、私は台湾での初日もひとりで飲み歩いていた。初めての外国旅行で初めての街で言葉も通じないのにである。もちろん、心細いのだが、なんか、そのときは虹の会長が付き合ってくれなかったから仕方がない。「飲みに行きますですよ!」と言ったら「あ、そうですか」と返されたから、ひとり寂しく台北の夜を満喫したという悲しい思い出もある。だから、博多なんぞ怖くない。言葉も通じるしね。


器用な子供が作ったような屋台が、なるほど、川沿いに並んでいた。この川は「那珂川(なかがわ)」というらしい。とりあえず目に入ったのは4~5軒の屋台。橋の向こうには「ラーメン」と書かれた看板をあげている屋台が並んでいる。こちら側が「飲み屋」という感じだ。もしかすると、ぼったくりはこちら側なのかもしれないと警戒しながら硝子戸を開ける。こんばんは。




時間はまだ7時を少し過ぎたところ。たしかに腹は減っているが、修学旅行でもあるまいし、いきなり博多でラーメンでもあるまい。ドキドキ期待しながら、その端っこの店に入る。客はカウンターの端に一人いた。


「ひや酒と・・・・」


と言ったところで、ケースの中の「鳥ナンコツ」がみえた。ついでに豚バラとか無難なものを注文する。美味そうだったし。カウンターの客もひとりで飲んでいる。サングラスをかけた50代半ばほどの男性だった。何を喰っているのかとチェックすると、そのサングラスも「ナンコツ」と「豚バラ」だった。飲んでいるのは焼酎のお湯割りだった。しかも、一升瓶ではなく、グラスでもらっている。ははん、同じ境遇だな?会社の出張?と踏む。



ひや酒飲んで串焼きを喰っていると、白髪ながら表情が若い大将が話しかけてきた。



「どこからね?」



なぜに地元の人間と思わないのか。私はまだ、一言も発していない。なるほど、それはここが「ぼったくり屋台」だからであろう。地元の人間など近寄りもしない、まさに中洲に張ったアリ地獄、観光客から法外な値段をぶんどり、文句言ったら「怖い明太子」がぞろぞろ出てきて、たぁらこぉ~たぁらこぉ~♪とか歌いながら殺されて、博多湾で明太子にされるわけだ。では、この豚バラはいくらするのか?2000円?もしかして1万円?



「明太子、どっかで喰うたかよ?」

「いや、まだ・・・あの、まあ、でも、」

「ちょっと炙るから、喰ってみるぅ?」

「う、うん、あの、あのね、」



背は180センチほどで痩せ形。ちょっと長めの白髪は、風が強い所為か若干の乱れがある。ゆったりとした動きだが、油断していると、嗚呼、ほら、もう店の外でタラコ焼いてる。豚バラで1万円だとすると、タラコ焼かれた日にゃ10万円は下らないだろう。それに、よくみると、だ。店の中はこれでもかというほど年季がはいっているが、まな板だけがピカピカのこの店、なにやら、もしかすると・・・



「ほれ、喰ってみぃ?」









・・・・・・・・。



炙ったの?これ?




「保健所がうるさいからね、生は出せんと」




ふぅん。




・・・・・・・・・・・・。



な、なんだこりゃ。いったい、これは・・




「・・・・・うまかろ?」






・・・うん。お酒、も一杯。


サングラスのおっさんが興味津々である。



「これ喰いましたか?」

「いや、まだ・・」

「喰ったほうがいいっすョ!タラコの概念が変わります!」

「そ、そうだね、おじさん、僕も明太子!」

「どこですか?」

「京都です」

「京都はよく仕事で行きます!京都のどこですか?」

「宇治市です」

「僕、東京から出張できたんですよ!博多は初めてでね!」


東京在住50代男性。友達ゲットだぜ。





大将も交えてわいわいとする。一軒目なのに相当飲んでしまった。しかも日本酒ダッシュ。あれほど今日はゆっくり飲もうと、最初は「とりあえずビール」というルールを守ろうと思ったのに、内閣の助言と承認に基づき、日本酒を飲んでしまった。なんということか。んで、いったい、いくらなのか?どんとこい。

「3100円」

なに?

3万?

「3000円でよか」

・・・正直、すまんかった白髪よ。違うんだ、さっきのタクシーがね、川沿いは危ないと、ね、もっと高いと聞いてたからね、

「向こうのラーメンは止めたほうがよかったい」

「おでんでも200円も300円もとるったい」

な、なるほど、そのレベルね。これならメッセンジャー黒田も捕まらんかったいね。





そのあと、居酒屋風の屋台をひとりでもう一軒。ここも美味かったい。そしてブラブラと焼き鳥屋に入ると、見慣れないメニューが書かれている。自分がどれほど「世間知らず」なのかが身に沁みる。しかし、なんの、聞かぬは一生の恥、これはなんですか?



「四つ焼き」・・・・「焼き鳥」
「牛さがり」・・・・「牛の角膜」
「すもつ」・・・・・「コブクロ(牛)の酢の物」



留学してきて2年という支那人青年が「おい支いでしョ?」と話しかけてくるから、まあ、美味しいね、と返す。芋焼酎をロックで数杯飲んで出る。結構出来上がってきた。



調子に乗ってスナック2件にキャバクラ3件(ほど)ハシゴする。無料案内所の兄ちゃんが目を輝かせているから、すっとシラフに戻って美味い博多ラーメンを喰わせろと言う。もう、とっくに日付変更線を大きく越えている。このままでは博多で数日間遊んで終わる可能性も否定できない。「対馬観光手記」が書きたいのに、このままでは「博多風俗事情」になってしまう。それに、大阪に戻るころには、せっかく治りかけたもぐーが、またパンツの中で明太子みたいになっても困る。私にはその自信がある。


それに、今気付いたのだが、今回の旅行で予定していた費用の、既に半分が消えている。なんという御利用は計画的であろうか。我ながら、そんなところが憎めないのである。






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