忘憂之物

火天の城と天空の城の差異について

■2009/09/14 (月) 火天の城と天空の城の差異について1

「火天の城」を観に行った。(はぶて師匠評価A)

「二代目弥右衛門」といえば泣く子も癒される虹の会の会長であるが、この映画に出てくる「宮大工」の総棟梁は西田敏行扮する「岡部又右衛門」である。

まったく素晴らしい役者である。もう、大ファンなのである。(もちろん、二代目弥右衛門のファンでもある。ファンクラブ会員番号23番)しかし、まあ、なんというか、感動するのは「岡部又右衛門」の職人魂や、コレまた泣かせる大竹しのぶ扮する女房「田鶴」と繰り出す「内助の功」だけではなく、多くの顔も名前も知らぬ職人や“女子(おなご)”たちの姿そのものである。

いやはや実に、「民の力」こそが歴史を創ってきたのだと痛感する映画でもあった。まさに「大阪城を建てたのは誰でしょう?」→「ひ、ひでよし!」→「ぶーww大工さんでしたぁ♪」→「うわぁやられたぁ~ぎゃふん!」なのである。

映画の中で「岡部又右衛門」は、他の職人達からその熟練された腕前に畏敬の念を込めて「神の手」と呼ばれているのだが、その職人や女子達の必死の努力、協力にこそ心を打ち抜かれ「おまえらこそが、神の手じゃ!!」と泣き崩れるシーンがある。私の中では名シーンだ。私はもう、その前からずっと泣きながら観ていたから、横に座る妻に「もう、おとしゃん、泣き過ぎぃ!」とウザがられた。そんなこと言われても、それほど「民」と「女子」の姿勢に感動したのだから仕方あるまい。そして、とくに「女子」である。

築城の様子を見に来た織田信長が「女子は・・・よう働くのう・・」と言った後、更に、「女子が元気だと国が活気付くのだ。」と満足そうに語るシーンがある。また、親柱にするはずの「檜」の到着を心待ちにするも、なかなか届かない「檜」に全員が焦り始め、職人達の取りまとめも難しくなるころ、「岡部又右衛門」はつい、家で妻に八つ当たりする。

「2」へ

■2009/09/14 (月) 火天の城と天空の城の差異について2

いつでも笑顔で又右衛門に接し、包み込むような雰囲気を醸し出す妻「田鶴」に茶碗を投げつけたあと、又右衛門は「なんでおまえはいつも笑っておるのじゃ!そんなにワシがおかしいか!」と怒声を浴びせるも、「田鶴」は涙を堪えて「女子は家の日輪と躾けられました。お気にいらねば謝ります。ですが、女子が笑う家は栄えると父上に教えていただきました。」とやるわけだ。胸を打たれるではないか。

スクリーンの中の又右衛門も「良い親父様じゃったのぉ~~」と感服してしまう。私も「そうじゃのぉ~」と感極まって泣いているのだが、その隣に座る我妻は「七輪?」と聞いているけれども放っておくことにする。「女子は家の七輪」・・・うん。我妻は今日もよくわからない。

ともかく、妻の「田鶴」に諌められた又右衛門は気晴らしに外へ出る。すると、そこに「蛇岩」と呼ばれる超巨大な岩の上に座り、月見をしながら酒を飲む夏八木勲扮する「戸波清兵衛」に会う。又右衛門は「田鶴に教えられた・・ようやくわかった・・」と告げると、清兵衛は「いまごろか?」と大笑いする。そしてふたりは「女子には適わんwww」と酒を酌み交わすシーンもある。私には印象的なシーンだ。

重い石を動かしたり、巨大な親柱を引き上げたりする際は“女子(おなご)”も協力する。手から血が噴出しても縄を掴む。また、炊事や洗濯などの「後方支援」もこなしながら、あちらこちらに愛嬌を振りまいて男どもを癒す。家では主人を気遣いながら、身を挺して家を護る。男どもは仕事に戦に精を出す。腕と頭と根性で女子供のために命を削る。

支えたり引っ張ったり、引っ張ったり支えたり、そのときそのとき、役割が変わりながらも、ともかく、懸命に生きていく・・・・・・・・・・。

「3」へ

■2009/09/14 (月) 火天の城と天空の城の差異について3

-
-

ひと昔前、女房を評して「さ・し・す・せ・そ」としたらしい。

料理の「砂糖・塩・酢・醤油・味噌」ではなく「さ・裁縫」「し・始末」「す・炊事」「せ・洗濯」「そ・掃除」というものだ。この「さしすせそ」が出来ている嫁が「良き女房」とされた。

ところが、今は「か・き・く・け・こ」らしい。

なんでも「か・家庭管理」「き・教育」「く・工夫」「け・計算」「こ・行動力」に偏向されたようだ。時代が変われば価値感も変わると言いたいのだろうが、この「かきくけこ」をよくみると、なんだ、「さしすせそ」が「劣化」しただけではないかと気付く。

つまり、大の大人が集まる場所にでも「手を洗いましょう」とか「トイレはきれいに使いましょう」とか「挨拶をしましょう」などという標語を貼付されているに等しい「観念の劣化」がみられるのである。

すなわち、「かきくけこ」は「出来ていて当然」だったのである。そんなことをダメ出しされるような“女子(おなご)”は嫁に出られる「女性」とは峻別されていたのだ。無論、「男性」も同じく、「外に出て稼ぎを得る」ことはクリアしていて当然のハードルだったわけだ。

普通、それらができないとき、昔の日本人は恥じた。足らないことは何かを懸命に探し出し、それらを克服することで男も女も「一人前」の称号を得た。そういう男と女が社会を支えて引っ張っていた。「できないこと」が責められるのではなく「やらないこと」が斬り捨てられる社会だった。金があるから貧しいからではなく、それは摂理だった。

「大工の仕事はしたくない」と言って織田信長を批判する者は映画に出てなかった。「(この仕事に)向いている・向いてない」という観念など挟み込める隙間はなかったのだ。「なぜ、女性が棟梁になってはいけないのか!」と又右衛門に食って掛かる「女性」も登場しなかったし、「茶碗に一杯の米しか食べてません。夢も希望もありません。尾張の国が保護すべき。」という家族も見なかった。それでも皆、必死に明るく楽しく生きていた。

http://www.asahi.com/paper/editorial20090913.html
<新政権の日本―女性を生かす社会に>

日の本の国における「乱波(らっぱ)※スパイ」の集団のような朝日新聞に言われなくとも、大和の民は安土城が出来る前からとっくの昔に知っている。それよりもむしろ、もし、織田信長がいた時代に朝日新聞があったら、どんな提灯記事を書くのかを想像するほうが面白い。うぅ~~ん、のすたるじぃ~~♪
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「過去記事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事