忘憂之物

野良犬からの警句

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 1

「いきつけ」のペットショップに行く。

「むーちゃん&りーちゃん」のごはんとおやつを買いに行くのだが、「りーちゃん」は口が肥えてきて、もう、好きなものしか食べない。エサ箱の中をひっくり回して『好きな味』だけを食べる。もちろん、残りは全部「むーちゃん」が処理する。

そんなかわいそうな「むーちゃん」には「ささみジャーキー」を買ってあげた。男の子だし食いしん坊だから、やはり、「ガッツリ系」のおやつを喰わせたい。このジャーキー、確かに美味い(喰うな)。妻と「りーちゃん」は乳ボーロでも喰っていればいいのである。

何種類か買って帰る。たまには犬専用のシュークリームとかアイスクリームなんてもの買う。飼い主の愛玩精神をくすぐる商品がたくさんある。「うちの子、これが好きなのよねぇ~♪」である。妻は「もうすぐ寒くなるから!!」と私の反論を許さずに『犬の服』なんかも物色している。ンなもん、私でも体中に毛が生えていたら「服を着るかどうか怪しい」のに、犬がしゃべれたら「おかしゃん、堪忍してください(泣)」と言うに知れている。

でも、妻がそうなると長くなるので、私はそんなとき「車で本を読んで待つ」か「ペットを見て回る」のである。その店にいる『連中』も覚えているから、軽く挨拶して回るのだ。

色んな子犬や子猫がガラスケースに入れられている。10万円とか20万円とか書かれて、新聞紙の床で寝ている。そう、朝日新聞はこんなところにこそ役立つのである。「紙・宣言。私たちは朝日新聞です。オシッコとか吸います。」なのである。

実は、私はあまり犬猫に詳しくない。アメリカンなんとか~~とかミニチュアなんとか~~なども覚えない。覚えるのは色とか顔だ。あとは値段か(笑)。

「2」へ

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 2

いつもいるダックスフンドが9500円になった。こいつも最初は10万円くらいだった。でかくなって値下げされたのだろう。私は、

『おぉ~~とうとう1万円を切ったかぁ~~予防接種もサービスセットになってるしww』

と挨拶する。ダックスフンドはちょっと嫌な顔をする。

そして、ついに「あいつ」がいなくなった。少しだけ探してみたが、店にはいなかった。その店で一番でかくなった「あいつ」である。いつもでかい声で「わんっっ!!」と吼えていた。毛は茶色で鼻の長い「あいつ」である。種類は・・・ナントカなんとかだった。

私が記憶していた金額は5千円。それでも残っていた。私は「そいつ」にこっそりと「売れ残り」と名付けていた。

妻が「連れて帰ろうか?」と言ったことが何度かあった。目が見えなくなった道端の猫でも連れて帰ろうとする妻であるから、この「売れ残り」が売れ残ったらどうなるのかと思ったのだろう。

しかし、無論、私の答えは「ダメです。」である。でかいし、我が家にはもう2匹もいるし、それに、こうやって売れ残るのは「売れ残り」だけではない。私はムツゴロウさんになるつもりもないし、要するに限界がある。今がそうではなくとも、いずれ「最後の一匹」が飼えないときがやってくる。それに先ず、我々が生きていかねばならない。ペットはペット、本来、私は「ペット反対派」なのである。それでも許容できる範囲として「一家に一匹」くらいであると以前から言っている。「家族」として扱える範囲はある。

妻が来た。私が「売れ残り」を探していることにはすぐ気付いたようだ。

「売れたなぁ~~“あいつ”も、やっとなぁ~~ww」

店員さんに聞くようなマネはできない。聞けばほっとするかもしれんが、無用な罪悪感に襲われることもある。人には限界があり、できることとできないことはあるべきだ。ここは妻の意見に従っておくほうがいい。全てを察してモノを言う妻であることは、誰よりも私が知っているし、それで大いに助かっているのだ。妻が「売れた」と言うなら売れたのだ。今頃はどこかの高級住宅街にある公園でマーキングなんかしてるのだ。

「3」へ

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 3

我が家の「りーちゃん&むーちゃん」も、もう人間と一緒でなければ生きていけないと思う。シーズーなんかは「玩具犬」と呼ばれる種類で、元々、自然界に存在しない種類らしい。「りーちゃん」は自分のことを私の「奥さん」だと思っているし、「むーちゃん」などは散歩に出かけても、木が左にあるのに右足を上げてオシッコするほど阿呆なのである。

でも二匹とも、いくら弱くても阿呆でも生きていける。病気をしても怪我をしても、すぐに病院に連れて行ってもらえる。妻の「おもちゃ」としてストレスはあろうが、それでも慣れれば、安全に贅沢に暮らせる(我が家・比)。すなわち、皮肉が過ぎる言い方であるが、「飼われている」という事実を受け入れることで、その短い生涯を保障されるわけだ。

その点、道端の猫は運が悪いと目が見えなくなる。野良犬と違い、野良猫はタウリンを摂らないと視力がなくなる。猫が魚介類を狙うのには訳があるのだ。ある意味、自由との引き換えであるが、その生涯はリスクと隣り合わせである。

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今年に入って社員が3名退社した。全て新入社員だ。数名採用しても1人か2人残ればいいところか。私も以前は「離職率」なんて言葉を使いながら、新入社員のモチベーションを保つ企業努力が必要だと熱弁を振るってきた。それは例え「出勤すら出来ない」という状態であっても、なんとか連絡を取り、会って励まし、相談に乗り、小学生のような理屈に付き合いながらも、コレも仕事だと割り切って対応してきた。本人が「辞めます」と決めるまでは、なんとか頑張ってもらおうと慰留する形をとってきた。だから、

「4」へ

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 4

だから――――

「甘い考え」は十分知り尽くしたつもりだった。今はそれでよくとも、いずれ、近い将来、例えば親の力が弱まったりすれば、嫌でも現実を突きつけられる日が来る。生まれたての馬や牛が自分の足で立つように、いつまでも牧場主が哺乳瓶で乳をくれることはないと知る日が来る。「甘い考え」はいつか捨て去らねばならないし、その日が来ることは確実だった。どんな阿呆でも、それには気付いていた。

また、それは「環境の所為」だと言うこともできた。「一億総中流」といわれた時代に生れ落ちた者は、おそらく戦後始めて「安心安全で豊かな暮らし」がグローバルスタンダードだと思った。「手に入れた」のではなく「最初からあった」のだから、何ら不思議にも思わなかった。それより以前の金持ちは、まだ金持ちとしての自覚があったのだろう。

しかし、昔の金持ちが、今は普通となった時代に生まれた者は、本気で「貧乏生活」を知らない人間かも知れない。遠く海の向こうに「恵まれない人々がいる」ということは知っていても、それは日常、目にすることのない出来事だった。日本国内における「恵まれない人」は希少価値が出た。「差別」という言葉が脚光を浴びる時代だった。

だからこそ、その中の「貧乏人の子供」は悔しがり、世の中の不条理に憤るパワーを得た。こんな時代であっても、人生のどこかでは前を向いて歩き始める必要にかられた。最低でも「自立せねばならない」ということはDNAに擦り込まれていた。だから、できなければ焦るし、ちゃんと絶望して、自暴自棄になった。しかしながらちゃんと、そういう連中にも「歩むべき道」は用意されていたのである。要は「行くか行かないか」という選択であり、「いつ行くか」を決めればよいだけだった。『覚悟』を形成するだけだった。

「5」へ

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 5

「就職氷河期ってなんだ?ウマイのか?」という世代は『フリーター』という造語に何も感じない。「とりあえず、就職難だし、今はスキルを身につけたほうが有利だってば!」と言いながらアルバイトに勤しみ、空いた時間に勉強に励む同世代を見ても、それは学生時代に味わった感覚であったから、とくに何も感じない。自分たちはそうではなく、目の前の仕事に精を出し、人の倍でも働いて「ひとかどの大人になる」ということを目指しているのだという自負心もあった。つまり、簡単に言うと「どこかでちゃんとせねばならない」ということを本能的に悟っていたのである。ただ、“その道”が何本かあっただけだ。

不満や疑問を感じる間もなく働いた。仕事を覚えていくことが楽しくてしょうがない。任されることで自信もつき、抑えつけられることで学んだ。阿呆タレがいつかは通る道だった。牙をむき出しにする野良犬でも叱りつけ、噛み付いても抱きしめてくれる社会があった。「何をせねばならないのか」を学び、「何故しなければならないのか」に気付く。

「やる」と決めてやることは、決して「ただ、生きるためにやること」ではないと思う。生きるために仕方がなく「やる」ことは「やらされてる」わけだから、つまり、奴隷なのだ。「生存したい」というだけのモチベーションである。「人間」が「ヒト」になる瞬間かもしれない。奴隷は食事をもらうとき、もしかすると「もっと美味いものをたくさん欲しい」とは思うかもしれんが、決して「与える側」になろうとは思わない。

コレを奴隷と定義してもよいのではないかと思う。

野良犬が社会の中で認められて自覚するときに思うことは「同じような野良犬」を気付かせてやりたいということだ。強い野良犬も弱い野良犬も、同じ野良犬だと思い、情をかけて育てようと思うのである。我が社でネクタイを締めて、決して安くない給与を持ち帰っている連中も、昔はみな野良犬だ。「腕」だけで喰ってきた群れの長もいるし、テキトーに繁華街をうろついて喰えるものを探していた要領のよいのもいるが、今では自らの意思で首輪をつなぐ。理由もなくエサ箱を大きくしても「なぜだ?」と問う「元野良犬」だ。

「6」へ

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 6

そして、躾が厳しいからと言って逃げ出す野良犬がいる。極自然な出来事だ。また、エサが少ないと言って振り返らずに立ち去る野良犬が居てもいい。「飼われて」いても所詮、そこは序列社会だから「あんな奴の次は嫌だ」と戦わずに消えることもあろう。それもいい。

だが、最近はどうも様子が違う。

悔しがってもいない。憤ってもいない。とはいえ、満足しているわけでは決してない。あえて言えば、「あきらめている」のである。まだ30歳にも満たないのに「あきらめている」のである。私はコレに驚愕するのだ。久しぶりに、対処不能だと弱音を吐くことになった。

これを「小泉構造改革の所為だ!」と批判されれば、思わず、なるほど!と納得しそうにもなることも理解できる。だが、それを「大量の野良犬を作るシステム」と言うのだったら、それは違うと反論も出来る。つまり、こいつらは「野良犬の自覚すらない」のである。

言うなれば「負け犬」だ。負けるために生まれて、負けるために存在するのだ。負けていることが前提であり、負けていることに安心すらする。負けていることが現実であり、負けていることが自慢なのだ。負けていることを求め、負けている実感が欲しいのだ。

そら、相手を食い殺してでも生き抜く野良犬に理解できるはずもない。いくら考えても、いくら悩んでもわからないはずだ。もう「負けていた」んだから。

「7」へ

■2009/09/15 (火) 野良犬からの警句 7

また、負けた犬は「尻尾を丸めて下を向いて道の端を歩く」という常識もなくなった。その理由は上記の通りだ。負けていることは自慢なのだ。だから道の真ん中を堂々と歩く。俺様は負け犬だ、さあ、どうしてくれるんだと、さあ、どうやって俺様にエサを差し出すのかと、尻尾を振り上げ、飼い主を品定めしながら天下の往来を我が物顔で歩くのだ。

http://www.nhk.or.jp/kitakyushu/lnews/03.html
<若者の生活保護受給が急増>

「負けている」わけだから、何かくれても感謝はない。「勝ち方」は「生き方」のことなのに、それを教えてもらっても感動はない。「負け方」を学ぶことは「勝ち方」を学ぶことなのに、それを学ぶ理由すら考えない。

エサをくれる相手が「会社」なのか「国」なのかの差異には興味がない。「何をしてエサをもらうのか」には意味がない。自分で喰うのか喰わせてもらうのか、すらどうでもいい。

<北九州市で生活保護を受給している人は去年と比べて16%増え、このうち20歳代と30歳代の若い世代の数が50%余り増加していることがわかりました。>

こいつらは世の中が「勝者と敗者」で成り立っていることを知らない。勝ったり負けたりの意義を知らない。最初から負けている「敗者」など存在し得ない。つまり、こいつらは存在しない。呼吸はしているだろうし、メシも喰えば糞もする。セックスもするだろうし、携帯電話も持っているだろうが、こいつらは世の中に存在しているはずのない存在だ。

平成21年。日本。

20代~40代男性の死因のトップが癌を抜いて「自殺」になったらしい。

自然の摂理だ。

コメント一覧

久代千代太郎
>オグラ様


いらっしゃいませ。

ありがとうございます。いやぁしかし、


>負け犬をどうにかして野良犬にしてやるのが、私の年代の役割なのかなとも思いました。



なるほど。

その手が残っておりましたか。なるほど。


ちょっと、がんばってみますね!

オグラ
コメント失礼します。
驚くほど納得しました。
私は31歳、高卒のチョイワル(笑)会社員です。
負け犬が理解できない、負けたくない野良犬のつもりですが、読ませていただいた今、何とも背筋が伸びる思いです。

負け犬をどうにかして野良犬にしてやるのが、私の年代の役割なのかなとも思いました。


長文失礼しました。
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