忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

中国、日中国交50年式典を検討今年9月の対面開催を伝達

2022年01月22日 | 忘憂之物





いささか古い話になるが、卑弥呼の邪馬台国が「親魏倭王」の称号と金印をもらったのは239年。たぶん、私もこれを読んでいる人も、誰もまだ生まれていないと思われるが、この金印とは中華王朝が称号と印、暦を与えることで中華秩序の一員になる、という儀礼だった。冊封体制だ。

しかしながら、どこでもだれでも金印は持ってなくて、わかっているのは邪馬台国と雲南の滇(てん)王国のみ。「親魏」の称号も卑弥呼とインドのクシャーナ朝、大月氏だけだ。それだけで当時の邪馬台国とは東アジアの大国だったとわかるが、それでも朝貢には違いない。ちゃんと邪馬台国は奴隷を160人とか献上もしている。

こんな朝貢関係が607年まで続く。ここで有名な小野妹子とか聖徳太子が出てくる。「日出づる処の天子~~」だが、このとき小野妹子は隋の煬帝に対して、こんな奏上もしている。「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く」。

聖徳太子の国家理念は「仏教立国」。つまり、隋の国から西、インドから興った仏教は我々共有の価値観ですね、とポリコレをしたあと、国書の「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや 」を読ませた。ちなみにこの翌年の国書には明確に「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す 」と書き出している。あんたとわたしは対等、同等だという宣言である。

この時代に河野太郎がいれば「威勢のいいことを言っておけば良いとの無責任な声が増えているのは、大いに懸念しなければならない 」とか言いそうだが、べつに聖徳太子は反中のネット右翼だったわけでもなく、隋が当時の朝鮮半島北部、高句麗と揉めていたことを知っており、且つ、中国伝統の戦略「遠交近攻策」を知っていたからだった。これを国際情勢に基づいた外交政策という。ここからおよそ1000年以上、日本は中華王朝から官職も印も暦も受け取らない国になった。完全なる政治的独立。恐るべきは聖徳太子の外交センスだ。

しかしながら、親中派の輩は昔からいて、室町幕府三代将軍、足利義満は明との貿易のため、明の使節に臣下の礼を尽くした。二代目皇帝の建文帝は義満を「日本国王」にして冊封、明の大統暦 が授与されて朝貢が復活している。いまでも中国を怒らせたら日本の経済界がダメージを受けるぞ、それでもいいのか、と脅してくるコメンテーターなどがいるが、足利義満もこんなんだから庶民から大いに嫌われていた。

他にも明の始皇帝、洪武帝 から「洪」の文字をあやかりたいとかで元号にしようとした。公家から「洪水の洪は不吉だろが」と猛反対されてギリギリ「応永」になったりもした。明からの使節団を迎える際には唐人の装束を身に着けている。自民党にもたくさんいるどっぷりの親中派だ。実に気持ち悪い。

「媚中政策」は病気で死んだ義満の跡を継いだ義持が1411年に明の使節団を追い返すまで続いたが、本当に時代は繰り返しているのだろう。いま、令和4年の現在においても「対面開催を」「伝達」とか言われている。もちろん、普通は「提案」だ。「伝達」という日本語には命令、指示という含意がある。

ちなみに室町幕府はこのあと衰退していく。そして1573年、織田信長が義昭を京都から追放するわけだが、その1年前の1572年に明は10歳の万暦帝が即位する。その後は楊応龍の乱 、文禄・慶長の役などが続き明朝財政は破綻、毎度お馴染み自然災害に疫病から大飢饉が発生、いつもの内乱勃発と荒れに荒れて、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺 。1644年、明は滅亡した。日本は江戸時代か。「武家諸法度」とかやってる頃だが、これから1868年くらいまでミラクルピースだ。つまるところ――――


時代は繰り返しているかもしれないが、わかり切ったことは、中国と関わっていると碌なことがない、という歴史的事実だ。習近平王朝も同じパターンにはまっている。水害から疫病、次の大飢饉に備えている。財政破綻から内乱、騒乱も燻り始めている。次は対外戦争だ。

四の五の言わんで先人から学ぶべきだ。隣の半島と同じく、火事と葬式以外、放っておくに限る。どうしてもというなら「遠交近攻」は真似してもいいが、岸田政権の「遠交近(交)」は愚の骨頂だ。




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