忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

さて、面白くなってきた

2011年01月28日 | 過去記事
パチンコ屋の店員に「いらっしゃいませ」と初めて言わせたのはマルハンだとされている。その1号店は私が住む京都にあった。1957年に喫茶店「るーちぇ」の店内に設置された小さな「パチンココーナー」だったそうだが、それから更に時を経た静岡県内の同企業の店舗で、パチンコ屋としては奇異な挨拶が行われた。いらっしゃいませ。

20年ほど前でも、まだパチンコ屋といえば、パンチパーマのおっさんが裾の短いスラックスを穿いて、両替機の上に缶コーヒーを置いたまま、咥え煙草で立っているだけという店もあったから、そのギャップはすごいものがあったと推察できる。当時はドル箱の交換などもしないし、客に対しては上から目線で「出入り禁止にするぞ?」という意欲満々で働いていた。現在のように客にマッサージしたり、なんでも走って行ってきます!というようなスタンスは、実のところ最近のことだったりする。静岡でマルハンが「いらっしゃいませ」と客に頭を下げたら「馬鹿にしているのか?」と詰め寄られることもあった。

カウンターの中には太ったおばさんか不細工なおばさん、もしくは、太った不細工なおばさんがいて、無愛想な態度で特殊景品を渡されることになっていた。従業員は男性でチンピラ、役職はヤクザ、カウンター内のケバイ女は店長の愛人というのが相場だった。しかしながら、それらの古い慣習は一掃され、若くて綺麗な普通の姉ちゃんがホールを走り回り、役職者はネクタイをしてビジネスマン顔負けの仕事をする。実際、不景気も手伝ったのか、能力の高い人が大量に入り込む業界となった。

私が「遊技業」にお世話になったのは10年と少し前だから、そのころにはもう「いらっしゃいませ」は当たり前のことになっていた。業界のネガティブなイメージは変わらないが、それでも「総合アミューズメント」としての社会的な地位を確立していた。しかし、幹部候補生として採用された私は、当時の総務部長から「現場に出れば理想と現実の乖離がある。それを何とかして欲しい」と言われた。まだまだ「古い習慣」が抜けきっていないのだと、その総務部長は憂いてみせた。

現在はどうか知らないが、その頃の業界は人材不足だった。アルバイト感覚の社員が現場で跋扈し、レベルの低い軋轢などは当然、しょうもない不正もあった。「パチンコ屋の収益の半分以上はパチンコ屋の店員の財布」といわれるほど、先を考えて生計を立てる者も少なかったし、中年過ぎても玉を運んでいればいい、とばかり計数管理やら店舗運営の概念やらを学ばぬ者が溢れていた。「吹き溜まり」とか「たこ部屋」というイメージから脱却できず、また、事実、そのような生活を送り続けて何の疑問を持たぬ人材はたくさんいた。

消費者金融に多額の借金がある状態で、店の両替機や金庫の鍵など渡せるか、というのが私の持論だった。会社の弁護士を頼んで債務整理させた社員も少なくない。20万円か30万円の給料から、多ければ半分ほど借金返済に充てる生活から、どうしても「将来的展望」を見据えた行動が取れぬまま年を重ねてしまう「失敗者」が大量に排出されたと思う。

私はこれを「4時間サイクル思考」と名付け、対象者には個別面談してまで「生き方」を考えてみるように勧めたりもした。無論、ほとんどが大きなお世話に過ぎなかったが、そのうちの何人かは実践して立ち直っていった。借金がキレイになり、貯金が出来るようになると、人は趣味やら楽しみを考える。存外、そういう観点からしか有意義な発想も期待できないし、プラス思考の癖もつきにくい。

カネというものは「あっても邪魔にならぬ」というが、アレは真っ赤な嘘で「あり過ぎても困る」ものだが、逆も真なり、無くても困るモノには違いないのだ。つまり、給与をもらっても借金返済が半分、そのうち生きていくために使う金がいくらか必要で、残ったのが数万円に満たないならば、普通、大人はその中から1万円でも貯蓄する。しかし、これが「4時間サイクル」でやられておれば話は別で、4時間後しか考えられぬのに数年先を見越して今を我慢する、など可笑しくてやっていられないのである。

ちなみに、この「4時間サイクル思考」というのはこうなっている。久しぶりに書いておこう。

8時に起床→12時に昼飯を考える。あるいは昼休憩の過ごし方。→16時。あと1時間ほどで勤務終了。どこのパチンコ屋に行くか、DVDを借りて見るか、仕事の後、何をして時間を消耗させるかを考える。→20時。パチンコに勝てば飲みに行くか、誰かを誘ってファミレスに行くか、寝るまでの時間を消耗させるために考える。→24時。次の日のことを考える。酒を飲んでいたり、友人らと話していると、これが4時へと移行する。→就寝。8時に戻る。


ここに変化を求めるには「休日」しかない。しかし、もう、お気づきだろう。休日とはいえ、上記の「4時間サイクル」からすれば「8時起床から16時まで」の間がすっぽりと無くなるだけの変化しかない。これが長期休暇になっても同じことだ。そこでは「休日の4時間サイクル思考」が連日繰り返されるだけとなる。旅行に行ったり、親に会いに行ったり、日帰りで何かを観に行ったりはない。それらはすべからく「計画」を要するし、その他の「都合」というものを勘案せねばならない。また、もちろん「先立つモノ」も要する。このような人らにとって「1万円」とは、どこまでいっても「1万円」なのであるから、これはもう、パチンコで使ってしまう以外の使い道がわからない。また当然、パチンコで消費するのはカネと時間であるから、その他の「計画」など入り込む余地もない。

私はパチンコが悪い、などまったく思わない。どころか、私は現在でも「パチンコとは日本の文化であり必要な産業である」と言い切れる。私が言いたいのは要するにバランスだ。昼まで寝ている休日はあっていいし、朝からパチンコ屋に並んで遊ぶのも楽しいものだ。しかしながら、それらの「息抜き」とは、あくまでも「息抜き」なのであって、それ以上の価値は絶対にない。私は「立ち飲み屋で飲む」ことが大好きだが、そのために生きているわけでもないし、仕事をしているわけでもないのと同じだ。

なんでもいいが、例えば「年に一回は国内旅行に行く。3年に一度は海外旅行に行きたい」とかでいい。こういう人らは「4時間」という思考に縛られていない。1年先が考えられる人は5年先も考えていることが多い。また、それが10年、30年、50年となっている。

無論、人生は計画通りいかないから面白いのだが、それを言うのも「指針」というか、目指す方向が定まっているから「計画が狂っている」と自認できるわけであり、そもそもから「無計画」ならば「狂っていることが正常」なわけだから、それは何処に行くのか全く分からない。そして、それはそのまま、ある程度の年齢に達すると「自分が生きている理由」すらわからなくなる。つまり、4時間後の確保が出来ない状態では生きていられぬほどの不安が襲ってくる。そこから自暴自棄になったりするのだが、多くの人はもう「その時間」がない。中年なら頼れるはずの親も弱っているし、現状の困難に対する向き合い方もわからない。外見はちゃらちゃらした中年であるも、中身が中学生以下なわけだ。また、これらは基本的には短絡思考のことであるから、現状改善の発想は奇抜で子供っぽいことになる。犯罪者になる確率が増す、わけだ。

そして、私はこの現象が「パチンコ屋に限らない」ということも言っておきたい。

介護保険制度が導入されたのは2000年だ。それまでは措置権者、いわゆる行政の公的責任の観点から「社会福祉事業における福祉に関する措置制度」で高齢者や障害者に対応していた。いわばサービス内容から費用負担までを行政が担っていた。

現在の介護福祉はライセンス業界とされるが、それまでは資格がなくとも、誰でも何でもやっていた。私がこれが悪いとも思わないが、それでも介護保険制度の上では、事実上、少額とはいえ利用者が費用を負担するわけであるから、介護する側のスタンスも問われることになった。行政も「そこらの親切なおばちゃん」に好き勝手やらせておくわけにはいかなくなった。

今、私はパチンコ屋時代、本社の研修を経て現場に出たときの「ギャップ」を思い出さずにはいられない。元広告代理店の営業部長だったという総務部長が言っていた。「現場の従業員はまだ、機械トラブルが直せて、休まずに出勤していれば、店長は無理だが、いつかは主任程度になれると思っている。しかし、もう、そんな管理職では業界で生き残れない時代になっている。これに現場の管理職も気付いていない。これからは数字もそうだが、人材管理もちゃんとせねばならない。社会保険加入を言っただけで会議が紛糾するなどナンセンスに過ぎる」

また「パチンコ屋の店員」の魅力とは収入面だった。社会保険加入もしていない企業はたくさんあったから、その分、手取りは良くなる。初任給の手取りで20万円を超えるのは当たり前だった。それに寮も完備で夫婦一緒に雇う時代もあった。地方から流れて来た中年が「スポーツ新聞を見てきました」と言っても即日採用された。よく冗談で言っていたが「紙袋一つでふらりと面接に来て、最初に言ったのは“とりあえず、何か食べさてください”だった」というのも現実の話だ。しかし、それでも勤務時間は異常だった。パチンコ屋の従業員は徹底的に時間を切り売りすることで自分を評価してもらえた。滅私奉公だ。

いま、介護の仕事をする人は例外なく「給料が安い」という。私が面接をしてもらった施設でも「この仕事はキツイし、大変だし、人の役に立つ仕事だけれど、世間の評価は不当に低い。それは収入面だけでもなく、介護をしているというと、ああ、大変だねぇと言ってくれるが、だれも自分もやりたいとは言わない」などと愚痴る施設責任者もいた。


はっきり書いておこう。

私は妥当だと思っている。評価が低いのは職種が評価されていないのではなく「人材評価が低い」のである。あの当時の「パチンコ屋の店員」と同じなのだ。比して給与が下がるのは、単純に労働時間が短いから、に他ならない。とある施設の責任者は「この仕事は大変です。なんといっても夜勤がありますからね」と自慢してみせた。私は全力の社交辞令で「それは大変ですね」というのが精一杯だった。どれほどの世間知らずなのか。夜になってから働きに出なければならぬ職種など他にいくらでもある。明らかに「割に合わぬ仕事」だと言いたいのだろうが、その根拠が陳腐に過ぎるから、この人は他の職種をご存じないのだろうか?と不安になることも少なくない。

もちろん、私はまだ現場の経験は浅い。しかしながら、20年以上、サラリーマンとして働いてきた「労働観念」というものがある。仕事は仕事なわけだ。その認識があるのとないのとでは圧倒的に違う。介護の仕事は特段きつくない。世間から思われているほど「大変な仕事」でもない。世の中には他にも「大変な仕事」というものは数限りなくある。また「命を預かる」といえば責任重大だが、そんなことはタクシーの運ちゃんから、電車の運転手でも飛行機のパイロットでも同じことだ。お医者さんや警察官などもそう、教師や市役所の生活課もそうだ。

そして、そういう社会の風潮は現場で働く職員に悪影響を与える場合がある。「割に合わぬ仕事」をさせられているならば、その勤務態度やら向上心やら、職業倫理やらに重大な悪影響を及ぼす可能性があると考えるのが普通だ。自分は安い給料で大変な仕事をしている、という自負心は誇りにはならず、それは鬱積された不満へと退行してしまう。仕事は事務的になり、悪い意味で「お役所的対応」となる。「やることになっている」で行うのは結構なのだが、それを評価するのはまた別の人、であるわけだから、その業務を自己評価したり、意義を考えて機転を効かせたり、ということが不可能となる。ここにも書いたが、例えば、毎朝全員が「口元チェック」とかやり、事務所の壁には「笑顔は口元から」という標語があり、今日の笑顔の確認をしてから全員がマスク着用する馬鹿さ加減に気付かない。

効率を向上させるための分業も責任の所在を曖昧にするために用いられている。私はいくつかの施設を見せてもらったが、そのほとんどで単純な悪平等も見られた。どんな職種でも職場での担当場所を変更することがある。横文字はアレだが、ジョブローテーションというものだ。もちろん、これを作業別で区分けることに問題はない。例えば「1段階をクリアした者」が「1段階に属する業務A・B・C」を任されることはどんな職場でもある。

しかしながら、職場にはこれとは別のところに指揮監督者というジャンルがある。これは技能や知識だけに限らず、その人間性やリーダーシップなどが問われるから「業務における技能段階」を踏まえ(出来ていることが当然)、職業倫理や社会的見識なども問われることになる。つまり、古けりゃ誰でもできる、というところにないと自明である。

私が知る介護施設にはこれをやるところがあった。理由はおそらく「人間関係を円滑にするため」などではないだろうか。だれでも指揮監督者をやってみたいという「権利」はあるからだ。無論、これは限定的にはあることだ。パチンコ屋で言えば「入れ替え作業」などがそうだったし、空いたコースやカウンターに入り込んで、他の従業者に休憩を与える仕事なども、「一通りの仕事が出来ている」ことを条件にして、いわば「人を使う練習」の第一段階としてやらされたりもした。有能な社員はそれらを経て、スムーズにホールを運営させることが出来るようになり、それから必要な技術や知識を身に付けることを求められ、全てをクリアすれば晴れて昇格の芽が出てくる。このような評価基準は他の職種でも同じようなものであり、それは運営する、すなわちマネジメントを行う者にとってのイニシエーション(通過儀礼)のようなものだ。ヒト・モノ・カネを動かせるようにならねば管理職にはなれない。

また「介護の仕事」におけるこれらが壊れていることは、ある意味で「ライセンスビジネスの弊害」だが、コレの自覚があるとないでは天地ほどの差が出る。「決まっているから」という理由だけで、任せてはならない人物にやらせてしまう。もちろん、実務的には「手慣れた誰かが仕切っている」のは当然であるも、そこには膨大な非効率が生まれるし、職務内容からしても、あってはならないリスクなども発生する。すなわち、例えば「利用者の転倒事故などの報告書」などを読めばわかるが、この原因はほとんどと言ってよいほど「担当者が目を離した」とされることが多い。しかし、おわかりだろう。これらの真因は「担当者が何をしているのか把握していなかった現場の監督権者」である。

「リーダーをローテーションする」という悪平等主義に基づく弊害なのだ。すなわち、これはゼロに近い確率で減らすことが出来る。監督権者が「監督する」という業務に徹底できないリスクは言うまでもない。職場内におけるイニシアチブがない状態で無理に監督権者の真似事をすると、この重要、且つ、難題な仕事である「観る」ということが疎かにされる。目の前の作業を悪平等からやろうとするのだ。くだらぬ理由はいくつかあろう。「偉そうにしていると思われたくない」とか「仕事は平等にしなければならない」などだ。

監督権者は従業者が働いているところでコーヒーを飲めねばならない。タバコを吸わねばならない。つまり、私の仕事はあなた達の業務指示、及び、管理指導だと胸を張らねばならない。これをして職場が円滑に運ぶよう人間関係を構築せねばならない。威厳を持たねばならない。尊敬されねばならない。慣れ合いはいらない。

担当者が目を離した隙に・・・とされるとき、真に重要なことは監督権者が現場にいなかったりすることだ。職員によっては無理をする者もいる。それはリスクと隣り合わせであるにも関わらず、職場の人間関係などを優先させ、あるいは、単純に人員配置が適切でないため、その場で発生した業務に無理をして対応しようとする。そこで事故発生だ。実害を被るのは利用者であり、そのご家族の方々だ。「プロに任せておけば安心」だと思っていたら、中身はとんでもないことになっていると知ればショックだろうと思う。

無論、そこにいるのはプロの職員だ。目の前で利用者がぐらついたら支えることもできるし、転倒のリスクパターンなども頭に入っているからなんとかできよう。しかし、それも「その場にいる」ことが大前提である。そのためにも適切な指示を行える者、一連の業務を円滑に指揮出来る者が「現場を司る」ことは重要なのだ。そこに平等精神はいらない。

「なんだ?あいつばっかり偉そうに!」という方には組織で働けないと知ってもらわねばならない。偉そうかどうかは別の問題であり、それよりも重要なことは適材適所の概念だ。



私は勤めることになった施設で、初日から主任介護士に問うた。

「施設長は利用者に対する敬語を守るように言っておりました。事務所にも書いて貼ってありました。そこの通路にも、更衣室にもありました。毎朝、朝礼でもやっております。しかしながら、それらが現場でなされていなく、且つ、誰もそれを注意指導せぬのはなぜなんでしょうか?」

最初にいくつか言っておきたい。先ず、私は今の職場で嫌われていない(笑)。虐められてもいない。それに、この場所は私の勤め先であり、今までのような「職場実習」ではない。だから、当然のこととして「従業者として」の立場から問う義務も権利もある。

しかし、だ。やはり有耶無耶にされる。また、その主任介護士は「ま、理想と現実というやつですかね?」と笑った。私は「つまり、本音と建前ということですかね?」と問い直すと、主任介護士は「そんなこと、ボクの立場からして言えるわけがないですけど・・・」と暗に認めた。

これは綺麗事ではない。私は利用者の家族がいると思って接しなければならないと教わったし、私もそう思っている。慇懃無礼にすることはない。「リハビリパンツのほう、お下げさせていただいてもよろしかったでしょうか?」などとやっておれば馬鹿丸出しである。しかし、利用者が座るテーブルを蹴ってよいわけがないし、冗談でも、どけや!ごるぁ!と恫喝して良いはずがない。室温の低いトイレで何ら声もかけず、いきなりズボンもパンツもずり下げて良いわけがない。お茶の入ったカップを「がん!」と叩きつけて置いてよいはずがない。スキンシップか何か知らんが、嫌がる利用者の鼻をつまんで遊んで良いはずがないではないか。昨日はなんと、携帯電話をしながら、片手でトイレ介助している女性職員がいた。その女性職員は私に対して「この仕事は忍耐がないとダメ。我慢強くないとできません」とご指導くださった人だ。勤務中、ましてや利用者の転倒防止のためにも携帯電話は我慢して欲しいものだ。


私は主任介護士に言った。

「私の母親が座るテーブルを蹴った介護職員がいたら、私ならその場で胸倉を掴みます」


「努力しているんです」という建前でやり過ごす連中が気味悪くて仕方がない。それも仕事で、だ。出来ていなくともいい。それはそれで別の問題だからだ。しかし「やっている」というポーズだけはダメだというのだ。自己負担金も支払って入所している利用者に対し、何よりも「人生の先輩である年長者」に対し、いや、その前に家族でもない他人に対し、おいこら、おまえ、とやって誰も注意をしないのは異常である。「この人はC肝やから(C型肝炎)」と本人や他の利用者の前で指さして言うのも、プライバシーがどうのと言う前にデリカシーが欠如している。認知症の利用者とはいえ、目の前で指さしながら「この人はボケてる、この人はマシ、この人は最近ボケた」なども、とても聞いていられない。また、その場に居合わせた上司に当たる人物が困った笑顔を浮かべて、如何にも「今のは聞かなかったことに・・」という臭いモノにフタにもうんざりした。

理由はわかりきっている。「注意すると辞められる」からだ。人間関係が壊れる可能性があるからだ。つまり、利用者の尊厳ではなく、介護職員の確保を優先させている。こんなものが「現実」だというのである。

パチンコ屋で最初に「いらっしゃいませ」と言った店舗は日本最大のパチンコ屋になった。そのときは誰もが「パチンコ屋でそんなことしても・・・」と嘲笑していた。しかしながら、現在までをみるに「それが出来なかった店」はとっくに淘汰された。これは客に阿るとか、低姿勢で接しておれば良かろう、という安易な発想ではなく、働く側の気概に通ずるプロ意識だ。

介護職員の給与が安いと文句垂れる前に、給与に見合う仕事観を養うべきだ。食事やトイレなど、一連の介助が済めばたむろしてきゃっきゃと雑談してよい職場など世の中にない。これは私が見たほとんどの施設でそうだった。本当に雑談が多い。

しかし、ひとつだけ感心した施設もあった。特別高い料金を取るわけでもないが、その施設責任者の考え方が周知徹底されていた。利用者には実に丁寧で、優しさ溢れる接し方がなされていた。根気よく、どうにか健やかに過ごしてもらおうとする職員さんのプロ根性が見て取れた。実習で世話になった私だったが、その施設では全員が気持ちよく挨拶してくれていた。私も気持ち良かった。

そして、唯一、その施設だけは「実習生の名札やロッカー」が用意されていた。担当のトレーナーの人は「ウチの施設じゃなくていいんです。介護の仕事に誇りを持って欲しいんです」と言った。私は感動した。しかし他は実に適当だ。今のところ「9:1」の割合だ(笑)。今日一日、ここにいて勝手に帰れ、と言わんばかりのほったらかしの施設がほとんどだった。施設の責任者は介護学校からの依頼を受けるも、現場で働く職員からすれば興味ないわけだ。また、介護学校で親切丁寧を教わった実習生に見せつけるような乱暴も見受けられる。「(現実)現場はこんなもんだ」という自虐的な仕事を目の当たりにした。

酷いのになれば、例えば、利用者を車椅子に乗せて連れ出す。名目は「散歩」だ。そしてそこらの公園の空きスペースにでも放置して、自分らは仲良しと一緒にタバコふかしてコーヒーブレイクだ。どこの高齢者が炎天下や寒風吹く野外で数十分も過ごしたいと思うのか。夜に体調が悪くなったら家族にどう説明するのか。曰く「こんな給料も安い仕事、こういうことでもなければやってられない」とのことらしいが、こんなの1万円でももらい過ぎだ。繰り返すが、世の中の「仕事」とは、そんな甘いモノじゃない。競争とはそんな悠長なモノではない。「自分らがいなければ困るだろう」として、閉塞的な職場作りに励んできたところ申し訳ないが、さて、もう、そろそろ年貢の納め時だ。残念だが、覚悟せよ。そこに私が来た(笑)。



その主任介護士は言った。

「あなたは染まらないでくださいね」

私は「染まるも何も、まだ日が浅いですから」と笑った。続けて「というか、一緒に変えましょう」とも言った。主任介護士はシフトを調整して、次回の休日前、私と一緒に酒を飲みに行こうと提案してきた。どうやら「何か」を思い出したようだ。また、染まっていたのは誰か、も気付いたのかもしれない。ちなみに、その主任介護士はオッサンだ(笑)。


2 コメント

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Unknown (karasu)
2011-01-28 22:50:17
なかなか面白い話しが聞けましたね

給与が安い安いと言う声ばかり?ですが、その職務の実態が不明なので、なんとも判断がつかないと考えていました。

しかし、仕事にプライドを持つことができない人は、どんな好条件でも不平不満タラタラですからね

私の世代は
上を見ればきりがない・・
こんな感じで、そして汗を出せ努力せよと、躾られたものですが、
でも、ツイツイ、よそさまの花は大きく綺麗に見えるんですよね

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Unknown (久代千代太郎)
2011-02-02 13:37:46
自分の「得ているモノ」を数えるのが苦手になりましたね。戦後の日本は要するに「考え方」を破壊されたんでしょうか。マイナスが過ぎますな。
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