忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「父の日の話」

2008年06月16日 | 過去記事
■2008/06/15 (日) ガチコメ的『父の日の話」1

岩手・宮城内陸地震の被災者の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。

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「父の日」ということで、その日に限り「晩酌禁止」を解く。

前日の「虹の会・第三回総会」にて、虹の親父にみんなで贈った「父の日」の話と、少しばかりの「肉を焼いたもの」、そしてサラダなどの小鉢のいくつかを肴にしながら、倅が選んでくれたウィスキーをストレートで飲む。倅は「朝が早い」とクソ生意気を抜かしながら寝てしまったようだが、まあ、酒の相手は妻がしてくれるから結構だ。ふん。

父親の顔を知らず育った私だったが、妻と一緒になったとき、私は初めて「父の日」の贈り物を用意するということができた。もちろん、それは妻に父親がいてくれたからなのであるが、そうと思えば実にありがたい話である。

妻は虹の親父の反応を聞く。

『ああ、喜んでたよ。煎餅みたいな顔が赤くなって、くしゃくしゃに喜んでたよ。濡れ煎餅みたいになってたよ。七味濡れ煎餅って感じかなww』

「くすくすwwwよかったなぁww」

『うん。そうやなぁ』

きっと酒飲んでたら、私も会長も泣いてただろう(笑)。あんなに「ありがとう!」って言われたら、いやいや、そんなん・・・あはは・・・こちらこそ、ありがとうございます。

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そして、

「ありがとうは伝染する」のだと思い出した。

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そういえば、37才になった今年の誕生日も母親は電話をくれた。

「おめでとう。37やなwwおっさんや、おっさんww」

と笑う母親も63才。

よくよく考えれば、ロクに顔も出さんで、なんたる親不孝ww

そういえば、2年ほど前、母親が「危ない状態」を脱して退院したばかりのとき、久しぶりにゆっくりと話すことができた。妹も一緒にいた。その際、母親なりに「何か」を思ったのだろう、今まで話したことのない「昔話」をしてくれた。

それは「謝罪」から始まった。

私と妹に父親がいないこと。妹と半分しか血がつながっていないこと。貧乏すぎて小学校高学年から、私に新聞配達させていたこと。家の借金を全部私に支払わせたこと。若き私が必死で用意した結婚資金をつまんだこと(笑)。

「相手には妻子がおってん・・・」

母親の告白から推察される「父親」。母親は思い出しながら、申し訳なさそうに、懐かしそうに、目を細めながら続ける。

■2008/06/15 (日) ガチコメ的『父の日の話」2

「怖いくらいに似てる。そっくり。」

聞くまでもない。その表情からわかる。惚れてたんだろう。

そう。

母親は女だった。

今なら、少しわかる。

ただ、生きていたのだ。

恋愛をして、生活をして、仕事をして、私と妹を養っていたのだ。

「広島に生きてると思う・・・」

名前も聞いた。でも、忘れた(笑・マジ)

興味はある。だが、それだけだ。

そして、こっそり感謝もする。よくぞ、このオカンを口説いてくれたものだ。妻子ある身でありながら、なんといい加減なことをする男か(笑)。

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おそらく、一生、顔も知らないまま死ぬであろう、私の親父よ。

あなたのDNAを受け継いだ私は、あなたが愛した(かどうか知らんがww)女に育てられた。そして今、37才になって妻と子供たちと犬達とウサギ達などから「ありがとう」といわれる男になった。まあ、正確に言うと犬とウサギは言わんのだが、私にはわかる。あの目は「感謝」の目だ(笑)。

せめて「認知」して国籍だけでもどうにかしる!と文句も言いたいが、それもまあ、言うまい。ともかく、貧乏でもなんでも、それらは全て「私を形成する肥やし」であった。結果オーライだ。そして「私を育てた」のはオカンだけではない。祖母や叔母、学校の教師や部活の先輩後輩、職場の仲間や上司部下、友人や知り合い、顔も名も知らぬ人々、それら全部だ。そして今は「虹の仲間」が加わった。私に多大な影響を及ぼしている。

私は、それら全てに感謝する。

「ありがとうは伝染する」のだよ。

名も忘れてしまった、私の実の父親よ。

言ってやる。

父の日、おめでとう。

そして、

ありがとう。

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あなたがいなくても、あなたの子を産んだ女に感謝している。

そして、心から私は言える。

産んでくれてありがとう。

どうだ?悔しいか?

ざまみろ。

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