忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2012.1.20

2012年01月20日 | 過去記事




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120121-00000190-yom-soci
<中学柔道授業で足技、乱取り禁止…名古屋市教委>

<名古屋市立高校の柔道部で昨年6月、1年生の男子部員が練習中に頭を打ち、翌月に死亡した事故を受けて、市教育委員会は、新年度から中学1、2年男女の体育で必修化される柔道の授業で、「大外刈り」など後方に倒れて頭を打つ可能性がある足技を行わない方針を固めた。

 市教委によると、18日に臨時開催した安全指導講習会の後で、担当者が対応を検討。市立高の柔道部員が大外刈りによる急性硬膜下血腫で死亡したことを重く受け止め、中学生の段階では柔道の習熟度が低い点も考慮し、大外刈りや大内刈りなどの足技のほか、互いに技をかけ合う「乱取り」も行わないことを決めた。

 安全対策の強化を図ったもので、文部科学省にも了承を得ているといい、今後、市の教育課程に明記した上で、各中学校に周知させる>




中学生のとき、倅が鎖骨を折った。乱取りではなく「打ち込み」だった。「打ち込み練習」というのは「投げるまで」の練習で、実際に投げてはならない。しかし、そこは中学生、教師の目が届かない、あるいは弛緩している場合はヤル。そのときもそうだった。ただ、倅は投げられたのではなく、投げていて鎖骨を折ったから不思議だった。学校から連絡があった。折り返し電話したのだが、そのときの教師の説明はやはり「目が行き届いていなかった」とのことで謝罪してきた。私は恐縮して、いや、我が倅が馬鹿なんです、迷惑かけました、とすると安心していた。私も学生時代は柔道部に所属していた。その教師も顧問だった。だから互いに不思議だと言った。普通、投げられたほうが怪我をする。

結果から言うと、倅がやったのは「庇い手」というやつだ。もちろん、庇い切れずに落下した。そのとき負荷があった鎖骨部分がクラッシュした。だから相手も少しだが怪我をした。軟弱な証拠だ。

その際、その柔道部顧問教師と話した。私が学生時代とどう違うのか、と疑問に思ったからだ。ずいぶん温くなった、と感じた。そして、それを受けた私の感想に教師も賛同した。

「より危険になる」ということだ。

私は中2のときに入部したが、既に3年生はおろか、教師ですら私に勝てなかった。それでも世界は広く、個人戦では一度も優勝できなかった。もちろん、ちゃんと柔道に徹しておれば難なくクリアしている。しかしながら、そこは遊び半分、単に「勝つ」よりも、如何にしてプロレス技を決めるか、に燃えていた。余談だが、そこで現在のツレのひとりにも会った。私は片足タックルを狙いサブミッションに持ち込もうとする。そいつはひたすら「ダブルアームスープレックス狙い」だった。なんという大技。だから全部負けていた。

休憩のとき、まるで「スタンド使いはスタンド使いに引き寄せられる」とでも言うべき接触だった。初めて交わした言葉は「ドラゴンスープレックスかけさせてくれ」だった。彼は「お?ええよ!」である。散々、他校の体育館で遊んだ。私はドラゴンやらジャーマンを何度も練習したし、彼はムーンサルトやらニ―ルキックという飛び技を練習した。その横ではさっき私に負けた「前回優勝者」が、おまえ相手は白帯、しかも素人に個人と団体2連敗やないかい!ということで顧問から激しく叱責され、終わるまでスクワットしとけ!と言われて汗を流していた。こっちを睨んでいたが、別に私はライバルでも何でもない。勝手に柔道一直線してください、と思っていた。

私が「遊ぶ」のは個人戦だけだ。団体戦ではメンツというモノがあるから、割合、ちゃんと柔道をした。だから「大将戦」は無敗だ。「×」が4つ並んだあと「○」がつく、というのが我が母校柔道部の団体戦の戦績となる。その中には優勝チームもあった。そのチームの「大将」は前年の「個人戦」でも優勝している、先ほどのスクワットくんだった。

でも、それは仕方がない。私が入部した当時の3年生は「地区大会準優勝チーム」だった。もちろん、黒帯がずらりと並んでいた。そのチームの「大将」で部の「主将」というのが、これまた喧嘩自慢のムキムキだった。ある日、道場に行くと、そのムキムキから蹴られた。鳩尾に入れられた。飛びかかってもよかったのだが、それもなんか、ちょっと違う。相手は先輩で主将、場所は道場である。教師が来て練習が始まると、私はひとつ提案をした。

―――練習試合がしたい。2年生と3年生で対抗試合。

私は黒板に「2年生チーム」を書き出した。「先鋒」には自分の名を入れた。

―――勝ち抜き戦や。

私事で申し訳ないが、今でも覚えている。主将以外は秒殺だった。地区大会準優勝チームは自校の後輩、それも先日までラグビー部にいた素人に成す術なくやられていく。負けた本人は小首を傾げて照れ笑うも、その腰に巻かれた黒帯が4本泣いていた。最後はその主将だ。さすがに弱くない。空手の有段者、全国大会出場の経験もあるらしい「主将」はローキックに近い鋭い足払いをしかけてくる。私は付き合わない。だって柔道なんか知らない。道着を強く掴んで振り回した。「主将」の足が畳の上にある時間が減った。頃合いを計ってぶん投げる。教師の「効果!い、いや、なし!」という慌てる声と共に間髪入れず、そこに飛びかかる。「肩固め」が決まる。体重を調整して締め上げる。抑え込み30秒、などどうでもよろしい。10秒あれば殺してやる、という意志で絞めた。

下から必死な視線があった。目は不気味なほど充血していた。でも、さすがだ。何度か呼吸ができなかったはずだが、参ったはしない。私は「主将」の攻撃的な目を見返しながら口元で笑ってやった。そして自分の肩で「主将」の口から顎を潰した。「主将」は暴れに暴れた。私の背中部分の道着を掴む力は相当だった。当時は70キロほどだった私の体が何度も跳ねた。なんとか逃れようと、これで負けたらどうするんだ、こんなの信じられない、こんなことあるはずがない・・・・

もうすぐ30秒か、と思う頃、私は自分の上半身を少しだけ起こした。「主将」の顔を真上から見下ろしてやった。ほら、どうした?おまえはそんなものか?情けないとは思わんのか?ほれほれ?というメッセージを込めた視線の中、教師の「いっぽん!それまで!!」が響いた。顧問の数学教師は「なんだこいつは・・・?」という目で私を見ていた。

そんな「主将」に教えてもらったのが「払い腰」だ。「おまえにオレの技が加わったらどうなるのか」と嬉しそうに教えてくれた。その後の私のフェイバリットホールド(得意技)になる。翌年、予想通り数段レベルアップしていた「スクワットくん」もコレで葬った。私の場合、相手に敵意を感じた場合に限り、意図的に「巻き込み式」を使うから、喰らった相手は数秒間、呼吸器が止まる。このときも開始線に立った時から殺意を感じていた。1年間、私を夢に見、練習中も私を思い浮かべ、恋焦がれてきたのである。私はO TEI LA VIE~(おお、我が人生)♪とでも歌いながら「敗北が知りたい」とでもいまなら言える。

ま、ところで、その当時、ならば怪我はなかったのか?と問われれば、それはあったという他ない。事実、私は「巴投げ」で後輩の鎖骨を折った。「乱取り中」だ。同級生の腕も折れた。大腿骨も折れた。柔道とは関係ないけど「いっけん」の指も折った。蹴ったら折れた。私自身も絞められて失神したこともある。頭を痛打したこともある。それで学校は文句を言われたか。私の自宅に苦情の電話もあったのか。いや、いっけんは怒っていた。ひと桁得点が並ぶ成績ながら「試験前やのに!」と言うからツレ全員から突っ込まれてもいた。いや、ともかく、だ。

だから鍛えたし、受け身をやった。立てなくなるまで筋トレをさせられるのが運動部だった。なぜか?危険だからだ。

「大外刈りがない」のはもう柔道と呼べない。それに連続技の練習も出来ない。乱取りが禁止なら受け身にも力が入らない。非力、且つ、未熟でやる「柔道」とは、それ自体が危険なのだ。ならば、もう、外してしまったほうがいい。

私は何度もここに書いたが、いまの教育の最大の問題は「リスクのみ」を取り去ろうとするからだ。それは不可能だし、その意味自体がない。リスクを受け入れて克服する、あるいはそれに備えることを教えねばならない。社会に出ればホンモノしかない。寸止めも打ち込みもない。鍛練と受け身の練習を怠っていると、勝負の場にすら立つ資格がない。相手は本気、やり直しもヘチマもない。つまり、危険なのだ。

骨折も挫折も誰にでもあり得る話だ。そしてそれは回復する。心も体も治癒することになっている。尾崎豊が言うように大人は裏切るし、教師は信用ならんかもしれんが、自分を苦しめた練習は裏切らない、と学ぶ必要がある。日教組はそれも奪う。「自分を克服する人間」ではなく「自分を探し続ける人間」という摩訶不思議な連中を大量生産する。人は誰でも結局のところ「自我を殺す」ことに苦労する。それが真逆、いつまで経っても「こんなのは自分であるはずがない」と彷徨い続ける。普通、柔道の授業で怪我人が続出ならば、基本練習の見直しとなる。受け身ばかりやらせればいい。先ずは体力を養うことに専念すればいい。それで確実に怪我人は減少するし、深刻な大怪我も回避できる可能性は増す。しかし、いまの日本の教育は、なんと、柔道を殺す。危険だからやらせない、でお仕舞いとなる。そんなのが教育と呼べるはずがない。それを指導とする根拠などあるはずもない。

柔道の授業からリスクを外す、ということは、それを管理指導する「教師のリスク」を軽減させることにつながる。すなわち、このベクトルは危険を増す。憲法9条などと同じく、現実はそうなっていないから、大いなる矛盾を抱えたまま諸問題は浮遊する。いまの日本の姿勢そのままだ。

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