郡司農水相「TPP、国益にならない」 交渉に否定的(朝日新聞) - goo ニュース
<郡司彰農林水産相は5日の閣議後会見で、政府が進める環太平洋経済連携協定(TPP)について、「日本の国益になると考えるのは難しい」と交渉入りをめざすことに否定的な考えを示した。
同じく政府が進めている日中韓3カ国による自由貿易協定(FTA)などほかの経済連携と比べて利点が少なく、原則的に農産物を含むすべての関税を撤廃しなくてはならないことの影響が大きいとみているからだという。4日の就任後、TPPについて初めて明確に否定的な考えを示した。第2次野田改造内閣発足後の閣僚発言としても異例の踏み込んだものだ。
ただ、野田政権としては基本的にTPPの交渉入りを目指していく方針だ。中国が台頭する中で米国との連携を強化し、経済成長にも結びつけたい考えだからだ。少子高齢化が進む中で、海外の成長力を取り込む必要があるほか、貿易ルールづくりに絡むことで日本に有利な枠組みにするねらいがある>
ヨーロッパには何もなかった。彼らはインドから綿を手に入れるまで下着も取り替えなかった。仕方がないから獣の毛皮や羊の毛で間に合わせていた。砂糖もない。香辛料もない。宝石もない。絹もない。神に選ばれた割には粗野でさもしいモノだった。
彼らはアラブ人が持っていた絨毯に感激する。繊細な綿織物や珊瑚礁の美しさに魅了される。そのアラブ人は金銀を欲しがる。だからそれと交換することにしたが、イギリスもフランスもデンマークもオランダも貴金属の鉱石が出て来ない。困っているとドイツのエルム山脈から銀がたくさん出た。しかし、ザクセン王国は分け合う義理もないので、勝手に豊かになっていった。首都だったドレスデンはバロック建築の宝庫になった。
他のヨーロッパの国は金銀の代わりに、白人の専売特許である奴隷を出した。戦争に不自由はしなかったから、敵兵の捕虜はたくさんいた。当時は「捕虜=奴隷」が常識だったが、べつに捕虜にされて売られたのはスラブ人だけではないのに、ナチスドイツは「スラブ人→スレイヴ(奴隷)」という嘘がお気に入りで喧伝した。「スラブ」とは「言語」の意味となる。このウソがソ連急襲の口実にもなるわけだが、白人が差別大好きなのは間違いない。彼らは黒いのも黄色いのもいなければ白い仲間でも差別して奴隷にするに抵抗はない。
そんな哀れな白人奴隷はアラブの富豪によく売れた。売る方も買う方もアレだが、金銀が足りなければ人間を売るしかないし、買うしかない。それ以外に膨大な貿易赤字を改善する方法が思いつかなかった。実はいまも思いつかないから、ドイツ以外はぜんぶ貧乏国のままになっている。そして白人はいま、その屈辱を思い出して悔しい。恥ずかしい。もちろん、これは「奴隷を売っていたのが恥ずかしい」という人権上の観念からの自責の念ではなく、アラブ人如きに白人様が奴隷にされていた過去がある、という事実がたまらない。考えるだけでもハラワタが腐る思いだ。だから未来永劫、こんな連中は内戦状態にしてやると、いろいろと悪さの種を撒いておいた。無論、フセインやビンラディンを殺したくらいでは収まらない。「あの地」に平和とか安寧などあってたまるか、という「白人の呪い」だ。人を呪わばなんとか、だからいまでも「あの地」では白人が殺されている。
そもそもヨーロッパ人も、なにもないなら我慢してひっそり、トウモロコシやジャガイモを作って生きて行けばいいモノを、やっぱり、今も昔も彼らはそうはしない。最後は白人根性丸出し、時代が変わって白人奴隷は具合が悪い、買えない場合は相手を殺して奪えばいい、となる。コレも今でもあんま変わんない。
先ずはポルトガルがインド洋に軍艦を出してアラブ人を追い出す。それから基地をつくる。邪魔するのがいれば殺す。逆らえば殺す。非協力的なら殺す。殺すから殺す、とまるでショッカーだが、このあとにフランス、イギリス、オランダ、デンマークらが続く。すると、あら不思議。アラビア半島沿岸からマラッカ海峡、東南アジアの太平洋沿岸から支那、インドネシア諸島まで、そらもう無数のヨーロッパ軍事要塞ができあがる。
利害がぶつかれば余所の国で戦争までやる。インドはイギリスとフランスが争ってめちゃくちゃにした。傭兵部隊を作り、金持ちのマハラジャをたらしこんで争わせた。1760年頃からフランスの旗色が悪くなるが、1789年にはフランス革命、その後にナポレオンが出てくる。フランスを掌握した皇帝・ナポレオンはヨーロッパ諸国に「イギリスと付き合うな」とやる。デンマークはナポレオンが怖くて、バルト海域からイギリス船を追い出して閉鎖して機嫌を取ったりしたが、そんなナポレオンが「マーシャルローの戦い」で負けると、イギリスから軍艦が出てきてコペンハーゲンを丸焼きにされた。事情がどうあれ、執念深くしっかり報復する、というのも白人らしくてわかりやすいが、ともかく、ナポレオンが負けた1815年、イギリスは全インド亜大陸を支配下に収める。
日本の江戸湾に「合衆国東インド艦隊」が来るのは1853年。我々はそれを「ペリーの黒船」と習い、その翌年の春、今度は断れないとあきらめた幕府は「通商条約」を結ぶと知る。日本はふたつの港を開いて領事館を作られる。日教組の教師は「鎖国なんかしてた日本(笑)」と小馬鹿にしたあと「これで日本もようやく、世界との貿易をするようになるんですね」と目を細めることになっている。そういう教師の本音は、日本が今でも戦国時代、内乱であってほしいと願う者や、インドやアフリカのように欧米列強に搾取され過ぎて疲弊していてほしい、と願う変態であるが、実際はそうなっていないから悔しがっている「ホンモノの変態」である。日本が「開国」に慎重だったのは必然、当時の世界情勢からすれば当然、そらそうだろう、となるのが普通である。
それに日本はペリーが来るずっと以前から、外国の脅威には晒されていた。先ず、ロシアが来た。ロシア皇帝の「通商の認可を出せ」というメッセージを持って、1778年から何度も何度も来ている。もちろん、武力を示して脅しもかけた。それでも日本は頑なに拒み続ける。なぜか。ロシアはそれ以前にシベリアを征服している。樺太まで迫っている。支那の南まで占領している。こんな丸ごとの脅威、よくぞまあ、退けていたものだと感心する。
イギリスも来ている。1976年に測量船が日本の海岸を調べている。それは軍事行動のため、と幕府も気付いていた。幕府は海岸線の防衛を強化するが、コレもその後、何度も来る。流血を伴う小競り合いもある。そしていよいよ軍艦が来る。1824年だ。そのときはなんと、江戸の北上150キロ地点に上陸する。しかし、これを事前に察していた大名らが集めた侍が駆けつける。イギリス軍を包囲し、その後、江戸からも援軍が来てイギリス軍は退散する。もしこのとき、イギリスが兵隊と大砲をもっと運んでいれば、と思うに背筋が寒くなる。
白人は自分らが貧乏して困ると豊かなアジアに来る。文明のある大陸にも来て好き放題する。それくらい江戸幕府でも知っていた。幕府は情報を持っていた。白人らが南アジアや東南アジア諸国、支那やインドを翻弄する様子をリアルタイムで知っていた。だから拒んだ。信用ならないから受け入れなかった。「日本の鎖国ww」と小馬鹿にする人は、往々にして「(当時の幕府には)世界観がなかった」とか「(日本人は)内に籠る習性がある」と言うが、実のところ、まったく逆である。知っていたから慎重だった。「世界観」があったから恐怖した。知らなかった支那やアフリカは分割統治された。
TPP推進派は<中国が台頭する中で米国との連携を強化し、経済成長にも結びつけたい考えだからだ>とか<少子高齢化が進む中で、海外の成長力を取り込む必要があるほか、貿易ルールづくりに絡むことで日本に有利な枠組みにするねらいがある>とか言う。しかし、もう、既に日本は「二つの港」や「領事館」どころの話ではなく、アメリカとの連携はしているし、海外の成長力とやらも十分すぎるほど取り入れている。取り入れ過ぎて困っている。イギリス軍を取り囲んだ侍は臆病だったのではなく、コレも真逆、この国を護るという勇気、使命感の結晶だ。今の時代も同じこと。付き合うなら慎重に、日本が主導して付き合える状態を確保して臨むべき、国益やら愛国心を失念した連中に好き舫題されてはたまらない。イギリス軍の大砲に怯まなかった武士に申し訳ない。
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