忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

旧統一教会被害の電話相談を開始法相視察、実態把握急ぎ救済へ

2022年09月05日 | 忘憂之物






久しぶりに休日が取れて、朝から風呂に入って一杯やる。出勤する妻に弁当を持たせて送り出し、その後もまったりゆったり映画を観たりしていると、知らぬ間にリビングのソファで寝てしまう。もちろん社の電話にも出ないしメールも見ない。だって私は休日で寝ているんだから、と自分に言い聞かせてから微睡む。人生における至福と言って大過ない。

そこにピンポンとかされる。猛烈な不愉快を感じながらインターフォン越しに「はい」と出れば、見知らぬ二人組の中年女性がいる。「どちら様ですか?」と言うと「いま、お時間ありますか?」。ヘンな名前だ。

「ありません」と即答する。玄関の前では「あ、そうでしたか。お邪魔しました、それではまた、お時間のあるt~~」とか言ってるが、そのまま「停止」みたいなのを押す。玄関先では「ぶつん」と音がしているはずだ。二度と来ない。たまにパンフレットというか、冊子みたいなのが残されている。捨てる。

イベントなんかにもいる。人が集まるところだ。「今ならこの浄水器が無料です」みたいなのもいるが、そこに「いま、世界が大変なことはご存じですか?」と言うのがいる。世界も大変だが、仕事も大変なので、顔の前で手刀を切って立ち去る。「知らないです」も「はい、知っています」も言わない。キャッチボールの切っ掛けさえ与えないのが肝要だ。「捕球」の仕草も見せない。そもそも向こうも忙しい。「脈ナシ」に構っている余裕もない。私の無愛想は優しさだ。

夜の街も油断できない。機嫌よくうろついていると声をかけてくる。これも女性が多い。うろうろしているということは「次の店」を決めていない。そして2軒目とかじゃない。ちょうどいい塩梅に仕上がっているから「どこの店かね?」と問うも要領を得ない。つまり、キャッチじゃない。

印刷物を渡してくる。受け取らずに、表紙を見て「あ」と声を出す。それから「お疲れ様です。たいへんですね、こんな時間まで」とか言うと、相手は少し驚いて、表情に「緊張と緩和」が浮かぶ。警戒しながらも仲間かな、くらいの顔だが、そこに

「実は私もね、金目教の者です。今日はね、畏れ多くも甲賀幻妖斎様に呼ばれて来たんです。新しい怪忍獣ができたのかも。おい、そこのキミ、一緒に赤影を倒さないか」とか飲み仲間とわぁわぁやると速やかに去っていく。これもまた一興だ。

つまり、放っておけばいい。知ったことではない。相手にしなくていい。

そもそも玄関まで来てピンポンは日本特有だ。外国でやれば危険だともわかる。一部、外国でもやっている団体もあるが、当然ながら嫌われているし、過ぎれば取り締まりの対象にもなる。フランスなども「セクト(カルト)」は2001年から規制する法律も出来ている。比して日本はヘンな宗教にも多様性のある国だ。だから、怪しげな新興宗教が蔓延ったりもした。それでも、だ。

日本人は漢字を500年も寝かせてから、ようやく取り入れたのと同じく、その実、とても警戒心の強い民族でもある。たしかに「お人好し」は国民病みたいに言われるが、ちゃんと吟味してから用いる、という行動がとれる民族だった。だからいまでも「今年の漢字」とかやれる。漢字一文字にあれほどいろんな意味を包含させることなど「日本特有」だ。アメリカが「今年のアルファベットはM」とかやっても定着しない。

キリスト教もそうだ。安土城には伴天連の屋敷があった。神学校の安土セミナリオには「オルガン」もあった。当時の日本からして、あれほどの異質すら受容する多様性は凄まじい。「島国根性」とか「閉鎖国家」の反対側にいるとわかる。

ただ、やり過ぎれば規制も入る。これも秀吉の時代と同じだ。あの悪名高い「伴天連追放令」の最初の項目には「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事 」とある。つまり、キリスト教徒になるかどうかは自分で決めるべきだ、と書いてある。その後も大名が強制的に改宗させるなどはダメ、日本人を奴隷として連れ去ったらダメ、牛や馬を殺して喰うのもダメ、とある(天正十五年六月十八日付覚)。

そして翌日に「吉利支丹伴天連追放令」が出されるが、これも商売はしてもいい、でも宣教師は20日以内に帰りなさい、くらいのことだ。その理由も書いてあって、例えば「其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。(後略)」などと書いてある。大名が民衆を信者にして、神社やお寺を壊して回るなど前代未聞じゃないか、と怒ってるわけだ。しかし、最後には「自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」ともある。

それでも今後、日本の仏法とか、ちゃんと守るなら、商売人だけじゃなくても日本に来たりしてもいいよ、だ。実に温いが、もちろん、だからといって、宣教師や信者が大手を振って町を歩けるわけでもない。ちゃんと迫害もされて差別もされた。しかしながら、あの秀吉の時代でも「信仰の自由」には気を使っていたとわかる。いまの岸田政権みたいに阿呆ではなかった。

そもそも解散命令も出されていない宗教法人を吊るす危険は言うまでもない。

「被害者がいる」と言うのもわかるが、それなら「それは別の話」と言う他ない。被害届を出せばいいし、そこに反社会的な振る舞いがあるなら立件して、逮捕して起訴すべきだというだけだ。同じ1000万円を献金したとしても、それを「被害」だと認識していない者に「取り戻すべき」と言っても詮無い話だ。本人は好きでやっている。どうぞご勝手に、というのが自由主義だ。

極端な事例かもしれないが、例えば比叡山の山中で「千日回峰行」をやる。これをやり遂げて「堂さがり」までいくと、行者は生きたまま不動明王になる。「阿闍梨」だ。信者は手を合わせて拝むが、その荒行の中身は想像を絶する。

都合、5年で連続700日、行者は真言を唱えながら深夜2時に山に入る。およそ30キロの険しい山を歩き、260か所を6時間ほどで拝礼して回る。舗装された道路ではない。崖もあれば獣も出る山の中だ。また、途中で断念する場合は自害せねばならない。だから行者は「現金10万円」と共に「六文銭」と「降魔の剣」「死出紐」を常備している。自殺用と葬儀費用と三途の川の渡し賃だ。「ちょっとやってみよう」は通じない。

700日間を満行すると「堂入り」だ。9日間の断食・断水・断眠・断臥の4無行を行う。ずっと真言を唱え続ける―――。

ここに 自由や人権など欠片も見つからないとわかる。また、このご時世だ。断念したら自害せねばならない、など刑法に触れないのかと心配になるが、ワイドショーは不動明王に対しても「被害者だ」という根性はあるか。最近、よく見かける弁護士は、テレビの「心霊ドラマ」にケチをつけていないで、比叡山に行って止めてこなくていいのか。


また先進国の中では、みんな大好き中国以外「坊主丸儲け」が通常だ。中国共産党に「宗教法人税」という概念があるわけもないが、欧州でもドイツに「教会税」があるだけで、細かいルールの違いはあっても「優遇されている」のは同じことだ。ちなみに韓国には「宗教法人法」はないが、それでもチャリティの括りで優遇はされている。あとは公的な機関扱いだったり、公共性が高いから、などという理由で「丸儲け」な状態だ。

我々も毎年、初詣に行く。そこでお賽銭もする。2020年、ソニー損保の調査では、一人平均で286円とのこと。なんだ、そんなもんか、ではない。明治神宮には3が日で312万人が参拝した。ざっと8億9232万円也。住吉大社は230万人。これで6億5780万円だ。あと「おみくじ」も引く。最近は「紙のおみくじ」も売れなくなって、2020年は全体の35%しかいなかったそうだ。

2020年、初詣に行きましたか?に「はい」と答えた人を9000万人とする。警察庁の調べで8割だからそんなものだと思う。その35%が100円のおみくじを買うと売上は315億円。おみくじの原価は1円だ。それでも日本人は喜んで初詣に行く。どこのだれも「宗教団体に搾取されている」とか言わない。

「祈祷料」もある。私も以前、社長などに連れられて行ったが、各項目別で料金システムもある。無病息災から交通安全、商売繁盛に家内安全、安産祈願に恋愛成就まで、たぶん、もう、なんでも大丈夫だ。「二人目は半額」みたいなのもあったが、社長は「神さんにケチったらあかん」とのことで、表示金額の10倍以上を払っていた。現場で働く社員にも、そのくらいの気持ちでいたら会社も潰れなかったかもしれない。拝むなら神様と嫁さん、あとは部下だ。

「厄払い」なんかもそうだ。周囲から「行ったほうがいいよ」とか言われて怖くなり、なんとなく行ってみるかで「初穂料 」。料金システムがないところでも「お気持ちだけで」と言われたら最低5千円か。安いもんではない。


いずれにせよ、だ。

安いか高いかはともかく、信心深い日本人はなんだかんだで金を使う。ここに「線」を引くことは可能か。「常識的な金額」とはいくらなのか。「反社会的行動」とは具体的に何か。「裁判の件数」はどのくらいからアウトなのか。仮にいま、旧統一教会が「アウト」だとするなら、他の宗教法人や団体はすべからく「セーフ」なのか。反社会的な組織、団体なら宗教に限らず、国会の周辺どころか中にもいないか。「いる」という有権者は少なくないと思うが。

嫌いな表現だが、それこそ岸田政権は「説明」できるのか。

「特定の宗教を弾圧する」と聞けば江沢民とか思い出すが、令状なしで逮捕したり、逮捕監禁して拷問して殺したり、臓器摘出したりしていないだけで「入り口」は同じだ。マスコミ世論に流され、人気商売よろしく、支持率と選挙だけのことで法治国家としての矜持を忘れるなら、そこらの人治国家の独裁政権と変わらない。順序と筋道を違えると碌なことはない。

アインシュタインも言っている。

宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である























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