忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

お久しぶりです生きてます②

2010年10月09日 | 過去記事

お昼休み。10月から通っている介護教室で愛妻弁当を喰う。今日のメインは昨日、そのために残しておいた「からあげ5こ」が入っている。あまりの美味さにテンションがスーパーハイテンションになる。しかも、ベーコンの炒めたモノとシュウマイと卵焼きとキンピラもチラリとのぞく。隣の席の気の良さそうな兄さんがコンビニのサンドイッチを喰っている。わかってるのに聞く。コンビニですか?・・・「はい、そうです」・・・私は弁当なんですよ・・・「あ、そうすか」・・・

私の席の前のおばさんも自前弁当。隣の女の子も可愛らしい弁当をつついている。嗚呼ぁ教室・・・税金で勉強・・・しかも昼休み・・・私は即興で「あー昼休み」という曲を作って歌いそうになった。ま、なんか、あの、ちゅーぶみたいな感じだ。チュウブではない。

ひとつひとつ味わいながら噛みしめながら、お弁当のありがたさについて考える。私は今日も6時には起きた。いつもは5時半だが、ちょっと寝過ぎたのである。最近の私は、起きてすぐベランダに出る。柔軟をしてからモーニングスクワットである。100回を10セット・・・と言いたいところだが、私ももう39歳。無茶はイカン。だから、30回を5セットだけする。ンで、10キロの鉄アレイを持ち、京都の山々を観ながら、んしょんしょと頑張る。腕立て伏せもする。頭の中のイメージはロッキーではなく、武田鉄也である。

いろいろやってると息が上がってくる。汗が阿呆みたいに出る。シャワーをしようと自室を出ると、妻がもう起きてなんやしている。弁当は既に出来ている。冷ましているようだ。倅も起きて動いてる。チーズの入ったパンなどを喰っている。私はシャワーを浴びてから、妻の「朝ジュース」を作ると、私の朝飯も完成だ。今日はあっさりとお茶漬けだがな。さらっと胃袋に詰めてから、茶を飲みながら新聞にざっと目を通す。

「小沢強制起訴」とか書いてある。というより、産経新聞もむしろ一面に、




 *      *
  *  きそです  +  
     n ∧_∧ n
 + (ヨ(* ´∀`)E)
      Y     Y    *

 



であろう。

ま、とりあえず、お茶漬けをおかわりする。メシウマである。



まあ、しかし、面白い。いや、介護が面白いと思っていたが、そうではなく何事においても「学ぶ」ことは面白いのだと思い出した。これを小学生で気付いていたら、私は今頃、民主党から立候補して「小沢さんは裁判で無実を証明してくれると信じています!!うぅ!」泣いていることだろう。それに妻とも出会えていない可能性がある。だから、まあ、今のままでよかったりする。

それにしても人生、本当にわからんもんだ。昨年の12月まで、パチンコ屋の事務所で威張っていたオッサンが、今は「介護・ヘルパー育成教室」にて、見知らぬ兄さんや姉さん、おじさんやおばさんと和気あいあい、世間話しながら楽しくお弁当を食べているのである。この調子であれば、後20年もしないうちに、何らかの運命の妙から、私が北朝鮮人民軍の総司令官となっている可能性もゼロではなく、支那共産党の国家主席になっている可能性もゼロではないのである。だから民主党はその可能性も鑑みて、今から私によろしくしておいたほうがいい。「ナントカチルドレン」を仰山連れて、私に会いにくればよろしい。握手もしよう、記念撮影もしようぢゃないか。尖閣諸島は日本固有の領土です、と明言もしよう。民主化も実現しようぢゃないか。

ま、その前に、だ。

私は介護技術を身に付けねばならぬ。介護知識を得なければならないのである。

午後の講義はグループ講義である。いくつかの事例が紹介され、その行間から介護者と利用者について語り合い、問題点やその原因を見つけ出して解決策を論じ合う、という講義であった。例えば、こんな感じだ。



―――「Aさん」は78歳の男性でひとり暮らし、膝関節が悪く歩行が困難である。担当ヘルパーの「B」さんは女性であり、その日は「Aさん」に付き添いながら公園まで散歩していた。公園入り口の段差で躓いた「Aさん」だったが、危険を察知した「Bさん」が正面から受け止めて事無きを得た。しかし、「Aさん」は「Bさん」に抱きついたまま離れず、ベンチに座らされるまでしがみついたままだった。「Bさん」はこれを「驚いたから」だと判断していたが、その日から「Aさん」は「Bさん」の個人的なことに関する質問が増える。そして、ついに歩行解除の最中、「Aさん」は「Bさん」の胸を触ってしまう。「Bさん」は思わず「やめてください!」と強く拒絶してしまったことから落ち込んでしまった。そして「Bさん」はようやく、事業所の上司に相談をしたのだった――――



これから「行間から読み取れること」を列挙していくわけだ。「Bさんの年っていくつ?」とか「Aさんの家族構成は?」などである。また、施設内における「高齢者の恋愛」や「高齢者や障害者の性」も重要な問題であることもわかる。おばあちゃんが若い男性職員などに「デートして♪」などは可愛らしく微笑ましいものだが、中には、ちょっと受容し難いことも少なくないらしく、表面化しているものだけでも深刻なパターンもあるという。

私が属するグループには20代の男性女性もいれば、50代の男性もいるから様々な意見が出て面白いものだった。私が「これって意外とAさんとBさんが結ばれることになって、この相談された上司が仲人を引きうけて結ばれるというオチもあるかも」という飛躍の可能性を問うも誰も否定しない。つまり、ツッコミがない。そのまま記されているから、勘弁して下さいと謝ることにもなった。50代の男性は、事例に「胸」と書いてあるのに、ずっと「乳」と発言するから、とりあえず私がツッコンでおいた。「胸を触った」と書いてあるのに、ずっと「乳を揉んだのは拙かった」と女性の生徒さんもいるのに止めないから、これはセクハラではないかと心配したのである(笑)。ま、いずれにしても難しい問題だ。

また、いろいろと学んでいくにつれ、わかっているつもりだったことも、妙なリアリティを持ち始める。例えば、野球といえばホームラン、ゴルフならばホールインワン、サッカーならばシュート、介護といえばオムツ交換であるが、これも文章で書かれていると、妙にリアルなものだったりする。私は知らなかったのだが、看護師さんなどであれば、筋力が弱って自力で排便不可能な高齢者などには「摘便」という介助を行うことがある。ま、平たく言えば指で●を出してあげるわけだ。こういう話を聞くと、口にはしないが、なんとも気が滅入ってくることも否めない。ズバリ言うと「年取るってのは嫌だなぁ」である。

教室には、それをそのまま口に出す人もいる。私が耳にしたのは二人とも男性だ。

「こうまでして生きる、ということはどうなのか?」
「オレだったら、こうなる前に・・・」

はっきり言っておくが、これは「うんこって臭い♪」と変わらぬレベルである。当たり前だし、子供でもわかっていることだ。それでも私が重要だと思うのは「これは事実である」ということだ。例えば、テキストを読むと「便の色やにおい」について詳しく解説している。その成分についても説明が付されている。しかし、これらは生きていく上で必要な知識とはいえない。「便の色は胆汁の色」など知っていなくとも便秘にはならん。ましてや「黄土色の便は胆汁色素ビリルビンによるものです」など知っていなくとも下痢にもならん。

しかし、介護に携わる人間としては知っていなくては困る。私はヘリコプターの免許を持っていないが、それはヘリコプターに乗る必要がないから、であるのと同じく、要するに必要性があるかないか、社会で希求されていることかどうか、という問題である。

この介護教室の男性生徒さんのいう「こんな状態で生きていくのはどうか?」というのは個人的主観の問題であり、それが偶然にも多くの人から共感を得ているだけのことである。すなわち、事実ではあるが真理では決してない。また、介護者も利用者も十人十色、どんな状態でも生きるべき、生きていたい、という価値観も認めねばならない。支那朝鮮はどうか知らんが、日本の社会とは悪くいえば雑多でいい加減な価値観が跋扈する社会、良く言えば多種多様な価値観が共存することが可能な受容的社会でもある。つまり「PEG(胃瘻)で栄養補給して摘便で生きていくのは嫌だ」と「ゾウの鼻は長い」は同じレベルにあるのだ。

私はこれから「自分の職業」とする介護福祉という分野におけるキーワードは「現実」問題であると思っている。それをここには「赤ちゃんポストと同じ」と例えて書いた。倫理観を問う前に「現実」をなんとかしろ、というのがその理由である。交通事故を目の当たりにして「現実」にその場で人が車に轢かれて苦しんでいるのを見ながら、交通事故を減らすにはどうすればよいか、もしくは、車社会の弊害とは何なのか、を論じる必要がないように、目の前で困っている人がいれば助ける方法を考えるのが優先されるべき、である。

交通事故で血を流して苦しんでいる人を見ながら「この人は救急車を呼んで治療すれば助かるだろう。しかし、重大な障害が残ることも避けられないだろう。自分ならば植物人間になるなら殺して欲しいと思うはず。さて・・?」などと考えないのと同じだ。つまり、語弊があるかもしれないが「(対象者が)生きていてどうか?(幸せかどうか?)」など知ったことではないのだ。できることは「現実」を踏まえた「目の前の人間」の安全や安楽を確保する、あるいは提供すべき業務を履行する、ということだと思う。



―――つまり、社会で必要とされるのはいつの時代も(職業)プロだ。まあ、これは世間のどんな仕事でも同じだが、なんにでも例外というモノはあって、例えば「現実」というものを見なくてもいい民主党の国会議員は別の世界で生きている。いや、本当に別の世界、いやいや別の国、そう「最低でも国外」ならば結構なことなのだが、悲しいかな、それは我々の世界につながっていたりする。悲しい話である。

ま、

ところで、介護の仕事とは「利用者本位」が基本とされる。今までの仕事では「顧客目線」とか言ってきた私だが、今度からは「利用者目線」を学ばねばならないわけだ。

その理由は「ボランティアじゃないから」である。コレにはなるほど、と思った。長々書くのは避けるが、つまり、以前は「面倒かけてすいません」の時代だった。国が費用を出していた(措置されていた)。つまり税金だった。しかし、介護保険というのが出来たし、利用者は事業所も担当者も選ぶことが出来るようになった(契約するようになった)。つまり、お客さんになった。日本の文化は売る側も買う側も「ありがとう」の文化だから違和感はないが、これは実のところ、相当な変化だったらしい。

それはつまるところ「客が店を選ぶことも、店が客を選ぶことも許される」というのと同じく、今度は利用者もヘルパーを選ぶことが出来るし、ヘルパーも利用者を選ぶことも可能になったそうだ。そこに「契約」の概念が加味されるとこうなることは「元パチンコ屋」としてもよくわかる。パチンコ屋にも「約定解除」というものがあったからだ。客が「この店は出ない」と判断して来ないのも勝手だが、店側が「この客は自店には合わない」と判断して出切り禁止にすることはできる。民主党の前の代表ではないが「法的に問題はない」というか認められている。店はドアを施錠せずに営業しているから、18歳以上の遊技客が入店すると「遊技契約」を同時に交わしたことになる。これを「解除」するわけだが、これは事前通告も要せず、あえて言えば一方的に行うことも出来る(法的には問題ない)。

しかし、まあ、日本社会は自由経済社会でもあるから、仕事とはすべからく「商売」のことでもあろう。何を売るのかはともかく、売る人がいて買う人がいるから、社会は成り立っている。ま、なんで私が介護の話からこんなことを書いているのかというと、久しぶりの更新で頭がまとまっていないからだけではなく、このことを現政権がどうもわかっていないようだからだ。いったい、どこの日本で「金を払う側が気を使いまくる」という現象が起こるというのか。それは例えば「誘拐」や「強盗」など、限られた犯罪行為に伴う例外的な事由ではあるまいか。っと、なるほど、日本はその状況にあるのだろう。

そして、民主党にも売る商品はあった。お得意様は特定亜細亜とアメリカだ。

すなわち、民主党の取り扱う商品とは、にほ・・おっと、次の講義が始まるようだ。

2 コメント

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おゎー。 (りんりん)
2010-10-16 00:49:20
頑張ってはりますね。
頼もしいです、仲間が増えて嬉しいです!

ちなみに私は全くの無資格でしたが、現場経験というコトでヘルパー並の手当を付けていただきました。

もう既に昔の職場で経験があり介護福祉士受験資格もあったのですが、名称資格ですし介護福祉士持っててもダメな人はダメって思ってたんで、介護福祉士は取得する意思なかったです。

でも、仲間に誘われて桝添さんの時に取得しました(苦笑)

私には介護職は楽しい部類です。お下の介助・暴力・徘徊・転倒骨折のリスクマネジメント・昼夜逆転・失禁…そしてターミナルケア。

沢山考えさせられます。安楽死・尊厳死…。

介護の楽しさに気づき、長く続けて頂きたいと願っています。
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Unknown (久代千代太郎)
2010-10-16 16:20:05
>りんりんさん


ほんとですねー

ま、なんの仕事でも、ちゃんとやれば奥が深いものですねー私もハマってますww

がんばって「現場の達人」を目指すぞー!おぉー!
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