忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

橋下徹氏、ゼレンスキー大統領の戦争終結妥協案は国民投票で決定発言に「その通り」

2022年03月22日 | 忘憂之物





COWCOWというお笑いコンビがいる。そう。「あたりまえ体操」の人らだ。右足出して左足出すと歩けるとか、両膝を同時に曲げると座れると教えてくれるネタだ。手首を前に出して何度も曲げると「人来る」とか、五体不満足の人が聞いたら、どれも我々には「当たり前」ではないんですが、と言われそうなものだが、まあ、それも含めてネタなんだろう。

いくつかバリエーションもあるみたいで、最近なら「あたりまえコロナ対策」とか「あたりまえSDGS体操」があった。このご時世、芸事でご飯を食べていくのも大変だと思いながら動画を見ると、石鹸で手洗いとか男女平等とかを「あたりまえ」にやろう、という内容になっている。オリジナルの「第五弾」の歌詞には「男は女を 女を男を お互いなぜか 求め合う 」とあるが替えたほうがいい。流行りだすとフェミがアップする。まあ・・・大丈夫か。

ところで、いま、ロシアが行っているのは「あたりまえ」に対する破壊行為である。我々が日常、普通に生活している様々な「あたりまえ」は当たり前に破壊することができる、という現実である。

この「あたりまえ」とは漢語の「当然」からきている。当然は「当前」と訓読みされて「当たり前」になった。元来、漁や狩りで「分け前」を得ることを「当然だ」とする権利主張の意味合いが強かったが、日本人は言葉を大切にして、そこに様々な意味を持たせることができるから、いつからか「あたりまえ」はいくつかの意味で使われることになる。

例えば川で溺れている子供を助けた英雄が言う。「当たり前のことをしたまでです」は体操のネタにはならない。「電車の駅で~人がホームに~~助ける!」とかすれば少し問題も生じる。こういう行為は実のところ「当たり前」ではないから称賛されることになる。無理に体操にするなら「緊急停止ボタンを押す」になる。さらにCOWCOWのネタで言うなら「毎朝起きると食卓に~~あさごはん!」としてから「あたりまえ体操」とかやれば、急に罰当たりなことになる。たぶん、オカンから叱られる。


あと「当たり前」にも多様性があるようで、みんながみんな納得できるような「当たり前」ばかりでもない。例えば、参院選を前にして日本共産党が長崎県で党大会を行った。そこで小池晃書記局長は演説をして「比例は共産党」の掛け声の後、

「核兵器の先制使用をいとわない核大国の指導者が出てきた。この危険から逃れるには核兵器廃絶しかない。共産党は、日本政府に核兵器禁止条約に参加するよう求め、全世界にも条約参加を呼びかける 」

と訴えて拍手喝采だったらしい。とくに「核共有」を言い出した安倍元総理は危険人物、危機に乗じて日本を改憲させて核武装を狙っている、とした。それを聞いていた長崎原爆被災者協議会の田中重光会長は「怒りと恐怖に震えている」とのことだ。4歳で被爆して今年で81歳とのことだが、実に元気に活動されているようだ。やはり、人間は「やる気」が大切だと思う。

そんな「やる気の元」となる安倍元総理については「核共有とは核兵器の使用も認めるもので、プーチン大統領と全く同じ立場だ」と言っている。すごい。「安倍=プーチン」らしい。すごい。日本における言論の自由は素晴らしい。はやくこのレベルが「世界の当り前」になってもらいたいものだ。

しかしながら、んじゃ、どうすればいいのか、と不安になっていると、小池氏は「憲法9条を守り生かす外交と、日米安保条約の廃棄・米国と対等平等の友好条約の締結こそ必要だ」と解決策を出している。ちゃんと代案を持っている、ということに共産党支持者は安心したことだろう。

つまり、これが彼らの「当り前」だ。整理しておく。

〇核兵器の先制使用を厭わぬ独裁者登場→→
→→だから世界は核兵器廃絶を目指す。世界から核兵器がなくなれば解決。日本は共有どころか議論もダメ。

〇日本の安全保障を守るためには→→
→→だから憲法9条で外交。いまこそ話し合いによる平和的外交。日米安保の破棄。通常の友好条約で十分。米軍基地はいらない。自衛隊もいらない。

だから日本共産党は「当たり前」に政権を取れない。日本の有権者は好きとか嫌いとかでなく、仕方がないから「当たり前」に「当たり前のことを言う政党や政治家」を探して投票行動している。それが少ないから困っている。



ともあれ、日本人の恐るべき感性はここにもみつけることができる。つまり、

「当たり前のことなどないのが当たり前」という逆説的な真理に気づいている。そこから得られるのは「感謝」となる。「有難い」が生まれる瞬間だ。

いま、日本だけでもないが、世界の「当たり前」は破壊されている。しかしながら、それは「当たり前」のことでもある。護らねば壊される。街や人だけではなく、文化や伝統、慣習や歴史という「当たり前」も破壊することができる。これらを峻別して死守するのが「保守本流」のことだった。いわば「日本としての当り前」を護り続けていく、のが本筋だった。

日本人は「当たり前じゃないことを当たり前にする」努力を怠らなかった。だから豊かになった。1978年に中国が改革解放とかやっても、巷にはいまのように「中国産」はなかった。中国からの「毒野菜」の輸入量は1990年から劇的に増加するが、それ以前に1万トンを超えていたのは「かぼちゃ」と「たまねぎ」だけだ。つまり、一般的なスーパーなどに「中国産」は陳列されていない。

それで誰も困っていなかったし、中国の顔色など誰も見ていなかったが、日本はべつに貧しくもなかった。それどころか自動車に家電、テレビなどの日本製は世界を席巻していた。映画「トランスフォーマー」で主人公が友人の女の子に、自動車から人型ロボットに変形する「バンブルビー」を見られたとき、咄嗟に「いや、あの・・日本製なんだ」と誤魔化そうとするほど、日本の最先端技術は世界の「当たり前」だった。

国民も「1億総中流」とのことで、少々、両親が揃っていて真面目な勤め人なら自家用車もあったし、一戸建ての家に住んでいたし、海外旅行にも行っていた。東大阪の下町、片親で育った私などは貧乏を謳歌していたが、他の友人はちゃんと「金持ち」にみえていた。

いま、無責任コメンテーターだけでもなく、中国との関係が悪くなれば日本の経済が深刻なダメージを負う、みたいな意見が罷り通るが、当時からすればとても信じられないことだ。わずか40年ほど。日本の「当たり前」はかなり破壊されている。

パパ・ブッシュがゴルバチョフと地中海で冷戦終結を宣言した1989年には天安門事件があった。日本も含めた西側諸国は、旧ソ連側から中国を引き離そうとするために融和政策をとった。豊かになった中国は自由主義国になる、そうなれば中国市場が開放されて、甘味たっぷりの経済効果が見込める、ということだったが、中国共産党は「当たり前」に学生の民主化運動を戦車で轢き潰した。最低でもここで気付くべきだった。

鄧小平から江沢民、胡錦涛と続く中国共産党を日本も支えてきた。1979年以降、40年での「対中ODA」の総額は3兆6500億円を超える。それだけではなく、人も技術も知的財産も惜しみなく垂れ流した。2010年には日本のGDPを抜いて世界経済大国第2位とのことだったが、ODAは2018年10月に安倍総理が日中首脳会談で「終了」を伝えるまで続いた。これが「当たり前」のことかどうかは言うまでもないが、2013年には怪物化した中国共産党、習近平はオバマに対して「太平洋分割管理構想」を言うまでになる。これも「当たり前」の帰結だった。日本を憂う知識人や保守論者は誰も驚いていなかった。

代わりにいま、公共の電波にて「中国にお土産を持って話に行け」「中国に頭を下げてでも仲介してもらえ」とか、当たり前の顔をする人が出ている。その人、昨日あたりにはアメリカの中国に対する追加制裁の中、ウイグル人への弾圧を止めるよう、中国当局者のビザを制限したことについて、なんと批判していた。自分のビザも制限されたと思ったのかもしれないが、その内容はこうだ。

「これを今のタイミングでやるか。ウイグル族弾圧を止めるための厳しい対応は必要だ。しかしあれもこれも一気に理想を実現しようとするのは学級委員的政治だ」

アメリカは既に中国共産党の人間なら資産も凍結して入国禁止なはずだ。「これを今のタイミングでやるか」もなにも、少し前からずっとやっている。それから「しかしあれもこれも一気に理想を実現しようとするのは学級委員的政治」に至っては意味不明だ。学級委員になにか恨みでもあるのか知らないが、橋下氏はたぶん、逆だろうと言いたい。例えば、それも「お土産」になるじゃないかということか。中国に対する制裁、これとこれを解除するからロシアに対する制裁の抜け穴にならないでください、と懇願せよ、と言いたいのか。

また、ウクライナのゼレンスキー大統領が「戦争終結に向けたいかなる妥協案もウクライナの国民投票で決定される必要があると述べた」との報道を受け、橋下氏は、

「その通り。戦争が進み一般国民の被害が拡大すればするほど、命が守られている戦争指導者・政治家・その手の専門家・学者たちと、死の恐怖に晒されている一般国民の感覚・認識はどんどん乖離する」

とSNSで評価していた。ゼレンスキーの意図はともかく、言葉面だけで受け取るなら「鳩山レベル」だ。そのときになってから多数決取るなら選挙はいらない。都度、投票できるシステムさえあればいい。議会制民主主義とは「決めてもらう人を決める」ものだ。その決断、判断ができない、遅い、検討ばかりなら支持はできない。また、その「結果」について責任を問われるのも当たり前だ。

それに、ここでこそ「これを今のタイミングでやるか」と言うべきだ。「その通り」とか言っている場合じゃない。昔々、大阪で通じた「手法」はもう使えない。世間の反応も以前とは違うはずだ。多くの日本人も、さすがに壊されまくった「当たり前」が心配になってきている。そしてなにが「当たり前」なのか、を考えるようになってしまった。左巻きの理屈と同じで、通じるのは相手が考えないときだけに限られる。考えられたらお仕舞だ。通じない。

いま、核共有の議論は必要か、と問えば半分以上が「必要だ」と応える。憲法9条で日本国は護れますか、と問えば「護れない」が過半を超える。もう、冗談で済まないことはウクライナを見ればわかる。ウイグル、チベット、香港を見ればわかる。台湾有事の際、アメリカが助けに来るかどうか、を案じているのは危険だと多くの日本人は「当たり前」に気づいている。

再生エネルギーがどうした、で太陽光パネルを敷き詰めても、お天道様が出ないと発電できません、というあまりに「当たり前」のことを真顔で言う政府や役所に都民もビビっただろう。なに言ってるんだ、いまさら、と呆れたはずだ。

日々、当たり前に感謝しながら、当たり前に当たり前のことをやる。気を許してはいけないのは「当たり前」の破壊工作だ。家族とか家庭、男女とか名前とか、仕事とか環境とか、選挙とか皇室とか、破壊工作は目に見えている。これらが破壊されてしまうと、当たり前の当り前、最後に残るは「くに」だ。

あって当たり前のものなどない。大切なものはすべからく護らねば破壊される。いま、ウクライナ人もそれを護っているんだろう。だから無責任コメンテーターにはわからない。





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