忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

さよなら鬼軍曹

2010年08月30日 | 過去記事
新日本プロレス顧問・山本小鉄氏が死去

<新日本プロレス顧問で「鬼軍曹」と呼ばれた元プロレスラーの山本小鉄氏が、低酸素性脳症で死去していたことが29日、分かった。68歳だった。同社が公式サイトで発表した。28日に死去したという。

 新日本プロレスなどによると、山本氏は横浜市出身。昭和38年1月に日本プロレスに入門後、星野勘太郎さんと「ヤマハ・ブラザーズ」を結成して活躍した。47年3月にはアントニオ猪木さんらとともに、新日本プロレス旗揚げに参加した。

 55年4月に現役を引退後は、鬼コーチとして後進の指導に心血を注ぎ、数々の名選手を生み出した。プロレス中継の解説者としても活躍した>







近鉄電車に乗って「上本町」で降りる。その日は新日本プロレスのイベントがあった。

小学校3年の私は転校したばかりだった。近所に住む悪餓鬼にも虐められた。蠅がたかる腐ったスイカの皮を頭にかぶせられたりした。もちろん何度か、ぶち切れて殴りかかるのだが、あっけなく返り討ちにされた。私はオカンに「空手道場に通わせてくれ」と泣いて頼み、筋トレとイメージトレーニングを重ね、小学5年生のとき、そいつを討ちとった。後ろから襲いかかり、絵具バケツで殴打して血塗れにしてやった。空手関係ない。

そいつがどれほど悪い奴だったかというと、20代前半で徒党を組み、ワンボックスカーで道行く女性を拉致誘拐してレイプし、身ぐるみ剥いで山に捨てて警察に捕まるほどの悪党だった。捕まったら余罪がボロボロ出てきた。あのとき息の根を止めておけばよかった。


まあ、ともかく、上本町である。私は4年生か5年生だった。

藤波がいた。健吾がいた。坂口がいた。猪木がいた。そして、山本小鉄がいたのである。

「闘魂三銃士」もいたが、まだ練習生扱いだった。この人も亡くなってしまったが「橋本真也」もいた。エキシビジョンだったが試合もしてくれた。今でも、まだ覚えている。

「蝶野・橋本VS武藤・山田(ライガー)」である。今思えば、とても豪勢だ。4人とも丸坊主でヘッドバッドばかりしていたが、武藤はもう、その頃から「ラウンディング・ボディプレス」を繰り出していた。体も技もあり、闘志もあり、華があった。子供心に「この4人は伸びる」と確信したものだ。そして「プロレスの実演」を終えた4人は、すぐに山本小鉄に呼ばれてもいた。たしか、蝶野は叱られていた(笑)。

「黄色いトレーナーの、そこのキミ!」

ファン参加型のイベントだった。私はその日、黄色のトレーナーを着ていた。生まれて初めて「リングのロープ」にも触った。鉄柱にもフェンスにも触った。山本小鉄にはマットの上でヒンズースクワットを教えてもらった。それが嬉しくて、毎日、スクワットをした。中学になってラグビー部に入った時も、私だけが、いわゆる「レスラースクワット」だったから笑われたりもした。先輩部員が隣で「リズムタッチ」のCMソングを歌ったりした。

腕立てはもちろん「ライオン腕立て」だ。新聞紙を使った握力トレーニングも、手が真っ黒になるまでやった。朝日新聞でやればよかったのだが、実家は読売新聞だった。でも、お陰で中学生ながら背筋力は200キロを超え、ベンチプレスは100キロをあげ、50メートル走は6秒台前半だった。3年生になったらもう、途中で入部した柔道部の練習には誰もついて来られなかった。我ながら、ちょっと少ないタイプの中学生だった。

私が本気で助走をつけてタックルすると、先輩が中空に浮かび、1回転してから地面に落ちた。顧問教師も先輩部員も全員が絶句していた。柔道部では前年度団体戦準優勝チームを、私一人で5人抜きして、ついでに顧問の教師も絞め落とした。中学を卒業するとき、私は担任の教師に「高校には行かず、ハルク・ホーガンを倒す」と真顔で言ったら「高校だけは行け。ホーガンは逃げない」と言われた。でも、ホーガンはWWFに逃げて行った。

しかし、私は身長が足らないから不安だった。ホーガンは当時の私よりも40センチも背が高く、体重は2倍で140キロあった。毎日、牛乳をがぶ飲みして、どんぶりで何杯もメシを喰った。とにかく、でかくなりたかった。オカンも祖母も私がたくさん喰うと嬉しいようで、オカンの自転車に積まれた買い物袋は相撲部屋のようになった。オカンは協力してくれていた。「猪木をKOした毛唐をお前が倒せ」と言っているような気がしていた(笑)。

私は猪木のプロフィールから「納豆」というヒントも得た。猪木は若いころ、納豆ごはんを「ドンブリで10杯喰った」と書いてあった。しかも、納豆と同じ量のセロリやパセリ、ニンジンやピーマンを刻んで放り込む特製だった。オカンはそれも作ってくれた。でも、どんぶり10杯はどれほど頑張っても喰えなかった。私は敗北感と挫折感を味わった。


そんなとき、週刊ゴングという雑誌に山本小鉄がコラムを書いていた。

そのころデビューして「ヤングライオン杯」で準優勝した山田恵一というレスラーを紹介していた。ヤングライオン杯の決勝はテレビで観た。相手は小杉俊二だ。小杉俊二は病気か何かですぐに引退してしまうのだが、このときの山田恵一は後の「獣神サンダ―ライガー」ではないか、と言われているレスラーだ。しかし、新日本プロレスでは「山田恵一は海外武者修行で死んだ」ことにされているから、その魂が吹き込まれたのがライガーであるのだ!(しゃきーん)

山田恵一は当時「あすなろスープレックス」という必殺技を使っていた。漫画「あいつがゴッチ」に出てくる「クロスアームスープレックス」を、そのまま現実のリングでやった。たしか翌年のヤングライオン杯では、この技で優勝しているはずだ。この山田恵一というレスラーの身長は高くない。公表されているのは170センチである。もちろん、新日本プロレスの入門は許されなかった(当時)。すると、山田恵一は単身でメキシコに渡ったのだという。メキシコのプロレスは「ルチャリブレ」と呼ばれる。エルカネックのような大きい覆面レスラーもいるが、多くの軽量級レスラーも輩出している。山田恵一はその「本場」でレスラー契約して、ベルトまで獲った。それを新日本プロレスが逆輸入したのだという。

これだ、と思った。アミーゴとテキーラ、あとはサボテンくらいしかイメージの無いメキシコに渡ろうと思った。悪友の何人かが受験だ、就職だと騒いでいるとき、私はそんなことを本気で考えていた。今から思えば、ある意味、健全なバカだった。英単語をひとつ覚えるよりも、ダンベルをもう10回上げるほうが重要だった。新聞配達して得た金で練習器具やプロティンを購入した。当時のプロティンは不味くて飲むのに苦労した。

勉強は嫌いではなかったが、それよりも大切なことが出来た瞬間だった。結局、途中で挫折してしまった夢だったが、まさに小人閑居して不全を成す、マトモな目標が私を変な方向に走らせなかった。明らかにこれは山本小鉄氏の責任である。


そういえば、近鉄の枚岡という駅近くに中学校がある。そこに柔道の試合で行った際、面白い奴に出会った。相手も私に気付いていたらしく、その後、我々はすぐに打ち解け、友人になった。彼は今でも、ツレ仲間として年に一回の旅行などにも参加する悪友だが、その日の試合で、私は一回戦からずっとプロレス技で勝ち進んでいた。とはいえ、中学レベルの柔道では裏投げなどが禁止されているし、腕を直接使う「絞め技」も関節技も禁止だから、使用して、且つ、勝利できる技は限られている。そんな私が無念にも判定で敗れ、空いた時間に畳を観ていたら、なにやら「おかしな動き」をする小さい男を見つけた。

彼は、いわゆる「ダブルアームスープレックス」を仕掛けようとしているように見えた。しかし「123の三四郎」でもあるまいし、実際にはあり得ない話である。もちろん、彼はあっけなく負けた。絶好のチャンスに「ビルロビンソンの真似」ばかりしているのであるから、それも無理のない話であった。柔道はそんなに甘くないのである。

試合に負けた者同士、他のメンバーの試合も見ないでプロレス談義に花を咲かせた。その後、彼とは何度もプロレス会場に足を運ぶことになったし、バンドを組んだ際のメンバーでもあった。長い付き合いになったわけだ。これも山本小鉄氏の責任である。



そして、また、昭和プロレスのスターがひとり逝った。

何とも言えぬ寂しさ、である。何とも言えぬ儚さ、であるが、まあ、野球であれ、サッカーであれ、多くのプロスポーツ選手は、少々、性根が曲がった少年を真っ直ぐにさせることができる。それはエースでもなければ、メインレスラーである必要もない。単純明快に「何かに一所懸命になること」は大切なことだと教えてくれる。勉強だけではなく、もちろん、スポーツだけでもなく、その「何か」とは何でもいいのだろう。

新日本プロレスの鬼軍曹も、そんな存在だった。心よりご冥福を祈りたい。

ありがとう。

2 コメント

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Unknown (二代目弥右衛門)
2010-08-30 22:39:44
ジャイアント馬場にジャンボ鶴田、三沢光晴、大熊元司、剛竜馬……
少年のころ、夢中になったプロレス。
一人、また一人とリングから去って行くのを見ると、淋しくなりますね。

今日、28歳の部下に山本小鉄氏の訃報を伝えたところ、「誰ですか?」

思わず、「お前の本当の父ちゃんだ!」
そう、答えたくなりました。

昭和の名レスラーであり不世出の鬼コーチのご冥福をお祈りいたします。

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Unknown (久代千代太郎)
2010-08-31 23:47:27
>かいちょ

さみしいですねー

向こうでのドリームマッチはすごそうですけど。いつか、一緒に観ましょうね。うふふ。
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