忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

キンコン梶原 ローンが負担だった(日刊スポーツ)>2012.6.2

2012年06月02日 | 過去記事

    



キンコン梶原 ローンが負担だった(日刊スポーツ) - goo ニュース


<キングコング梶原雄太(31)が30日、母親の生活保護受給問題について、都内で取材に応じた。母親のために購入したマンションのローン返済の負担が大きく援助が難しかったことが理由だったが、この日は「親戚の借金の担保に入っているためマンションは処分できませんでした」と詳細を説明。「ローン返済額の見直しを考えなかったのか」と聞かれると「マンションが担保に入っていたので(返済額の)切り替えが難しかった」と話した>






テキヤのおっさんが生活保護を騙し取る事件があった。ヤクザがケースワーカーを脅し、あるいは抱き込んで盗み取る事件もあった。世間の人は眉をしかめ、不正受給でのうのうと贅沢する白アリ根性に憤る。それから、こういう輩を取り締まり「本当に必要な人」にこそ差し上げてもらいたい、と真っ当な批判をする。

しかし、その「本当に必要な人たち」が市役所に行くと、三親等以内の親族全員に「○○さんから申請が出てますけど」と確認がいく。「本当に必要な人たち」は本当に必要なのだが、ここで「恥ずかしい」とか思ってしまう。冠婚葬祭で顔を合わす親族全員に「御国の世話にならないとダメなのか」と知られてしまうし、なにより、それでは私が面倒みます、という親族が出てくる可能性もある。致し方ない状況とはいえ、あくまでも「自分の都合」で親族に迷惑をかけてしまうことになる。だから躊躇い、戸惑い、なんとかならないものかと知恵と汗を絞る。それで限界まで耐え抜く。もう無理だ、というところまで。

在日外国人にはコレがない。外国人登録証は「個人の証明」にしかならない。三親等以内、とか追えない。だから確認も取れないし、たとえ確認が取れたとしても、本国に連絡して「面倒見れますか?」とやっても仕方がない。それに彼らは「恥の概念」がない。道端に荷物があり、誰も見ていなければ盗らない理由が思いつかない。「もらえるものはもらう」が基本的な認識であるどころか、その実、彼らの意識は「盗れるモノは盗る」まで堕している。しかし、日本人には理解不能だが、それが世界標準だったりする。

また、彼らは実のところ「国」とか「公」という概念もわからない。だから「人様に迷惑かけぬため家族の面倒を見る」のではなく「人様はどうでもいいから自分の家族だけ得する方法」を探して選ぶ。「恥」がわからないから、三親等以内の親族に遠慮もない。あるいは三親等以内の親族も「無理だと言えば良いだけ?」くらいにしか思わない。冠婚葬祭で顔を合わせても「うまくやったな」という会話になる。今度、オレにも頼むよ、となる。


少し前、河内屋の親父と京橋で飲んだ際、親父は昭和の文豪、井上靖が書いた「わが母の記」を貸してくれた。映画は観ていないが、この自伝小説でも井上靖本人、その兄弟らは認知症になった母親の面倒を見る。生活全般はもちろん、旅行にも連れて行く。小説の核は認知症という病気であり、薄れゆく記憶であり、それを受け止めていく家族の物語であるが、これはいわゆる、日本における「普通の家族」の姿でもあった。

日教組が「道徳教育はけしからん」としてしばらく経つ。この国から「道徳」を壊せば、つまるところ限りなく支那朝鮮人に近くなる。日教組の目的は、そういう意味での「同化政策」でもあった。彼らの実体験から、そうすれば国が疲弊すると既知であるからだ。

ナマポ芸人らの国籍は知らんが、いずれにしても「日本人的マインド」ではない、と断じても差し支えない。先月30日に記者会見した「生活保護問題対策全国会議」なんかもそうだ。出席した水島宏明という法政大学教授は<生活保護は恥ずかしいものだというメッセ―ジを国民に伝えた。制作者側は差別的な発言であるという意識を持っていない>と怒っているらしいが、普通の日本人は「恥ずかしい」と知っているから、ぎりぎりまで自分でなんとかしようとする。そして、この「恥ずかしい」という感覚が、彼らには絶対にわからない。もちろん、これは「不正受給は恥ずかしい」の手前にある。繰り返すが、彼らには不正であれなんであれ「受給する」こと自体には何の抵抗もない。「受給できる」ならば「受給しない理由」がわからないからだ。

クソ面白くない漫才師の母親は2千万円のマンションに住んでいる。「息子のオカン」としてテレビにも顔を出していた。何やら商売もしていたし、サプリメントの広告に出たりもしている。




この漫才師は「売れていなかった時代」に母親に苦労かけたことを申し訳ないと思っている。だから記者会見で堂々と話すことも出来るし、不正受給していたという感覚はない、とか抜かすことも出来る。つまり、自分だけが贅沢な暮しをする、ということには抵抗がある。一応、オカンはどうするんだ、という自責の念がある。

普通の日本人的マインドを持つ人は「オカンに生活保護を受けさせるのは恥ずかしい」となる。それは息子である自分が恥ずかしい、ではなく、そのまま「オカンに恥ずかしい思いをさせてしまう」ということになる。自分は息子だからいいとしても、オカン本人は三親等以内の親族に「生活保護だ」と知られてしまう。それになにかと肩身の狭い思いで日々暮らすのではないか、と案ずることになっている。

支那朝鮮人的マインドとは「国」とか「公」はなく、あくまでも「家」という単位が「公共心の及ぶ限界」となる。よく「韓国大好き」の人らは、あの国をして「儒教の国」とか言いたがる。目上の人、それも親を敬う気持ちが半端ではない、それに比べて日本人の若者を見ていると情けない、とか言ってマッコリ飲みながら悦に入る。だからクソ面白くない漫才師も、自分のオカンには贅沢をさせるし、立派なマンションに住まわせることもする。売れ出して贅沢できるようになったら、自分だけではなく、オカンにも贅沢させたいと思う。悪いことではないのだが、彼らは「この手段」を問わない。

我々は普通、親を楽にさせる、という意味を考えるとき、単純に親に不労収支を与えることではないと知る。それは心配をかけず、オカンの子として立派に社会生活を送る姿を見せて安心させる、ということも含まれる。これはこれでオカンの自慢になるかもしれない。あのアホンダラがこんなに立派になって・・・と目を細めるオカンは少なくない。あるいは、年老いた親が無理をしているなら、それだけはなんとかならないか、なんとかしてあげられないか、と思案する。旦那や妻に相談もする。親がまだ元気なうち、たまには温泉でも連れて行ってあげようかと計画する。自分や孫の顔を見せに行ったり、オカンの手料理を喰って褒めたり、愚痴や悩みを聞いたりしてあげることだと知る。

この法政大学教授がいくら<生活保護は恥ずかしいものだというメッセ―ジを国民に伝えた。制作者側は差別的な発言であるという意識を持っていない>と怒りを露わにしても、普通の日本人はやっぱり「恥ずかしい」と感じるし、可能な限り「御国の世話になってはいけない」と思いながら生きていく。御国に面倒見てもらうなら、差別はともかく、そこに区別はあって然るべきだと思っているし、良くも悪くも、自分が社会のお荷物になってしまった、と詫びるような気持で生きていく。これはどうしようもない日本人的感覚だが、日本人的マインドならば、ここから「せめてなにか社会の役に立てないか」と考えてボランティアをやったりする。公園や駅前を掃除したりする。なにかできることは、ということで、老人ホームでお茶を配ったり、掃除をして帰ったりする人もいる。日本の社会とは「そういう感覚」で成立していたところが大きい。だから世界が驚愕する。


テレビはNHKも含めて、今回の件を「不正受給じゃない」とか、民主党みたいに「法的には問題ない」とやった。どこのだれも「道徳的に問題がある」とはやらなかった。だから市役所には「年収5000万円以下でローンでぎりぎり」という人らが殺到する。「あいつでもらえるなら自分も」ということだ。日教組が尽力して道徳を壊した。その壊された人らはなるほど、その手があったか、と厭味半分、市役所の窓口を困らせることくらいはする。これらはたぶん、民主党が政権を盗ったとき、早くも市役所に電話して「子供手当はいつからもらえるのか」と問うた人らと同じ人だ。




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