忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

目上の人でもタメ口? 「困った後輩」とうまく付き合う方法>2012.3.22

2012年03月22日 | 過去記事


目上の人でもタメ口? 「困った後輩」とうまく付き合う方法(escala cafe) - goo ニュース




思い出した話を書く。

10年と少し前、パチンコ屋の「幹部候補生募集」に引っ掛かった。私は「第1期生」十数名の中で最初に昇進した。当時の総務部長から「期待値最下位からの優勝」とか言われた。そのころ「第2期生」がきた。私は何人かの「指導係」となった。その中の一人に丁寧な言葉遣いの中途採用者がいた。私よりも5つほど年上で、良くも悪くもマイペースな男だった。それに要領は悪いが頭は悪くない。若干、理屈っぽいが手を抜かない男だった。

とある日、昼食を済ませた私が会社の食堂から出ると、ちょうど玄関の靴を揃える彼を見つけた。礼儀正しく、笑顔も絶やさない。実に将来有望な男が来たモノだと私は嬉しくなった。だからこそ、その男性には厳しく仕事を教えた。本社から与えられる課題だけではなく、私もいろいろと「宿題」を出した。私が血の出る思いで身に付けた計数管理の仕方やら関係する法律の理解やらを説き、パチンコ機や周辺機器のメンテナンスの知識、私なりの人材管理、人材教育概念も惜しみなく伝えた。

彼はとある営業中、小さな地震が発生した際、両替機を「開けたまま」逃げ出した。咎めると、本人曰く「逃げ出したのではありません。周囲の様子を確認しただけです。その証拠に、両替機から遠く離れたわけではありません」と言い訳した。最後に「でも、誤解を与えてしまったのなら申し訳ありません」も付け加えた。私には違和感があった。アレっと思った。ちょっとだけ「正体」を見た気がした。

彼の社内評価は高かった。そして、彼は教科書通り「指導者が素晴らしいのだ」と謙遜する。彼はともかく、私のことは立てた。一部では「信者」とからかわれていたが、その彼は「光栄です」と応えるまでだった。本社もそんな彼を評価、合わせて私の評価も上がった。自分でいうのも口幅ったいが、その頃から社内では「人材育成ならこいつ」というイメージも出来上がりつつあった。幹部候補生は3期生、4期生と更に続くが、私は現場での個別指導もするし、全体の講師として本社に呼ばれるようになる。新卒者含む数十名の前で何時間も講義を務めることになり、また、既に現場で働いている中間社員らを集めて「業務のあり方」「業界に対する理解」などの社内研修の講師もした。某大手メーカーの新規採用者講習にも講師として呼ばれたが、さすがにそれは遠慮したこともあった。

そのうち彼も昇進した。当然、第2期生の中ではトップだった。私は既に配属店舗を変わっていたが、なにかの仕事で彼のいる店舗を訪ねたことがあった。そのとき、昇進して「私と同じ職位」になった彼と初めて会った。私は「おめでとう」と声をかける。すると、だ。

彼はタメ口だった。私のことを「くん」で呼んだ。呆気に取られた私が窘めると、彼は空気も何も読まず、いつまで偉そうにしてるんだ、と笑った。もう同じ立場、それに年齢は僕の方が上だョと。私は、それでも先輩じゃないか、と言おうとしたが止めた。もうダメだと思った。「あの時の違和感」は当たっていた。

それからしばらく、別の店で働いていた。本社の会議で顔を合わせても、向こうから「よう!」ってな感じだった。その横柄、且つ、浅慮な言動は、彼の後輩になる「3期生」の前では顕著になった。明らかに調子に乗った彼が、冗談交じりに首を絞めてきたこともある。さすがにそのときは手首を捩じ上げた。悲鳴をあげたから笑いながら謝った。まあ、その手の「冗談」は私の専売特許でもある。

その後、彼と一緒に働いたのは数日だけとなる。私が「主任代行」として彼の配属先に転勤した際だ。我々は当時、副主任と呼ばれるポジションにいた。噂では彼が先に主任になる、というのもあった。元来、頭の良い男であり、仕事も真面目、基本的なスペックは高いから無理もない。所詮は「改札口を先に通る」程度のこと、どちらが先に通るか、など瑣末なことだ。だから私は悔しいとは感じなかったが、大いに「とある不安」を感じていた。同時に、現場スタッフの声、共働く仲間からの彼の評価は最低だった。ワンマンとか、部下を見下している、などのクレームが酷かった。事実、彼を原因として何人かも辞めていた。そして転勤後、その不安は的中することになる。

彼は孤立していた。老け込んでいた。疲れていた。「主任代行」として転勤してきた私に「よう」と元気のない挨拶をしてきたのを覚えている。そして「もうすぐ、こんな口も利けなくなるな」と彼独特の社会観からなる皮肉も口にした。あんたが先に主任になる、と言いたかったのだろう。ほどなくして彼は転勤して行った。

それから何日か過ぎた、とある夜。閉店後だった。私は当時あった現金機(CRではなく、パチンコ台の横に現金を投入して遊ぶ)の島(パチンコ台が並ぶアレね)のドブ(島の中にある底板ね)を引っぺがした。というか、簡単に取れるように細工されていた。中から袋が出てきた。袋の中にはずっしりと500円硬貨があった。その500円硬貨が通るサンド(お金を入れると玉が出るアレね)は売り上げを管理するコンピューター配線が抜かれていた。つまり、売上金から「誤差」は生じない。

パチンコ好きは懐かしいだろうが、その店にもあの「ホー助」があった。旧型だ。遊技台の裏を開けると、とある部分に「2ピンハーネス」がある。コレを抜くと「特賞口」の開放時間が延びる。つまり、当たりやすくなる仕様だった。これが何台か置きに「抜けて」いた。私は汗だくになってそれをはめ込み、上からホットボンドで塗り固め、蛍光塗料のマーキングを施工した。

まだ、ある。

スロットの設定票と実際のスロット島の設定が違った。妙な客が出入りしていた。何人かは監視カメラの静止画像を写真に撮って本部に送った。「店長の机」には不自然な「特殊景品」があった。これも写真に抑えた。「私が来る前日」に故障した遊技台があった。調べると壊れていなかった。基盤を調べるとクロだった。コレも基盤を確保した。

店長は連日、私を誘って来た。私は終日、ほとんど店にいたから断った。疲れているし、次の日もあるからと。

すると店長は「朝の仕事なんか副主任にさせればいい。オレらはゆっくり寝てから行けばいい」と肩を叩いた。実際、何度か誘いに乗った。焼肉やら寿司を御馳走になり、北新地の高級クラブで「口説かれた」。どうか、もう、(動くのは)止めてくれと言われた。私は都度、それを断り、次の朝もちゃんと出勤した。寝ないで行った。信頼して店を任せられる副主任などいなかった。

ある夜、女性を連れていた。若くて綺麗だが、ちょっと派手な女性だった。曰く「離婚してからコレと一緒になる」とのことだ。知ったことかと思っていたら、どうやら「コイツに借金があって大変なんだ」みたいな話になった。だから見逃してくれと。オンナは真っ赤なワインを飲んでいた。フルボトルの値段はウン万円だ。先ずはそれを止めろと思った。

店長は私を懐柔して抱き込むつもりだった。私の主任昇格には、当時の専務が大反対だった。理由はもっと後でわかるが、それも結局は不正がらみだった。専務が責任者だった店舗の遊技機から「イケナイ部品(非売品)」が出てきた。みつけたのは私だった。

同じ穴のナントカ、この店長は自信満々、オレが言えばタヌキ(専務)は黙る。オレが「主任」としての推薦状を書いてやる、とは別に「魅力的で具体的な条件」も提示された。しかし、途中で店長はあきらめたようだった。残念だが私は祖母の教え、母親や妻のお陰でカネやオンナで転ばない。ヤクザの事務所で「挨拶代り」の百万円の束ふたつ、親分格の「アニキ」に突き返したこともある。舐めてもらっては困るが、私は豪華な不正満喫生活の代わりに、寮の自室や周辺に神経を尖らせた。自宅に帰ることも止めた。危険だと判断した。

横柄な彼が去った後、2名残っていた副主任は青ざめていた。そのうちの一人が営業中に行方をくらませた。カウンターの女性従業員と一緒に、だ。もうひとりはコソ泥だった。タバコやCDを失敬して売ったりしていた。つまり、その店は不正でボロボロだった。

私は当時の総務部長から直接、それらを暴きだせ、と指示を受けていた。こんな危ないこと、お前以外には頼めないと。冗談ではないが、その実態はもっと冗談ではなかった。はるかに予想を超えていた。私はそれらをまとめ、証拠写真も添付して報告書にした。本部は大騒ぎになった。その店長はトップの信頼厚く、グループが起業した頃からの功労者だったからだ。異名は「カミソリ」。仕事には厳しく、部下にも容赦ない。事務所では灰皿やゴミ箱が飛ぶ。事務所に野球部はなかったがバットはあったし、剣道部もなかったのに竹刀や木刀があった。事務所の壁は蹴られて穴が開いていた。まさに恐怖の対象、同時にトップ自慢の辣腕だった。現場レベルでは誰も逆らえない実力者だった。

しかし、その店長は私の転勤後、ちょうど1ヶ月後に転勤を命じられる。左遷だった。転勤先は私が異動前にいた店、ガラの悪い客層で有名な店だった。店長は本社に懇願、なんと、私を連れて行かせてくれ、と頼んでいた。いま思えば、それが彼の「最後のシゴト」だった。私も1ヵ月で再度転勤となるわけだが、出勤初日、今度はその店長が飛んだ。

店長は私の報告書を知らなかった。転勤の辞令を受け取った際、トップからすべてを聞いて、もう観念したと見える。本当は私をその店舗から引き剥がし、その後は「コマ」を使って遠距離不正、小金を稼ぐつもりだったのかもしれない。もしくは、しばらく大人しくしてほとぼりが冷めるのを待つ。どうせ、その程度の浅知恵しかない男だ。なにが「カミソリ」だ。そんな切れてない錆びた刃、ヒゲソリにもならない。剃れてな~い!だ。

それから少しすると、私は全店舗の景品管理を任せられる。全店舗に入り込み、コンピューターも見られるし、従業員にも接することができる。もう不正は出来ない、ということだが、私にはずっと気になることがあった。その不正の温床で孤立していた「彼」のことだ。彼は要領が悪いし、タメ口だし、ある意味ではとても馬鹿だが、真面目だけが取り柄のような奴だった。金にも汚くない。なるほど、彼も私と同じく、不正をなんとかしようと動いたのだが、悲しいかな個人の限界、不正の泥沼で孤軍奮闘していたのではないかと心配になった。久しぶりに彼に会った。私から誘った。

安居酒屋、生ビールで乾杯した。事の詳細を話すと、彼は絶句していた。「知らなかった」と。今度は私が絶句する。コンピューターを見ればわかる。データーを見ればわかる。伝票やジャーナルからわかる。それらは全て、私が教えたじゃないか。あなたはそれを必死で学び、誰よりも理解していたじゃないか。それになにより、コソ泥レベルの不正は隠されてもいなかった。その程度のこと、なんであんたが気付かない、なんであんたが知らないんだと詰め寄った。

「どうせ、そういう世界じゃないの」

彼はそう答えた。ナニ熱くなってるのと。彼は曲がってしまっていた。この業界が嫌になっていた。いや、自分が嫌になっていた。

その店は管理職の不正が蔓延していた。当然、スタッフのモラルは最低だった。そんな中、彼は懸命に「正論」を吐いて仕事をした。「お客様には丁寧に接しなさい」と指導した女性スタッフからは笑われた。阿呆かと。お前の上司や同僚はナニをしているんだと。

彼は続けた。

「あそこはカスの集まりでしたからね」

私は違う、と言った。具体的に何名か、個人名を挙げた。元、彼の部下たちだ。

その女性スタッフは「鈴木(仮名)」といった。30歳で娘が一人いた。ハウスルールには「アクセサリーの類は禁止」とあったが、彼女はピンクのリストバンドをしていた。「彼」に話すと知っていた。「彼」はもちろん注意したが、彼女は馬鹿にした笑いで相手にしなかった。

私は結論から言った。それを彼女自ら外したのだと。「彼」は少し驚いていた。

そのリストバンドは娘からのプレゼントだった。「彼」はそれを知らなかった。だから「ルールだから外せ」とやった。そこには「いい年してルールも守れないのか」とか「そんなダサいリストバンド、いったい、なんなんだ」という主観が含意されていたのではなかろうか。ならば、その女性スタッフは意地でも外せない。娘からの誕生日プレゼントを馬鹿にされたような気がしたかもしれない。不愉快になったはずだ。しかも、不正を見ぬふりする、あるいは、それに気付かぬ鈍感無責任に嫌気もさす。何がルールだと。

私は最初、そのリストバンド、可愛いですね、と近づいた。もちろん、警戒心丸出し、キツイ目で睨まれた。それから「娘さんからのプレゼントだそうで・・・」と言った。表情が変わった。なぜ知ってるのか?と問うから「○△さんから聞いたんです」と正直に答えた。彼女と仲の良い女性スタッフだった。

私は彼女を事務所ではなく休憩室に呼んだ。

優しい娘さんですな、と切り出し、いくつ?などの雑談をした。彼女は「娘のこと」を少し話してくれた。その中で、旦那がいなくなったが、自分ひとりで立派に育てて見せるのだとも言った。娘は自分の命、この娘のためならなんでもやるのだと、母親の決意を述べた。強く、優しい、立派な母だった。

私は言ってみた。

――でも、自分のプレゼントの所為で、お母さんが職場の上司から「外せ」と言われている現実はどうでしょう?現状を知った娘さんはお母さんに悪かった、とか思いませんか?あなた自身も娘さんのプレゼントで嫌な思いをする。でも、リストバンドは悪くない。もちろん、ハウスルールを知らない娘さんも。だから、ただ仕事前には外してロッカーに入れる。仕事が終われば、また、その左腕につける。それだけで、そのリストバンドは悪くないんです。私も「可愛いですね」だけ言っていればいい。どうでしょう、ここはひとつ相談ですが・・・・まで言ったら、彼女は「わかりました!」と言って外した。

私は「ありがとうございます。助かります」と礼を述べて立ち去った。

彼女は私が現金機の島、ドブの中から500円硬貨が詰まった袋を出したとき、通路の端から見ていた。私のシャツは汚れて、汗だくになっていたから「お絞り」を持ってきてくれた。「汚れてますよ、背中とか・・・」と言ってくれたが、私は顔の前で手を振り「もっと汚れているのがあります。見ていてください。必ず、綺麗にします」と応えた。

もうひとり、書いておきたい。

「丸岡(仮名)」のことだ。彼女は21歳だった。私が転勤してから1週間、口も利いてくれなかった。挨拶しても無視、話しかけても無視。一度、しつこく食い下がったら怒鳴られた。「お前」と呼ばれた。おまえ、しつこいんじゃ!だったような気がする。

「彼」は笑った。「あいつはそう。常識がない、というか、あんなので世の中、生きていけると思ってる。馬鹿の代表、どうしようもないね」と言った。私は「いま、彼女はアルバイトリーダーだけどね。いま、景品と計数を勉強してる。社員になりたいそうだ」と明かすと仰天して、それから狼狽した。

「丸岡」を支配していたのは不信感。それと嫌悪感。あっさり言うと、店舗の副主任から口説かれたりもしていた。もちろん、コソ泥も知っている。他の女性従業員が飲まされて潰され、そのままラブホテルに連れて行かれた、なども知っている。そんな連中、だれでも口も利きたくない。相手にしたくない。「丸岡」もそうだった。早く辞めたい、気持ち悪い、といつも言っていたらしい。

私は転勤当初、先ずは掃除をした。事務所から倉庫を整理整頓した。従業員の休憩室の場所も替えた。いままでは事務所の横スペースにパイプ椅子と灰皿が置かれているだけだった。私は倉庫で見つけたソファを引っ張り出し、ホームセンターで小さなテーブルを購入、その「部屋」にカーテンを付けた。店長は「広くすると従業員が溜まってうるさい」とか言ったが、私は「それが重要なんです。居心地が良い、は離職率低下の最優先課題です」と譲らなかった。デブの事務員も手伝ってくれた。彼女はデブだが、こっそりと「資料」を盗んでくれたりもした。不正撲滅に大いに役立った。デブだけど。

変わり果てた休憩室に「丸岡」は目を丸くした。きょろきょろしながらソファに座っていたから、私はカフェオレを奮発してテーブルに置いた。ワゴンサービスで買った美味しいヤツだ。「御苦労さん、どうぞ」と差し出すと、そのままカップごと灰皿に捨てられた。そのあと「はぁ~あ!」と白々しい大きな溜息をついてホールに戻って行った。

その日の夕方、終礼が終わると、私は「丸岡」に「今日はすまん。休憩を邪魔したな」と謝った。「丸岡」は無言で私を睨みつけてロッカー室へ行った。

「丸岡」の態度は客に出なかった。どころか、よく動くし、常連様とも親しげにやっていた。他のスタッフ、アルバイトの一部限定だが、それらとも仲良くやっていた。あくまでも管理職、それと正社員全般、古いアルバイトの何人かだけを蔑視、敵視していた。

ある閉店作業のときだった。立体駐車場1階の蛍光灯が何本か切れていた。気にはなっていたのだが手が回らなかった。それに1階とはいえ、数メートルの高さだ。こんなの従業員にさせるわけにもいかない、と思っていたら、コソ泥の副主任がなんと、させていた。

私が言ったのだ。「蛍光灯が切れてるな」と確かに言った。だからこの馬鹿は気を回したつもりなのか、自分ではなく、アルバイトにやらせていた。脚立は相当な長さになる。それでも足らなかったから「脚」にはブロックが置かれていた。下では何人かで抑えてはいるが、そのてっぺんでは男性アルバイトが震えていた。それをみてコソ泥は笑う。その子分みたいな男性アルバイトも笑う。下から「根性出せ」とか「ビビってる」などと馬鹿にしていた。少し離れたところに「丸岡」が見えた。何人かと笑っていた。

私は血の気が引いたが、静かに歩み寄り、コソ泥に小さな声で「下ろせ」と言った。へ?という抜けた顔をするコソ泥に、もう一度、そっと「おろせ」と告げた。そして、私も脚立を支えた。男性アルバイトがそろそろ降りてきた。その足がブロックからアスファルトの地面に着いた瞬間、コソ泥の名を怒鳴りあげた。遠くにいた「丸岡」も固まった。

「ふざけるなよ、おまえら、これの何が面白いんだ!!!」

一喝してからコソ泥に向き直した。「お前はこいつが落ちて死んだら親になんて言うんだ!!時間給1000円かそこらでやる仕事か!!これが!!!」

収まらなかった。私は「抑えておけ!」とコソ泥に命じ、蛍光灯を掴むとなんと、自分で上った。コソ泥は「危ないですよ・・・」とか言っていたが、私は「この中ではオレがいちばん給料が多い!それにオレは落ちても死なん!」と言い返して上った。怒りで恐怖を忘れる、というのはある。ならばその逆もある。上らなければ殴っていた。その場合、死んだのはコソ泥になる。

蛍光灯が点くと我に返った。下を見てはダメ、と下を見ながら思い出した。私は正真正銘の高所恐怖症。自宅のベランダで足がすくむレベルである。上でしばらく固まった。脚立のてっぺんを跨いだ形になるから、そのままでは降りられない。風も感じ始めた。それでもなんとか、ようやく、よいしょよいしょと下に降りた。アスファルトを踏んだとき腰が抜けた。そのまま駐車場にへたり込んだ。周囲のスタッフは笑わず、笑えず、じっと見ていた。私はコソ泥に肩を借りてふらふら立ちあがった。「顔が青いですよ」

うるさい、二度とするな、と言って事務所に戻った。

次の朝、両替金を配り終わった私が例の「休憩スペース」で座っていると、おはよ、と声がした。「丸岡」だった。彼女はテーブルに缶コーヒーを置いた。私が驚いて見上げると、あげるから飲みや、と上から言って来た。私は「ありがとうございます」と言った。



私が店長になって1年ほど過ぎた頃、社のパーティがあった。優秀店舗の発表、それと従業員の表彰もある。大きなホテルの会場、その壇上には「丸岡リーダー」がいた。ホール、カウンターを問わず、どこでも第一線で働く彼女は店舗推薦で「優秀社員」として表彰された。その挨拶だった。短い挨拶の中、彼女は「尊敬する人物」として私の名を言った。「感謝しています」と。顔から火が出た。

歓談が始まり、私が他の店長やらと話していると「丸岡」がきた。私が「おめでと」を言うと、彼女は居並ぶ幹部連中の面前、抱きついてきた。「丸岡」は私の送別会で最後まで泣いた。周囲が笑いながら諭す中、1ヵ月しかいなかった私の腕にしがみつき「いやだいやだ」と大声で泣いた。

先輩の店長らが笑う中、私は「丸岡」の頭をぽんと叩き、こら、離れろと言った。「丸岡」は白々しく、すいませんでした、と笑ったあと、小さな声で「あのメモ、まだありますよ」とのことだった。私が、は?という表情をすると、一万円札の人ですよ、と「丸岡」が言った。思い出した。

“礼儀作法とは敬愛の意を表する人間交際の要具なれば、いやしくもこれを揺るがせにすべからず”福沢諭吉だ。書いた書いた。破ったノートに書いた。「丸岡」のデコに貼った。

彼女はそれを額に入れ、自室、ベッドの横に飾っているのだと言ってくれた。




――――「タメ口の彼」は何年後かに辞めた。女性上司と一緒だった。その女性上司との醜聞が問題となった。エロビデオでもあるまいし、閉店後のホールでコトに及んでいた、と聞いた。一部始終が監視カメラに写っていた。残れるはずもなかった。

タメ口がどうした、ではなく、問題は彼が私から何も学んでいなかったことだ。「彼」には私のような「思い出」がない。御蔭様で上記のような事例が私にはまだまだある。長年、勤め人をして(今もだがw)上司も部下もお客さんも取引先もあったはずだ。「良い出会い」ばかりでもないが、それらはすべからく、己を育む糧となる。仕事における「知識」も「技術」も手段でしかない。「仕事」とは「生活の糧」でもあるし「人生そのもの」かもしれないが、つまりそれは人が人と接する、ということだ。その中で信頼し合い、助け合い、支え合う。伝えて、教えて、導き、また、それらに教えられる。すなわち、育まれる。謙虚に、真摯に、感謝を忘れては「良い仕事」はできない、と私も最近、ようやく、わかってきた。ありがたや、ありがたや。

2 コメント

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Unknown (親爺)
2012-03-26 09:08:39
  千代さん
お早うございます。

去る三月十日は田形竹尾先生の五囘忌でした。
陸軍記念日がご命日・・・いかにも先生らしいと改めて思ひつつ。


初めてお逢ひした某放送局のスタヂオでのことを、まるで昨日のことのやうに覺えてゐます。
小柄で華奢な身體付きにも拘はらず、ぴしりと伸びた背筋と柔和な瞳の奧底に炯々と光る炎にも似た燦めきは、將に帝國陸軍准尉、歴戰の空中勤務者そのものでした。

初對面のその日から私のハンドルと本名に必ず「先生」を付け、常に敬語で話し掛けて戴きました。

幾度も「どうか"先生"だけはご勘辨下さい。」と懇願したのですが、先生はその都度「いいえ、○○先生と一緒に戰つて戴いてゐる貴方は、私に取つて大切な先生ですから。」とお應へになり、最後に言葉を交したあの日まで、その言葉つきが變ることはありませんでした。

『禮儀作法は敬愛の意を表する人間交際上の要具なれば、苟も之を忽せにす可からず。
唯 その過不足無きを要するのみ。』

この言葉に接する度に私が思ひ出すのは田形先生のお姿です。


>謙虚に、真摯に、感謝を忘れては「良い仕事」はできない、と私も最近、ようやく、わかってきた。

貴兄に此の言葉を贈ります。

『進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。
進まず退かずして潴滞する者は有る可からざるの理なり。』
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「学問のすゝめ」 (久代千代太郎)
2012-04-01 11:31:25
>親爺殿

ありがとうございます。日々、精進したいと思います。たまに酒も飲みます。京橋が呼んでいます。布施のママからメールもありました。京橋の「あの店」は移転いたしました。



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