忘憂之物

ガチコメ的「反省だけなら・・・」


■2008/08/15 (金) ガチコメ的「反省だけなら・・・」1

記憶はある。そんな「過ぎるほど」も飲んではいない(つもり。ちょっとコケタけど)。会長たちと別れてから・・・タクシーに乗ってから調子にも乗って・・・帰ればいいのに、もう一軒とか思って・・・ホームグラウンド(布施)に行けとか言って・・・ひとりでスナックで飲んで・・・あ、そうだ、あそこも久しぶりに顔出しとこう!とか思いついて・・・

気付いたら・・・

「おかけんた・ゆうた」の「ええ声ではないほう(つまり、ゆうた)」と飲んでいた。
http://www.fandango.co.jp/talent_prf/action/TalentProfileDetailSearchAction?unitId=10024&talentId=0(公式プロフィール)

どーゆー飲み方をすれば、隣に香ばしい漫才師のツッコミがいる状態になるのか。しかも、なにゆえにヘベレケになってまで現在の「お笑い界」について語り合っているのか。どこをどうしたらこうなったのか。しかし、さすがは「プロ」である。他の吉本若手芸人から「ゆうた」を紹介された瞬間、私がおもむろに放つ、

『あ!!ええ声のひとや!ちょっと、ええ声だしてください!』

に即座に反応。

「ええぇ~~こえぇ~~」

『ぜんぜん、ええ声ちゃうがな!!金返せ!』

「だから、それは相方やがな!なんやねん、初対面で金て!!ww」

という挨拶をかわし、仲良くなった。結局、ふたりで4時半まで飲んでた。

-

ところで――――

もちろん、今日は「敗戦の日」であるから、先の大戦において亡くなられた英霊に感謝し、あの敗戦の憂い日を想い、「やるなら負けてはならぬのが戦争」という動かし難い現実に目を向け、現在の日本国を取り巻く「暗雲立ちこめる状況」に危惧し、日本民族が独立自尊を誓う日であろう(ハナクソのような“不戦の誓い”はどうでもいい)。

今日の日記も「そういうこと」を書こうと思っていたのだが、何気にテレビなんぞを観ると、もう、なんか、凹んでしまう(笑)。まだまだ「情報」とは「質より量」であると言わんがごとき、うえーっはっは!!と垂れ流されている。もう、ほんと、なんとかしたい。

「2」へ

■2008/08/15 (金) ガチコメ的「反省だけなら・・・」2

国内外問わず、相変わらず酷いもんだ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080815/plc0808151237007-n1.htm
<今年も日本の「加害責任」強調 戦没者追悼式で衆参両院議長>
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008081500260
<韓国大統領、日本は「歴史直視を」=核廃棄前提に対北協力推進>

そして、国内売国機関紙の最高峰。天下の全国死に紙・朝日新聞社説。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
<終戦から63回目の夏―「嫌日」と「嫌中」を越えて>

私が朝の4時半まで、香ばしい漫才師と酒を飲むはずだ。朝日なんか、うっかり読むと「日本と支那の戦争」だったかのようだ(笑)。単純に「日本が支那大陸を侵略しに行って、酷いことをした」としか書いてないと思うのは、私が阿呆だからだけではあるまい。

-

この国は63年間、「戦争は悲惨」だと教えてきた。ともかく、その「戦争を引き起こした」大日本帝国こそが諸悪の根源であるとした。自然崇拝と同じくする神道を否定し、「天皇制」という造語をもって、御皇室へと繋がる日本民族の崇高なる精神を「単なるシステム」として相対化させた。個人主義を肯定し、国家(愛国心という公共心)を否定した。

「戦争は悲惨」という浅薄な価値観が跋扈する。それが起こる理由も、意味も教えないから、信じられないほどの低レベルな「戦争は悲惨」は、まるで「ピストルは危険」で思考停止するかのごとく、「本当に危険」なところまで浸透してしまっている。

当たり前すぎる話であるが、世界人類の過半は「反戦平和主義者」である。もちろん、私もそうだ。戦争なんか行きたくもないし、人も殺したくないし、殺されるのも勘弁だ。平和で仲良く、秩序をもって、毎日毎日「忙しいww」とか言いながら、愛する家族と暮らしていきたい。子供や孫の成長も楽しみだし、仕事も遊びも「やりたいこと」で溢れかえっている。同世代が子育てで忙しくしているとき、我ら夫婦は悠々自適に暮らすために、若いときに苦労したのだ(笑)。これからだというときに、戦争なんかされたらたまらない。

「3」へ

■2008/08/15 (金) ガチコメ的「反省だけなら・・・」3

毎日、腹一杯食えて、好きなものを飲んで、懸命になれる仕事があって、守るべき家族がある状態。休日には妻と映画を観て、外食して買い物をする。それもこれも日本が平和だからできることだと知っている。だからこそ、「今ある平和な状態」が続きますようにと、毎年、初詣で祈ってもいるわけだ。そして、それこそが「英霊が望んだこと」であると、私は思う。この平和な状態が続くように・・・・。

「戦争は悲惨」とは「ピストルは危険」と同義であり、その感覚はとうとう「十徳ナイフの未成年への販売禁止」などという極論に達する。そんな国、世界にはないと思う。

だから、マトモな大人ならば、もう少し考えてみたいと思う。

先ず、「武器をなくす」ということは「子供のワガママ」であると断じておく。キチガイがどれだけ「刃物」を振り回して殺しまくろうとも、日本から「刃物」全部が消えることはない。「安全で安心な町」をつくろうとすれば、やはり「警察」を強化するしかない。言うまでもなく「警察」とは国家権力そのものであり、その最終的な装置は「暴力」である。警察官は警棒も持っているし、拳銃も所持している。いわば「武装した国家権力」に守ってもらうのが「平和(秩序ある状態)」なのである。

言い尽された感も否めないが、要は人間の良心を信じ「犯罪者を説得して回る」という愚行が何の役にも立たないのと同義である。例えば「死刑反対論者」などが「犯罪者を更生させるシステムを構築すべき」などと声高に叫ぶ。または「極刑が必ずしも凶悪犯罪の抑止力にはなっていない」などの理論を展開させる。

「4」へ

■2008/08/15 (金) ガチコメ的「反省だけなら・・・」4

そして「報復は何も解決しない」などと「キレイごと&他人事」で悦に入る。余談だが、あの「ケビンクローン」とかいう毛唐崩れも「ハムラビ法典を復活させる気か?それは所詮、目には目をなんだよ!!」などと偉そうに、全国放送で阿呆を晒している。ここでも書いたが、ハムラビ法典に記されているアレは、

「目をやられたら、目だけにしとけ。歯をやられたら歯だけにしとけ。」

という意味であることは常識であろう。つまり「報復の必然」を説いているわけだ。すなわち、「やったらやられる」というのが、その犯罪行為などにおける「最たる抑止効果」であるからだ。あの腐れ毛唐崩れは、そんなことも知らずにテレビでわぁわぁとやるから非常にウザい。こいつと井筒が出ていれば、私は即座にチャンネルを替える(笑)。

ともかく、日本人が思い起こさねばならないことは、

「戦争は悲惨」

という阿呆みたいな「決まり切ったこと」ではなく、

「戦争に負けたら悲惨」

であるという常識こそであろう。それこそが、この「敗戦の日」に想うことであるはずである。とはいえ、なにも「次こそ勝つぞ!!」という過激な決意だけを言うのではない。もっと深く広く考えたい。そしてそれを「次世代に繋いでいきたい」と想うのだ。

日本国はなぜ、あの戦争に突入したのか。その時代背景は?国際社会の状況は?帝国主義とはどんなものだったのか。当時、アジアの国々の状況はどうだったのか。

そして考える「戦争にならない状況」にこそ意義はある。それは「9条」でも「不戦の誓い」でも「非核三原則」でもあるまい。ましてや、薄ら甘い「お花畑」と揶揄される認識ほど怖いものはない。相手の善意とやらに期待し、脅威も現実も「どーにかなる」といい加減に教えることこそが、あの悲惨な「戦争」という状態を、再び引き起こすことになろう。

「5」へ

■2008/08/15 (金) ガチコメ的「反省だけなら・・・」5

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戦後の骨抜き教育や腐った人権平和の概念などは、その「国家を弱体化させる」という(悪意)目的において、すべからく根底で通ずるものであった。もはや、その手段はバレバレであるが、共通するのは「共同体の破壊」ということであり、それは「家族」から「家庭」というものを壊し、「地域」から個人を切り離すことに成功する。

「学校」や「会社」という「義務と責任で成り立っている」社会全体に対しても、そこに「曲った権利」を持ちこむことで混乱に陥れることにも成功した。そして、最終的には国家概念を揺るがせるわけだ。手前勝手なことを言って恥じない風潮が出来上がり、そして、日本人の減少、大人の減少が始まった。

「親の面倒をみる」とか「勤め人として義務を果たす」、または「妻と子供に責任を持つ」などという、およそ「大人として当然」のことができなくなり、それを「体制批判」に結びつけるという、19世紀初めのカビ臭い価値観が息を吹き返そうとしている。

そこで問われる「国のために戦争に行けますか?」は、さぞかしショックだったろう。家族のためや会社のため、ましてや地域や社会のためなどトンデモナイと思っている小人に対し、いきなり「国のために~~」とやるわけだから、そりゃ「勘弁してくれ!」となる。知ったことではないと胸を張るだろう。自分が大事、その次は家族・・?という価値観で出来ることなど、ほぼ何もないと最近の私は確信している。自分のためにすることなど、たかが知れているわけだ。自分のための「文化的な営み」など皆無とさえ言える。

「6」へ

■2008/08/15 (金) ガチコメ的「反省だけなら・・・」6

話を戻すが、つまり、

“戦争が嫌なのは当たり前”

ということ。そして、

“ならばどうするのか?”

を考えねばならんということだ。餓鬼みたいに、イヤだイヤだと泣いて叫んでも、何の解決にもならんのだ。残念ながらな。

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私はひとりでフラフラと飲み歩いても、いきなり道端の人に襲いかかって金を奪ったり、女性を押し倒してレイプすることはない(笑)。しかし、この世の中「そんな奴はいる」ということも、大人として知っている。だから「気を付ける」わけだ。いくら法律で、

「ガチコメが飲み歩いているとき、これに襲いかかることは禁ずる。」

と定められていても、私は安心しない。笑顔で近づいてくる「知らない男」にも警戒する。合法的な武器も所持しているかもしれない(笑)。私は私の家族を護るため、詐欺師に騙されないように、強盗に襲われても命だけは助かるように、道端で襲われても反撃できるようにしているだけだ。それを「しない」と言い切ることは責任の放擲である。

負けた日だからこそ、「反省」はせねばならん。大切なのは「何を」反省するのかだ。
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