忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「知っていただく」の威力

2011年04月13日 | 過去記事
1999年9月21日午前1時47分。台湾中部を震源とするマグネチュード7.6の地震が発生した。「921台湾大震災」だ。当時の台湾総統は李登輝さんだったから、発生から2時間以内に軍に命令が下り、同日の午前6時には台湾軍は救命活動を行っていた。また、李登輝さんは中央政府の決定の前に「緊急用」として、各市町村の長に200万元(約800万円)ずつ配り、当面の復興に充てるように指示している。即座にすべきことをする、まさに「一国のリーダー」とはこういう人をいう。

当時、もちろん、世界各国から緊急救助隊も派遣された。日本からも145名が駆けつけている。地震発生の当日、自民党の小池百合子氏から「仮設住宅を送る」という連絡があったと「台湾論(小林よしのり・著)」にも書かれている。しかし、世界各国が救援部隊を送り込む中、知らぬ顔をしていた国があった。支那だ。

どころか、支那は世界各国に対し「中華民国名義での送金は認めない」などとして妨害まで行った。台湾人が何人死のうが知ったことではないのだろうが、これほどまでに非人道的な国が世界にはあるのだと、とくに日本人は知っていたほうがいい。

今回の東日本大地震に対しても、台湾からの義捐金は100億円を超えた。正確には4月1日の時点で37億3833万台湾元(約106億9000万円)となった。これの9割が民間からの義捐金だというから、なんとも血の通ったお金であるとわかる。ありがたいことだ。

台湾には今年も行く予定にしているが、例えば、妻が楽しみにしている夜市でイチゴ飴を買えば、これは10元ほどだったと記憶する。日本の出店で買う10分の1の値段だ。妻は今から、私がパチンコ屋時代の机の中に所持していた「500円玉貯金箱(灰皿)」を奪い取り、それを我がモノとしてにんまりしている。それを財源として豪遊するつもりなのだろうが、おそらく使い切れないと思われる。500円玉とはいえ、ずっしり数万円はある。ナンボほど喰うつもりか。台湾の屋台で買う餃子がどれほど入っているか知っているのか(笑)。


ま、つまり、台湾とは日本と比して、それほど所得の格差があるわけだ。

所得だけをいえば、台湾人は日本人の平均所得の半分以下となる。だから、上記の金額がどれほどなのかもわかる。米国の赤十字社が発表した同時期の義捐金の合計は1億2千万ドル(約98億9000万円)だったが、アメリカは台湾の10倍の人口がいる。無論、米国の「トモダチ作戦」もありがたいが、この台湾の親日ぶりには頭が下がる。また、この度の東日本の震災でも、台湾政府は地震発生から1時間というスピードで日本政府に救援隊の派遣を伝えている。それに対する民主党政権、日本政府の答えは「NO」だった。

地震発生から2日後の13日、支那からの救援隊が入ってから、ようやく、台湾の救援隊受け入れにGOサインが出た。つまりはそういうことだった。日本の外務副大臣から出迎えられた支那の救援隊は、岩手県・大船渡市に入って写真を撮って帰ったという。現地の人は「なにしにきたのか・??」と困惑していたらしい。同じく、日本の外務副大臣らが出迎えた韓国の救援隊にも、日本政府は感謝して菅直人は朝鮮日報に広告を出したらしいが、さて、台湾には何かしたのだろうかと心配になる。

思えば、1999年の「921台湾大震災」のときは「小渕政権」だった。日本の救援隊が帰国する際、空港ロビーは静寂に包まれ、そのあと「ヒーロー!」という叫び声が上がり、救援隊は万雷の拍手に包まれたそうだが、あれがもし、鳩山政権や菅政権だったらと思うとぞっとする。支那共産党の言う「義捐金も救援隊も北京を通せ」に従っていた可能性は否定できない。

また、最悪の天災は忘れた頃にやってくるのだが、これまた、最悪の政権の時を狙われたものだ。この期に及んでまだ、足の引っ張り合いしか国民に見せることが出来ぬとは、本当に呆れかえる。今さら公然もヘチマもない。選挙の結果、という国民の意思はとっくに示されている。野党だったころの民主党が繰り返した「直近の民意」とやらは示されている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110412/plc11041223400033-n1.htm
<菅、岡田降ろしが本格化 代議士会で公然と降板要求>

私は反対だが、世間では「花見も自粛せよ」という人がいる。民主党一味は「内ゲバ」くらいは自粛してみればどうか。選挙の負けの責任を問う前に、もっとやらねばならぬこともあろう。自分のところの馬鹿を降ろしているヒマがあるなら、被災地で瓦礫を降ろす手伝いでもすればどうか。

それに緊急時には緊急時の反応をしてもらわねば困る。薄ら左翼には「戦時を平時の感覚で語るな」と言っても通じないが、これと同じようなモノで、こういう連中には緊急時と平常時の区別がつかぬらしい。いまは馬鹿をやっているヒマはないのである。

国民は「管直人が嫌だ」と言っているのではなく、もはや「民主党がダメだ」と言っている。1次補正を通した後、首の挿げ替えでまだやろうとしている無頓着は異常だ。つまり、両院議員総会で菅直人を辞めさせても何ら問題は解決しない。一刻も早い総選挙が求められており、それによる民主党の惨敗、分裂、四散、消滅をして、ようやく、この国の有権者は少しだけ何かを取り戻せる。これは必定、東日本の復興にも影響する重要で深刻なファクターなのである。「日本の元気を取り戻す」ならば、これは絶対に譲れない条件なのだ。

時代は変わった。戦後と言えば安保闘争しか思い浮かばぬ連中も、悪意ある周辺国から日本が理不尽に吊るされているのを横目に高度成長を成し遂げた人らも、そろそろ絶対数が少なくなった。その連中が「まあまあ」とやっている間に領土を奪われ、国民を拉致されていることも周知となった。ナショナリズムもイデオロギーもなく、ただ、この国で生まれたから、という理由だけで「日本とは何だろう」「国とは何だろう」「平和とは何だろう」と考える若者が大きくなり、社会に出始めている。

「知らぬ世代」の後の世代には「知る世代」が出現し始めているのだ。いま、若い子にでも「日本が大好き」という子は珍しくなくなった。安モンのインテリのような「それでも日本は悪かった」など阿呆の理屈だとバレはじめてもいる。そして、これに止めを刺したのが民主党政権だった。奇しくも、村山富一が桂太郎内閣を小馬鹿にして日韓併合条約の不平等を認め、日本が如何に理不尽な要求をしたのかと「村山談話」を出したのと同じく、菅直人も負けず劣らずの「菅談話」を閣議決定した。前回は社会党に、今回は旧社会党の残党どもに、国の中を引っかき回された。そして、そして震災だ。

この16年目にしてデジャヴのような災い。当時10歳の子供は26歳になっている。20歳だった若造は36歳になっている。学んでいないはずがない。天災は多くの大切なモノを奪うが、だからこそ、残された者は「大切なモノ」が何か気付く。失ったから気付くのだ。


失ったモノは確かに大きい。大き過ぎる。しかし、だからこそ、得たモノも大きい。被災地では「挨拶」が増えたとあった。くだらぬことだが「結婚したい相手」なども収入や見た目ではなく、愛情を分かち合うことが出来る相手、などに変容しているとあった。水や喰いモノもそうだ。無くしたからこそ、この世に「あって当然は無い」と気付く。「あること」とは感謝すべき状態なのだとわかる。ならば、感謝すべき対象がいることにも気付いてしまう。「あること」を維持、継続させるために必要なことも考える。そして、それらのことは独りでは出来ぬとも気付かされることになる。公民の誕生だ。

モラルやマナーの重要さがわかる。公共心が芽生える。すると、薄ら左翼の諸君、残念だが、それは愛国心に通じている。

多くの日本の若者が多くの日本の先人の魂に触れる。軍民合わせて300万人以上の死者を出した「あの戦争」とは何だったのか、も考える。敗戦の日から1950年4月7日までに日本国内で絞首刑にされた7名、52名、国外で1026名の「戦犯」とは何だったのかも考えられる。何故に台湾がいま、日本のことを自分のことのように案じてくれるのかもわかる。

その世代が増えてきた今、どうすれば民主党なんかが選挙で勝てるのだ?

私はずっと言ってきた。「知るか・知らないか」だけだと。ウソはバレたらお仕舞いだと。知ってしまえば通じないのだと。それは「虹の会」結成の主旨でもあったのだ。

虹の会の公式サイトの冒頭には<わたしたちは、「この国を少しでも良くする」ことを目的に、それぞれに関心のあることをブログや日記で「知らせる」活動をしています>と書いてある。「教える」でもなく「伝える」でもない。「知っていただく」と書いてある。河内屋の親父は「啓蒙するなど驕った言葉を使う奴は大嫌い」と言っていた。目から鱗だった。

こんなブログでも訪問してくれた人は70万を超えた。前の「さるさる日記」から合わせたら130万だ。ま、民主党よりは日本のためになった、と自負しておくが、それにも増して、だ。こんなブログを書き始めたから、実にいろんな人とお会いできた。仕事をしながら、家族と遊びながらではあったが、それでも太く長く、良いお付き合いをさせていただいている。そして、それはこれからも続くだろう。ありがたいことだ。


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