「ああ、そうであったか」としてなんでも許してしまう偉い坊さんがいた。江戸時代の「白隠」という禅僧だ。空覚えながら書くと、酒屋の娘が妊娠した。しかし、娘は父親が怖くて本当の相手が言えない。そこで「生き仏」と称される白隠和尚の名を出せば、事は穏便に済むのではないかとの浅知恵から、娘は苦し紛れ、問い詰めてくる父親に偽りの相手を告白する。
実は白隠和尚のお種です――――驚いて、そして怒った父親は土足で寺に入り、おいこら、このエロ坊主!このトカゲ野郎!と怒鳴り込む。白隠に対し罵詈雑言、それでも収まらぬ父親は、生まれてくる子供の養育費を要求する。白隠は、
「ああ、そうであったか」
と答えて、いくらかの金を渡す。
町は大騒ぎだ。偉い坊さんだと思っていたのに、なんとも、ただのエロハゲだったかと誹謗中傷が飛び交った。聞くに堪えない罵詈讒謗が白隠に向けられた。
「謗る者をして謗らしめよ。言う者をして言わしめよ。言うことは他のことである。受ける受けざるは我のことである」(白隠)
謗るなら謗らせておけ、言うなら言わせておけ、言うのは人が言う。それを受けるかどうかは自分のことぢゃないか―――――白隠はなんでも平静に聞き流し、何事にも動じない。慌てたのは酒屋の娘だ。ええ?なんで?マジで?わけわかんない(≧w≦;)??となったわけだが、しばらくして良心の呵責に耐えきれず、事の真相を両親に話す。
父親は二度目の驚き&怒りであるが、それよりなにより、こりゃ大変だと、とるものもとりあえず、白隠和尚のところに走った。すんませんでした!あなたはトカゲじゃなかったです!と父親は平身低頭、土下座したが、白隠はこのときも、
「ああ、そうであったか」
として平然としていた。町はまた大騒ぎだ。あの人は、やっぱり偉い坊さんだ、真似出来るこっちゃないと、誠実に生きている人は凄いもんだと、我々も見習わねばならぬと大いに反省したことだろう。
しかし、これが管直人のように、だ。
「10年か20年は人が住めないとか言った?」と問われて「ああ、そうであったか」は困る。「東日本は潰れるとか言った?」と問われて「ああ、そうであったか」も困る。これはボケているだけだ。どころか、管直人には「勘太郎・勘助親子」の話がぴったりだ。
この親子は鳩山もびっくりの馬鹿親子で、ついには家財道具まで喰い詰める。こうなっては子馬を売りに行こうと村を出るのだが、その道中、すれ違う人に「馬がいるんだから乗ればいいのに」と言われて、勘太郎は勘助に「乗れ」とやる。すると、次にすれ違った人が「親を歩かせて子が馬に乗るとは・・・」と言えば、勘太郎はそれもそうだと勘助を降ろして自分が乗る。次の人は「親だからと威張って子を歩かせているなんて・・・」と言うから勘太郎は自分も乗る。そして、もちろん次の人は「あんな小さい馬に二人も乗るこたぁない」とつぶやく。最終的には親子二人で子馬を担いで歩く、という馬鹿話だが、周囲の声に一喜一憂、どこにも「自分の考えが無い」ということを馬鹿にされる。まったく勘太郎の勘を「管」に変えてもよさそうだ。
ま、ところで、だ。
罰当たりながらも、この立派な白隠和尚と比して、だ。
なんとも自分が小さいのか、と泣けてくる(笑・泣)。
ちょっと体調を崩してしまっていた。「小さなストレスの積み重ね」が効いていた。
先日のことだ。夕方、私が出勤すると、とある利用者さんに「貼り紙」がされていた。A4サイズの貼り紙には「今日はお風呂とちがいます」と下手糞な字が真っ赤なマジックで書かれていた。私は自分の頭から血の気が引くのを自覚した。その紙を持って「だれだ!こんなのを書いて貼った馬鹿は!!」と怒鳴りあげたい衝動を抑えるのに数分かかった。
なんという、わかりやすい虐待か。私はその貼り紙を折りたたんでポケットに入れ、介護主任ら施設の管理職に報告、抗議した。マクドナルドでお客さんに「この人はチーズバーガーセットと張り紙をするか」と問うた。単なる業務連絡を利用者本人に貼り付けるのは明確な虐待であろう、として、施設としてこれらの件に対し、どのように取り組むのか、また、そういう連中が施設の新人などに対し注意指導する弊害、悪影響などをどのように考えるか、等を問うた。
誰が貼ったのか、はすぐにわかった。「呼び出して厳重注意する」とのことだった。しかし、呼び出されて厳重注意されたはずの本人はヘラヘラ笑い、口を尖らせて疑心暗鬼の目を私に向けていた。ちなみに彼は30半ばである。なにしろ「家族さんからクレームが来てます。利用者さんに対する言葉遣い、職員同士での会話にも注意してください」とされれば、なんと「家族さんがいるときだけ気を付けろということ」と認識する連中である。堪えていないのだ。
ある女性管理職が言った。「(私に)施設長になってくれればいいのに・・・」
自分が管理職であるという自覚すらない。私が「市町村などの虐待防止センターなどに通報して、外から改善してもらう手もあります」と言ったら、それのほうがいいかも、と答える始末である。基本的に誰も当事者意識などないのだ。
また、正直言って、だ。30代や40代のオトナが、だ。狭い職場で好きだの嫌いだの、付き合っているだの別れただのやっているのも気持ち悪い。今の季節、例えば「花見」がある。利用者さんに桜の花を見てもらおうとする企画だ。それは結構なのだが、そのメンバー構成なども「現場で勝手に変える」ことが通弊と化している。困るのは「夜勤明け」の職員が運転手などで付いて行くアレだ。要するに、その日の「花見メンバー」が、いつもの合コンメンバーならば、いっしょにいこうよぉ~となるのだ。
その日の「運転手」は私だった。しかし当日、直前になって、現場職員から「交代」を告げられる。私はとくに気にもせず、ああ、そうなのか、と思っただけであったが、あとで知れば運転した職員は夜勤明けの男性職員だった。事故でもあれば言い分け出来ぬ状況である。
公然と「○△ちゃん(女性職員・30代・デブス)が寂しがるから」という理由を言う。頭の中が韓国ドラマなのは勝手だが、その施設のワゴンには利用者さんが数名乗車している。小さな事故でも命にかかわる。なにより、そんな気色の悪い「中年のメロドラマ」に付き合わされる利用者さんが可哀そうだ。
器量の狭い私でも、いくらかは「ああ、そうであったか」と聞き流すことはできる。あんなサルの屁理屈、ブタの戯言など、とくにストレスにもならない。しかしながら、相手が物言えぬ高齢者なら話は別で、職員らのプロ意識が皆無といってよい低レベルには辟易する。実はこの「我慢」に結構やられるのだ。それは無論、その「我慢」に正当性があるかないか、我慢する理由があるのかないのか、ということであるが、これも逐一、発見して対処していく他ない。「通報」という手段もあるが、実際問題、高齢者施設というのは入所待ちが凄まじく、特別養護老人ホームだけで42万人が待っている。私が通っている施設にも数十名以上の要介護4~5の高齢者の方がいる。施設がなくなれば困る人も出てくる。だからまだ、いまのところは「最後の手段」として温存しておく。
それにちょっと「前向き」にやってみようと思う。少しずつだが、変わってきた、という実感もある。そういえば昨日、ある人から温かいメールをいただいた。私が強がっていても弱っていること、悩んでいない顔で悩んでいることもお見通しで、私如きの「ああ、そうであったか」なども通じぬ相手だ。
如何なる環境にも、何者にも負けない實體驗に裏打ちされた搖ぎない自負と矜持
そうであった。私の武器はこれだった。ここ最近、実はメシも喰えぬほど弱っていたが、それも今日でお仕舞いだ。妻に心配をさせるのも心苦しい。どうせやるならぼちぼちと、か。夜勤明けたら酒でも飲むとする。美味い肉焼いてな。