忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

相変わらず先輩に頼らざるを得ない日本

2010年04月13日 | 過去記事
詳細は失念したが、しばらく前、何気なくテレビを見ていると「定年後のお父さんたち」が集って勉強会を開いたり、ボランティア活動したりする団体を紹介していた。「今までの経験を埋もれさせるのはもったいない」ということで、様々な活動を通して社会に貢献するのだと頑張るお父さんたちを好意的に報道していた。他にも70や80の老人を引っ張り出しては「元気ですね」とか「すごいですね」などと囃し立て、長年の経験や知恵などを称賛する。ともかく、お年寄りのパワーは驚異的だという番組はたくさんある。

しかし、これがマスメディアの気に入らない「政党」なんかだと話は別で、平均年齢が69.6歳で大丈夫なのかとやる。他の政治家が「立ち枯れ?」と言い間違えたことに笑い、「老人会」などと嘲笑しても「杖が必要なんじゃない?」と馬鹿にしても、だれも「老人に対する差別だ!」とは騒がない。あまつさえ「たちあがれ」という言葉は「命令口調だ」と皮肉る。こいつらは道路に「止まれ」と書いてあることは問題にせず、日本を立ちあがらせねばならないという政党が立ちあがる前に、なんでもいいから批判してやろうと手ぐすね引いている。

「年寄りの冷や水」という言葉はあるが、まさに今、その「たちあがろう」とする年寄りに「冷や水ぶっかけてやろう」としているのがマスコミだ。昨日のテレビ朝日では「日光の猿軍団」を取り上げ「猿も新党結成!」とやっていた。この番組の程度の低さが許される視聴者を顧みるに、現在の民主党政権もむべなるかなと得心がいった。

また、マスコミはいろんな政治家を「リーダーシップが無い」と非難するくせに、良くも悪くも本当にリーダーシップを発揮する石原慎太郎のような政治家は大嫌いで、マスコミ、庶民受けする大阪府知事はともかく、マスメディアに対して批判的な言動を取る政治家は、国のために動こうが、庶民のことを想って働こうが、それはワンマン、独裁、ファシズムと、なにがなんでも批判する。



ま、ともあれ、たちあがったようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100410-00000068-jij-pol
<「たちあがれ日本」旗揚げ=反民主、「第三極」目指す-平沼、与謝野氏ら5議員>

「自民党にお灸を」と言いながら自分が丸焼きにされそうな有権者は、んじゃ、また自民党に・・も、いかがなものかと考えている。そこに新党がぽつぽつと出てくるのは過去にもあった。ある意味、必然である。

早速にも「この政党に期待できますか?」と問いながら「期待するは18%だったw」と馬鹿にしているが、7割を超える支持率で誕生した「鳩山内閣」を鑑みれば、テレビのコメンテーターどもの愚論を真に受ける連中が、どの政党に期待しようが馬鹿にしようがどーでもいい話でもある。そのコメンテーターどもは朝日新聞の社説などを咀嚼してテレビで言うだけの仕事だから、そのレベルの嘘大げさ紛らわしいを論拠にする評言など、風向き次第でどうにでも化ける。相手にする必要は全くない。

しかしながら、いつもの如く残念なのは、いわゆる「保守」と呼ばれる知識人や政治家の反応である。「ど左翼」は阿呆でもできるが「保守」は勉強しないとやれないので、各々は素晴らしい見識を持つ人格者であったりするのだが、如何せん「小難しい」のである。

あの「田母神論文」においても「航空幕僚長という立場からの発信は不味かった」と言う人がいる。内容には賛同するが「やり方」には賛同できないというのである。「やり方」とはいってもチンピラ紛いの粗野な言動を取る連中のような「やり方」ではない。要するに「軍人という立場からの政治的な発言はいかがなものか」という類の非難である。しかし、田母神氏の講演を聞いたり、著作を読めばわかるが、外国では軍人が政治的発言をするなど珍しくもない。自らも含め、部下に対し「死ぬ可能性もふんだんにある戦場」へ行けと命ずるわけだから、日本における大間違い、いわゆる「(日本の)シビリアンコントロール」とやらで思考停止、ただ黙して粛々と死にに行くのが兵隊ではない。戦争は映画ではないし、兵士とはロボットではない。ちゃんと顔も名もある人間であり、その後ろには家族がある。これくらいのことはサヨクに教えてもらわんでも知っている話だ。



また、ちっぽけな私事を許してもらえるならば、以前、それも2~3年前まで、私が職場や家庭、酒場などで「このままでは日本は大変なことになる」と言えば奇人変人、なにを大げさなと取り合わない人間もいた。もちろん、私も含める無自覚な「サヨク」は巷間に蔓延していたのである。そして、当時は「それでよい」と判断するに致し方ないという状況だとも錯覚していた。つまり、恵まれていた。「喰えていた」のである。世界中に「戦争反対」という集団はいても「武力(を持つこと自体)反対」などという、精神レベルが未成熟な集団は日本にしかいない。換言すれば「それほど平和だった」と言いたいところだが、どうやらそれだけでもなさそうだ。

顕著なのは「子供手当」だ。外国人地方参政権は知らずとも、人権救済法案や選択制夫婦別姓案も知らずとも、デマも含めて「外国人の子供にまで税金が注がれる」というキーワードは鮮烈だったようだ。周囲の多くの人らが「おかしいんじゃないか?」とやりだした。そこに至る経緯を説明すると、以前とは打って変って真剣に理解しようと聞いてくれる人が増えた。「朝鮮人は出ていけ!」どころではないわけだ。

ついでに、もう、民主党議員でも庇いきれない現政権のお粗末さは説明の必要すらなく、西村眞悟前衆議院議員が「小沢も鳩山も日本人としてのマインドではなく、彼らは朝鮮人である」とチャンネル桜で断ずる通り、それが誇張や揶揄ですらないという恐怖感は、それらが「紛れもない現実である」ということを疑う理由を減殺する。

総理大臣が「日本は日本人だけのものではない」と明言し、政権与党の幹事長は支那にて「自分は日本における人民解放軍の野戦隊長である」と国家主席様に忠誠を誓う有り様は、現政権が間違いなく「日本解体」を目指していると解釈するに大過ない。

また、友愛総理が「自国民(この場合は日本人)」からどう批判されても、支持率がどん底まで下がっても「頑張れというメッセージ(だと受けとめる)」と言いながらニヤニヤしている様を「ポジティブ脳」だと笑っているが、実のところこれは、この脱税犯が鈍いとかいう問題ではなく、もう、そろそろ、これが「悪質な開き直り」であるということも自明である。「ある目的」のための能動的無能なのだ。そして我々はこのような言動を取る国を知っているはずだ。このような病理と呼んで差し支えないほどの自己欺瞞、自己正当化を恥じない国の指導者も知っているはずだ。

例えば、現在でもチベットの指導者はインドで亡命生活を強いられているということを、独裁国家以外に住む人は、その意味も含めてちゃんと知っている。50年前から動乱ばかり起こっている僧侶の国を知っている。同時に、それを「世界的な人権事業」だと世界に発表しながら恬然としている独裁政党があるとも知っているのだ。「チベット人の幸せ」と題した記事を一面に載せ、支那人民解放軍に感謝し「お陰さまで農奴の95%が解放された!」とか「95%の非識字率が改善された!」とか「9割のチベット人は家が無かったが、今では33平方メートルの家をみんなが持つようになった!」と解放軍の「解放」は感謝に堪えないと書く機関紙を信用する人は少ない。

放牧生活が主流のチベット人に「農奴が9割いた」などと不思議なことを言う支那共産党機関紙は「ダライラマ14世の兄が英国製の自動車のおもちゃで遊んでいる時、同年代の子供は道端で犬と食料を奪い合っていた国」だと書き、無神論の支那共産党がチベット仏教を守るチベット人を「解放」したのだと書く。これは国民の8割が「小沢幹事長は辞めるべき」だというのに「責務を果たすことで応える」というわけのわからぬことを抜かしてニヤニヤしている政党に等しい。要するに同根なのである。

「日米同盟50年」だと喜ぶ筋金入りの親米派でも「私は日本における米海兵隊の司令官です」とは言わない。また、そんなこと言ってもアメリカ人は喜ばないだろう。しかし、今も昔もその程度で喜ぶ国がある。日本にだけ尊称である「中国」と呼ばせ、三蔵法師が表した「支那」を蔑称だと日本にだけ怒る変な国のことだ。オリエンタルラジオが「不够本!(ポコペン!)」と言っても怒らないのにである(ペケポンだったか?w)


ま、

ちなみに、最近聞かなくなったが「ロートル」という言葉も、いわゆる「兵隊支那語」である。「老頭児」と書く。「たちあがれ日本」を老頭児だとせせら笑っているマスメディアや電波芸人、知識人や政治屋は、他人のことより自らが「不要(ぷやお)」にならぬよう気をつけたほうがよい。ぷやおぷやお。

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