普段は、ある程度の商品があるから、当時店長だった私を待たずとも店は揃う。そのころはもう、便利な携帯電話も普及していたから、ある程度の急な変更や相場を睨みながらの指示も出来る。しかし、それも「店に人がいてこそ」だ。
その日、商品の加工を任せていた10年選手、ベテランのパートさんが休んでいる日であった。もちろん、そのパートさんが抜けるだけの段取りは前日にしてある。しかし、こういうときはトラブルが重なるものだ。案の定、若い主婦アルバイトさんが「子供が急に発熱した」と連絡がある。しかし、まあ、若かりし頃の私ながら、その辺はヌカリない。仕事に関してはトラストミーが通じないこともあると、20代半ばの私ですら知っていた。ちゃんと、そういう事態も想定して段取りはしてある。値段や配置、加工済みの商品の管理、ある程度の品出しをすれば、開店準備はなんとかなるようにしてあった。しかし、だ。
なんと、そこに「仕事に慣れた男性アルバイト」も来ていないという連絡が入る。さすがに焦り始める。業者さんに急いでくれと無理を言って東部市場を飛び出すも、道路は憎らしいほど動かない。実際、頭を抱えた。本社にクレームが入るのではないか、店の評判が悪くなるのではないか、なにをしてよいのかわからず、その場に茫然と立ち尽くすアルバイトも目に浮かんだ。店に電話を入れると、なんとも呑気な声でアルバイトが出た。
「・・・・わかんないです」
ハンドルを握ったまま、なるべく焦らず、ゆっくりと指示を出す。最低、これだけはやっておいてくれ、できるな?「はぁ・・・・」出来る出来ないではなく、この危機感を共有してくれていない。電話の声の向こうでは、仕事の指示を出す人がいないから笑い声すら聞こえてくる。「指示を待っている」という大義名分の下、遊んでいるのである。
若い子ばかりだから無理もないが、私の苛立ちは増すばかりだった。また、当時の携帯電話の充電の切れ具合と言ったらない。現在からすれば信じられんほど「あ、電池切れた」となる。その日も容赦なく切れた。
なんとか開店時間20分前に到着、私はトラックの運転席を飛び出した。鬼の形相でバックヤードのドアを開ける。「なにしていいかわかんない」という理由でアイスでも喰いながら遊んでいたら、全員、明日からもう来るな、とでも言いそうな勢いだったはずだ。しかし、よくみると、なんとなくではあるが「仕事をしている感」があった。それは観ればすぐにわかった。
売り場に出ると、私が段取りしていた8割ほどは出来ていた。ひとまず安心したが、すぐにトラックの商品を売り場に出せるようにした。なんとか開店時間ギリギリ、どうにかなった。あとはもう、私がいればなんとかなる。慣れないアルバイトながらも、これはこれで使いようもある。1時間もすれば落ち着いた。一人を呼び止めて聞いてみる。
さて―――これはいったい、どういうことか?
「ああ、○○▽さんが来て、用意してくれました」
当時、私の交際中の女性、つまり、現在の妻であった。倅を保育園に預ける途中、それなりに事情を知っていた妻は「気になった」そうだ。「もし、あと何人か休んだら店が開かない」と思い、いつもの道ではなく、わざわざ店の前を通るルートで保育所に向かっていたのである。そして、店を覗いて見れば案の定だったわけだ。私は充電器にぶっ差したままの携帯から電話をかけて礼を述べた。
2歳を少し過ぎたばかりの倅を作業台の上に座らせ、そこでじっとしていなさいと命じ、10キロも20キロもある商品を冷蔵庫から放り出し、見たことがある程度の配置図を基にして店を作っていった。細かい指示を聞こうにも、私の携帯はつながらないから「見よう見まね」で全てを行った。「もし、間違えていたりしたら、夕方、わたしが謝りに来る」という覚悟を皆に伝え、そこにあった人材だけで開店準備を間に合わせた。間違いなく、これはかなり高レベルの仕事である。
そして、バタバタとしているうちに「遅れました!」と慣れた男性アルバイトが来た。そこで仕事の引き継ぎを行い、残りの仕事を言い渡してから倅を保育園に連れて行った。
妻は、あのちっこい体でハンドルにぶら下がりながら、2.5トンのトラックを運転して荷物を運ぶ。荷降ろしの際も「女だから」という理由で手を抜くこともない。男性スタッフが「あとはやるよ♪」と言っても「みんなでやったら早いから」と言って男並みに荷物を持つ。高校生のアルバイトに檄を飛ばしながら、二箱持てば、およそ自分の体重と同じ重さの荷物を運んでいた。当時、店長として人材を管理していた私が断言するが、贔屓目抜きで、本当によく働く女性であった。尊敬できる女性である。
当時、倅が2歳と少し、お姉ちゃんは小学校1年生だった。早くに結婚して離婚していた。もう原因も書くが、それはDVだ。これは偶然だが朝日新聞社に勤める男だったらしい。倅もここを読んでいるらしいが、もう知っておいてもいいだろう。
お母さんは骨にヒビがはいるほど殴られていた。お姉ちゃんは覚えている。というか、離婚の決定的な原因は「お姉ちゃんへの暴力」だ。4歳の娘を宙に浮くほどの本気で蹴り飛ばした。それを覆って庇うお母さんの背中を拳で殴り、踵で蹴ったのだ。それで「このままでは娘が殺される」と思ったお母さんは家を出る決意をした。しかし、当時のお母さんには泣いて帰る「実家」がなかった。両親が蒸発していたからだ。お母さんはお兄ちゃんとお姉ちゃんに育てられた。私がお前のお母さんに会ったとき、お母さんは養育費や生活費も受け取らず、生活保護も知らず、当たり前のように女手一つで子供らを育てていた。「ヨイトマケの唄」みたいなもんだ。そして、それはこの先もずっと続くと思っていた。たったひとりで頑張らねばならないと思い込んでいた。頭と心の中には「自分の手で子供を育てたい」しかない。あと理屈はもう、どっかに飛んでいった。だから、とても強かった。強くい続けねばならなかった。
妻は小さいから若く見られるし、なんか、ぷりぷりしているから意外なのだが、よくみると妻の手はゴツゴツだ。自分でも「おっさんの手ぇ~~」と言いながらも気にしていると思う。毎日毎日、寝込まず休まず、熱があろうと腹が痛かろうと、ゲロゲロ吐きながらも仕事に来る。残業もすれば早出もする。夜中でも手伝いに来た。特売品の売れ残りを買い物かごに入れ、値引されていない商品など目もくれず、それでも子供の誕生日にはケーキを買った。
妻の昼ご飯は「菓子パン一個」だった。食べないこともあった。しかし、当時の私もまた、金が無かった。金はなくとも腹は人の3倍減るから、100円のライスを2個買って30円のウナギのタレでかき込んだ。いつも、ふたりとも「何百円」の所持金だった。
また、これも、もちろん、私の所為だが、最初に結婚した妻は3年ほどで800万を超える借金を作った。ほとんどがパチンコだった。
25歳当時、私の年収は500万以上あったと思うが、それでも完済するまでに何年もかかった。「おまとめローン」も「払い過ぎた利息が戻ることがあります!」という弁護士も知らなかったから、規定通り、利息も全部、支払った。当時の生活は苦しく、会社にサラ金の取り立ての電話が鳴った。仕事をしていると「お金借りてきて」と電話があり、理由を聞くと「電気が止まる」と言われた。もう、鬼のような浪費だった。私は「一緒にいるとダメだ」と泣いた。私は最初の妻を支えることが出来なかった。私は彼女を救えなかった。
「お母さんを救えぬ男に父親の資格はない」
私は私の子供と会わないと決めた。
私の実の父親は広島にいる、まだ生きてるのではないかとオカンから聞いた。「会うつもりか?」と聞くオカンに私は笑って言った。
「自分の子供と会わないのに、なんで、自分だけ父親に会うことが出来るか」
先日、ツレから初めて聞いた話があった。ツレは何人かで地元の祭りに行っていたらしい。そこに私の最初の妻が現れた。知らぬ顔じゃないから軽口も交わす。しかし、その後ろに中学3年生になった私の子がいた。それを確認したツレは態度を豹変させ、酷い悪態をついたという。それに反応するように何人かも悪ぶった。「知ったこっちゃないわい!」と怒鳴り散らしたのだという。缶ビール片手にチンピラ風情をやった。呆れ果てた様子で親子は去って行ったという。私の子は、そのツレを睨みつけていたとも聞いた。
それは、ツレにしか出来ない事だった。
それでよかったよな?と聞かれたから、私は礼を述べた。助かる、ありがとうと言った。
恨まれるべき、蔑まされるべきなのだ。ツレは私の真意を察して、こんなチンピラがお前の父親の友人なのだと振舞ってくれたわけだ。「元気か?大きくなったなぁ?」は誰でもできる。「お前も大きくなったらわかるよ」とテキトーなことも言える。しかし、こんな連中と付き合いがあるような男、どれほど、自分の母ちゃんを苦しめたのかと思ってくれればありがたい。その正義感と倫理観を大切にしながら、母親を助けて生きて欲しいと願う。
私がスーパーを辞めることになった朝方、堤防沿いに停めたトラックの助手席で、妻はゴツゴツした手を見ながら恥ずかしそうに言った。
「死ぬまでに、ディズニーランドに行きたいなぁ・・・・」
5年後、打ち上がる花火、色鮮やかなパレードを見ながら夫婦で泣いた。私がずっと働くのは当然だが、妻もずっと働いてくれた。今も火傷の痕をつくりながら頑張っている。
ある朝、仕事で行き詰まりを感じた私が、まだ薄暗い空の下、煙草でも吸おうとこっそり家を抜け出して駐車場に向かうと「おとうさぁ~~ん」と妻がパジャマのまま外に出てきた。寝ぼけたままで「どこいくの~?」と言った。私も何処に行くんだろうと思った。そのまま二人、コンビニで買い物して川に行った。カメがいた。朝焼けの中、寝ぐせでパジャマの妻はカメが見たくて柵に乗り出した。あぶない!と私から叱られて笑っていた。
たかだか30年や40年の人生でも、後悔や失敗はある。まだまだ人に言えない話や、こんな所に書けない話もあろう(笑)。しかし、それは誰でもある。特別でもなければ例外でもない。誰にでもある普通の話だ。もちろん、感謝すべきこと、助かったことはもっとある。嬉しいことや楽しみなこともありまくりだ。例えば、今日は妻の誕生日だ。
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