最近「喰い物」の話が多くて恐縮だが、昼飯に「牛メシ弁当」を持って行った。これは妻が作ったものではなく、妻が働いている店で売っている残りモノを買って来たものだ。
値段は何とも780円(定価)。それにしては肉もメシの量も物足りない感じだが、250円出せば牛丼チェーンの「並み」が喰える時代に、これで780円とは高すぎるのではないか、と思うところだが、これがまた、喰ってみれば納得する味になっている。この牛肉は「伊予牛100%」だ。これに普通の卵焼きと少々の漬けものがつく。これが日に数十売れるというから、さすがは京都というところか。
いま、まだまだ日本は景気が悪いらしい。GDPでも「支那に抜かれた!」とかで日本のマスメディアは嬉しそうだ。市場は安売り合戦に腐心しているから、ますます「デフレ経済」は続くらしい。いつの時代からか、日本も「価格が安い」ことをサービスだと考えるようになって、巷には「100円均一ショップ」やらが乱立した。安さが売りの大型店舗やチェーン店も軒並み進出してきた。
パチンコ屋もそれをやった。大型店舗の均一的なサービスが業界を飲み込んだ。これも規制緩和が原因だが、残った小規模店は「低単価営業」という「デフレ対応型営業」をやって、細く長く苦しむ結果となった。裏にカネを隠しながら、それをチョロ出しして御茶を濁そうとした社長マンの提案を、私は鼻で笑って止めさせた。廃業した理由の一つだ。
テレビで見たのだが、なんとも、航空会社までもが「値下げ合戦」をしていた。支那では価格を下げるために「立ち乗り」の飛行機までもが提案されていたが、他の航空会社も機内食を無くしたり、ドリンクを有料にしたり、乗務員を減らしたりして価格競争に名乗りを上げている。私の「飛行機嫌い」は酷くなる一方だ。
少し前の話だが、飲みに行ったカードの支払いなどで妻からよく叱られた。スナックやラウンジの支払いがバレたときだ。妻は可愛らしい嫉妬心からの文句を言った後、素朴な疑問として「なんで高い金払って、こんな店に行くのか?」と真面目に問うてきた。妻からすれば、高い料理が出るわけでもなく、特別な酒が振舞われることもないのに、たかだか、その辺にいるお姉ちゃんが酌をしてくれるだけのことで、何故にこのように何万円も使うのかが理解不能だというのだ。
これは「サービス」という商品価値を理解していないからだ。
その昔「漁業とは海にいる魚を売っているだけの仕事」として「垂直と水平の運送業」とした経済学者がいた。ケインズの師匠、マーシャルだ。
マーシャルは鉄鋼業を「土の中から鉄を取り出す仕事」として、農業を「作物が育つのを手伝う仕事」だとして嫌われた。これはらはとくに生産者を馬鹿にしているわけではないのだが、生産者は面白くないから、あまり歓迎はされなかった。
スナックの女性が「酒を酌するだけの仕事」と断じられると、ちょっとマテ、と面白くないのと同じことだが、その憤りは正しくて、間違えているのは我が妻だ。
コレは私の主観であり、サラリーマン時代から何度も口にしてきたことだが、ソフト・サービスとは生産と消費が同時になされる、という性質がある。比して、ハード・サービスとは選別もできるし、不良品があれば、市場に出る前に取り除くこともできる。このいずれにしても、より質の高いサービスとは高い価格がつけられる。つまり「デフレ市場(安売り合戦)」とは、これらのサービスが低下することを意味する。日本では合理化とか多店舗営業など、利益優先のシステムとして持て囃されているが、なんのことはない、すなわち、アメリカ式の商売だ。アメリカ人がガソリンを自分で入れているのを映画で見て「アメリカは店員さんが窓も拭いてくれないのか」と思ったのも懐かしい話で、日本でも車内のゴミを捨ててくれないスタンドも増えた。コレが合理化らしいが、まあ、酷い話だ。
アメリカで大型店舗による均一サービスが好まれる理由とは、中小規模の企業やら個人経営の店舗には信用が無いからだ。規模のでかい企業ならば、アメリカ人の得意の訴訟問題に発展させる甲斐もある。支那はこれよりも下の段階にあって、国有企業でも信用してはいけないことになっている。すべては支那共産党を潤すベクトルに向けられる。支那人に「消費者」などという経済用語は関係ないからだ。
また、古い話だが、私は18歳から10年ほど食品スーパーで働き、数年間は店長として仕入れから販売から人材・店舗管理までやらせてもらったから言うのだが、いわゆる「強い店」というのは「客単価が高い店」のことだった。商売の基本とは「薄利多売」ともいわれるが、とはいえ、安易に値下げして特売商品を並べると、店の数字はエライことになる。また、この言葉はあくまでも「薄利」であり、単価を下げることではないのだが、どうも最近、これが「安価多売」と勘違いされているような気がしてならない。
私はよく妻と買い物に出掛けるが、そのとき妻とも「当時のこと」をよく話す。時代が違うとはいえ、なんとなく当時とは「店の作り方」が違うと感ずるのだ。簡単に言えば「どれもが安い」と書いてある。もちろん、百貨店ではなく、日常の買い物をするスーパーであるから、店のスタンスとして「主婦の味方です」みたいなのは必要かと思う。しかし、外資系の食品スーパーのように「毎日がお買い得」という価格設定になると、逆に購買意欲も減少、必要なときに必要なものだけ買えばいい、という正常な状態に戻ることがある。
冷静に考えると、必要なモノとは「必要最低限」のことであるから、外資系の食料品店のようにロールパンを30コも袋に詰めて売っていると、数人で暮らす日本の家族には喰い切れない量だとわかる。賢い主婦は安く買って冷凍しておくのョ!とか言われても、いつも同じ値段で馬の餌のように袋に入っているのだから、その必要もなくなる。それならどうせ、ということで、帰り道に「焼きたてパン」などの店をみつける。単価で計算すると倍近い値段のロールパンを朝食に出す。お父さんは、やわらかいロールパンが喰える。
私がスーパーの店長をしているとき、よく「喰ってうまい、は当たり前だとして、喰ってないのに美味い、と思わせる商品をつくりましょう」と言った。先ほど、妻との買い物の最中、覚えた違和感はそのことだった。商品イメージは業者、メーカーに依存していることが多い。パッケージやらトレイやらは企業戦略が成されているから、それなりに優れたモノがある。さすがは日本企業だ、と唸らせるモノもある。しかし、それを売る側は「価格重視」であったりするから、その齟齬が売り場に現れてしまっている。
妻とはパラオの食品スーパーにも行ったが、ともかく、たくさんあって、でかくて、安い、というのが好まれるようで、肉でもパンでも大盛りが通常だ。その代わり、手の抜けるところは徹底的に抜いていて、掃除は出来ていないし、陳列は酷いモノだし、商品管理などビールを飲みながらやっているかの如き杜撰さだった。「おおらか」だと言えば聞こえはよろしいが、要するに「日本的な仕事観」とは世界の非常識なのだと知った。だから「強い」のだとも思った。
それは仕事における「手間」のことだ。スーパーの仕事もマーシャルに言わせれば、業者が運んできて、あるいは、卸市場から運んできた商品に「手間賃」をかけて売っているだけ、となる。そこで安く売ろうとすれば、どれだけ「手間が省けるか」を考えねばならないと錯覚する。アメリカ人はコレを合理化とか効率化ということで誤魔化している。要するに手抜きのことだ。手間をかけるには人件費もかかるし、技術を習得するなどの非合理化を認めねばならないから、その「手間賃」には付加価値を付けねばならなくなる。つまり、販売価格は上がることになる。実はこれが難しいし、商売の面白いところだ。
例えば、私はBARをやっていたが、店で出すコーラーの仕入れ値は60円だ。これに私が選んだグラスを使い、氷屋さんから仕入れたアイスを使い、私が家賃を支払っている店の椅子に座り、業務用スーパーで仕入れた広島産のレモンを添えて、100円均一で買ったマドラーを差し、仕上げにレモン果汁をグラスの数十センチ上から絞りかけると、なんとも500円となる。同業者に言わせると、これでも「安い」と叱られた。深夜料金が入っていないということだ(笑)。
例えば、コレを安売りしよう。私ごときの手間など付加価値にはならないとして、コーラーの原価にレモンの原価、あとは氷代くらいを合わせた数字で売価設定すると、200円で売ることも可能だとしよう。「薄利多売」とは「数を多く売らねばならない」という条件が付いているから、日に5~6杯売れていたコーラーは倍以上売らねばならない。これに難儀しているとき、隣の店が「180円」とかやりだすわけだ。すると、私も150円に下げる。
もちろん、薄利=多売にはならないし、深夜にコーラーを注文する客のキャパは決まっているから、安価で提供する数量にも天井があることになる。「安い」というのは、あくまでも購入理由のひとつなのだから、売れる数にも限度がある。仕入れを多くすると商品管理も増える。モノによってはロスも出る。すなわち、コストは増すのだが、価格を下げて売るためには「多売」が条件であるから、数を持たないと話にならない。これは普通、デッドストックとなり、売る側の負担となる。
そして、売る側の負担とは往々にして「買う側の負担」ともなる。いわゆる「安かろう悪かろう」であるが、ここで失われるのはGDPだとわかる。60円のコーラーを市場に出せば440円のGDPが発生するからだ。雑誌の「WILL」最新号に「辛坊兄弟」とかで対談の企画があった。「たかじんの委員会」でも有名な辛抱治郎が出ていた。「治郎氏」は冒頭から「中国から輸入できなくても日本は困らない」という論に対して暴論だと決めつけて批判している。「対中貿易額がGDPの2%だから無くなっても困らない」という人はGDPのなんたるかを知らぬ出鱈目だと言う。その理由は、私のコーラーの話と似たり寄ったりの単純なことだ。「治郎氏」は、支那から100円で輸入したモノを日本で加工して1000円で売っているのが現状だとして、それで失われるGDPは100円ではなく900円だとする。だから出鱈目だと。
もちろん、基本的にこの論は間違っていない。しかしながら、「治郎氏」には「仕入先」という観点が無い。つまり、100円で仕入れられる「他の仕入れ先」があれば無問題なのだ。では、それがないのか?と問われれば、それは「ある」としか言いようがない。どころか、支那というところから仕入れるメリットとは安価であることの他、何もないと周知である。
比して、そのデメリットは数多ある。相手は一党独裁の共産主義国家である。すべてが国営企業である。ここに重要な要素である「安定的な供給」が求められるのかどうか、私は甚だ疑問だと思う。私が止むを得ず支那人と取引するならば、いつでも撤退できるようにしながら、次の仕入れ先を探しておかないと不安で商売に身が入らない。昨日まで、否、先ほどまで100円だったモノが、いきなり足元を見られて900円とされるかもしれない。急に「売らない」と言ってくるかもしれない。「治郎氏」は、記憶に新しいレア・アースの件をご存じないのか。
日本は今、信用とか信頼の「原価」を忘れている。目先の利益に振り回されて、安く売るために安いモノを探している。だから支那ごときにヤラれる。「安心」とか「安全」という付加価値、あるいは「ブランド」と言ってもいいが、これがどれほど消費を促すのか、を失念している。別にチェーン店の100円バーガーを喰うなとは言わない。250円の牛丼もよろしい。しかし、それが通常価格であることの怖さは忘れてはならない。
私は「モノには適正価格がある」というスタンスに立つが、その裏には「モノを売る」ということの可能性を否定して欲しくない、という願望がある。「安く売る」などは、安く仕入れれば誰にでもできる。また、そのルールで確実なのは「巨大資本には絶対に勝てぬ」という原理原則だ。こんなものがグローバルスタンダードだというなら、勝手にやらせておけばいいだけだ。日本が付き合う必要などまったくない。更に、これがどれほどつまらぬ社会をつくるか。どれほど労働意欲を削ぎ落とし、どれほどの購買力を殺すのかを考えるに、それはアメリカが支那が教えてくれている。
私のお気に入りの湯豆腐の店がある。高い。豆腐を喰わせるだけなのに何千円も取る。と、思えば、京橋のお気に入りの店では200円で喰える。これも美味い。家でも喰う。一丁50円だか100円だかで買ってくる。京都の錦市場で買ったポン酢で喰う。これも美味い。
経済活動とは「社会活動」のことだ。ならば、みんなが同じように、いつもいつも「安い」を求めるのは異常だと言わねばならない。「安い」を売り物にしている企業とは、所詮が「安く売らねば売れない」のだと気付かねばならない。「安く売っている」のではなく「安モノを売っている」だけの企業を見抜いて消費活動を行いたい。
日本の企業や経営者は、自社製品が買われている理由として「安いから」という怖さを実感せねばならない。電気店で「他店よりも1円でも高ければお申し付けください」の裏には、どれほどの無慈悲が行われているのかに目を向けねばならない。それは無関係ではない。支那産の安い商品でモノが溢れているが、その裏にはどれほど虐げられている労働者がいるのかにも気付かねばならない。因果応報、これも他人事ではない。
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