忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

監視と看視

2008年02月24日 | 過去記事
■2008/01/06 (日) 監視と看視1

ピストル持ってなくてよかったな、おい・・。
http://www.asahi.com/national/update/0106/TKY200801060097.html
<「人間関係でトラブル」 逮捕の高2 品川・商店街事件>

「誰でもいいから、皆殺しにしたかった。」

と痛い日本語を使うこのキチガイは、車椅子に乗った女性まで追いかけたという。ならば、そこらの「組事務所」にでも殴りこんで欲しかったところだが、襲ったのは女子高校生と主婦、車椅子の女性、それに老人であるらしい。ちゃんと選んでいるところがすごい。

<少年は当時、包丁2本を両手に持ち、1本を靴に差し込んでいた。少年は調べに「包丁は3本とも当日、品川区内の100円ショップで買った」と話しているという。警視庁は少年の説明の裏付けを進めるとともに、包丁を用意したあとの足取りを調べている。>

先ず、私が「おお!」と感じたのは、「100円ショップって、包丁も100円なの??」という価格破壊ではなく、ンな怪しい奴に「包丁3本」も売るショップのクライシスコミュニケーションもともかく、その出で立ちである。「二刀流」という、その攻撃的な「身ごしらえ」というか、ゾロぢゃないんだからというか、その子供のような感覚である。

ひと昔前、「通り魔」という言葉から連想するのは「ポン中」であった。髪はぼさぼさで、目を充血させた中年男性が、中空に視線を漂わせながら「無差別に」襲いかかるアレである。被害妄想と幻覚に惑わされた「ポン中」は、それこそ理解不能な言語を発しながら、道行く人に危害を与えるのであった。

それがとうとう・・・・「人間関係でトラブル」という理由から「魔物」と化してしまう世の中になったのだろう。通院歴云々の前に、私はここに恐怖感を覚えるのだ。

<少年の両親による同庁への説明では、少年は数年前から精神科に通院しており、先月も投薬を受けていたという。少年は都内の私立高校に普通に通っており、長期欠席や問題は特にはなかったという。>

普通に生活していたという。問題はとくになかったというのだ。

「2」へ

■2008/01/06 (日) 監視と看視2

過日の長崎県佐世保の散弾銃乱射もそうだ。馬込容疑者は釣りにも出かけるし、携帯電話で友人を誘うこともする。「(病気だとは)わからなかった。」とする証言もあった。

しかし、この馬込容疑者のように、この少年とやらにも「奇行」はあったと思う。それは日常生活に難がある程度のものではないが、それも「生活する」という行動に問題はないが、あきらかに「コミュニケーション不全」や「挙動不審」という意味での、いわゆる「奇行」はあったと考える。そしてそれが、何かのきっかけをもって「発狂」することはある。

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私の妻の姉。もう40を過ぎたそのお姉さんは、今年中学になる自閉症の我が子を送り迎えする。妻の姉の家庭は、現代日本の普通の家庭である。共働きである。それに旦那さんのお母さんが一緒に住んでいる。お母さんは糖尿病で食事制限もあり、なにより「要介護」である。もちろん、我が家も家族の一員ではあるから、何か頼まれたりすることも少なからずあるし、身内そろってのイベントなんかは率先して段取りに回っている。

それでも大変だと思う。

その子を連れて初詣に行く。電車をこよなく愛する彼は、伏見稲荷の駅の踏切に進入しようとする。警報機は鳴り響いている。警察官も警備している。だがら、その子のお兄ちゃんと倅、妻と姉は緊急スクラム状態、この子が「電車を正面からみたい」と考えていることを知りつくしている。

何かあった時のために、私だけが距離を取る。飛びかかって止めることになるかもしれない。万が一ということもある。ましてや、状況が変われば、警察官を巻き添えにすることも予想される。

「踏切が閉まって電車が通る」

これだけのことながら、我が身内には緊張が走る瞬間となる。

中学生とはいっても、もうそれなりにでかい。女子供には荷が重いし、この子も重い。まだ、でかくなっているそうだから、これから大変だと思っている。人目もはばからず歌いだすなど、もう、この際どうってことない。慣れたもんだ。

「3」へ

■2008/01/06 (日) 監視と看視3

「ららららい!♪」

最近お気に入りらしい。どこでも歌いだす。

ネタ部分には一切興味はないが(笑)、歌の部分は気に入っているようだ。もちろん、あの海パン芸人も、しっかりとレパートリーに入っている。

ごった返す人ごみの中、彼は歌いだす。

「ららららい♪ららららい!♪」

人がたくさんいるからテンションが上がっている。
それにしても、素晴らしい芸人魂だ。彼は踊りまで繰り出す。

通り過ぎる人波の「他人ごとの目」・・
過ぎゆく人たちの「あわれみの目」・・

指をさして笑う子供。
それをたしなめる親。

明らかに引いている餓鬼ども。
距離が開くと聞こえる笑い声。

とても「ひとりで行動」なんてさせられない。させたくない。いつも身内で取り巻いていたい。「ひとり」になんてさせられない。私や妻や倅でよければ、いつでも歌を聞いてあげたい。「空気」や「雰囲気」などクソ喰らえ。「恥ずかしい」などなんでもない。ただ、一緒に笑ってあげたい。遊びに来た時は、一緒に遊んであげたい・・・

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ただ、「危険」に対する感覚はシビアにある。無論、本人の危険、そして他人様の危険。

「自立させる」といえば正論っぽい。学校にもひとりで行かせる親もいる。それが「他人様の手を借りること」であっても、それも「社会を知ること」と納得して、ハラハラしながら「自立」を促す。「ひとりで行ってらっしゃい」と・・・「それが治療にもなる」と・・

私には、ちょっとわからない。

「4」へ

■2008/01/06 (日) 監視と看視4

こう言えば、「所詮は嫁はんの姉の子供」と、無責任に放言しているだけという誹りを受けるかもしれない。だが、それも甘んじて受けよう。

この「包丁振り回し少年」は、今回の凶行の原因を、ひとまずは「人間関係のトラブル」だと言い放った。それで、「殺してやる!」と叫びながら、正月気分も冷めやらぬ商店街を恐怖に陥れた。常識的に考えて「無差別に人を殺す」という動機になり得る「人間関係のトラブル」は、ちょっと思いつかない。つまり、健常者ではない。

考えてみたい。

この少年が通っていたという「普通の学校」で、彼が受けたかも知れない(受けたと思しき)「多数の者」から精神的苦痛は、どのようなもので、どれほどのものだったのか。その中でもあったと信じたい希少な「愛情」や「新切」は彼に届かなかったのか。そして当然ながら、この少年にも、疎外され、嘲笑され、見下されることを感知するアンテナは存在していたのだろう。また、逃げ込むべき家庭では「これも、おまえのため・・・」という強い覚悟に基づいた「正当な」理由から受け入れてもらえなかったのかもしれん。

もし、その結果、見知らぬ他人を「無差別」に殺そうとしたのであれば・・・

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幸いにも5名は軽傷ですんだようだ。この少年も、少年法と人権に守られて、しばらくの入院と取り調べを経て、すぐに親の元に戻るだろう。

だが、もし、車椅子の女性の喉を切り裂いていたら、逃げ惑う女子高生の胸元に文化包丁が突き刺さっていたら・・・

誰かがついているべきではなかったか?

そのようなこともありうべしと、その子に近い者は厳重に注視すべきではなかったか。

現金を持たせ、買い物を教え、凶器の使い方も知っていた。この少年は「殺す」という手法に刃物での失血死を選んでいるのだ。そのような者をして、感情をコントロールできない、正常な判断ができないと知りつつ、野放し状態にする「自立」とはなんなのか。

散弾銃をぶっ放すかもしれない、歩道橋から幼女を投げ捨てるかもしれない、走ってくる電車に飛び込むかもしれない、ショップで包丁を買って周りの人を刺し殺すかもしれない、つまり、なにをするかわからないから病気なのだ。

「5」へ

■2008/01/06 (日) 監視と看視5

この16才の少年には両親がいた。私が被害者ならば、またはその被害者家族ならば、この親は徹底的に追及するだろう。貴様らこそが「加害者である」と指弾するだろう。

最悪の事態は想定しておかねばならんだろう。そして、管理する義務があるのだ。

旧聞だが・・・2001年5月に東京で起こった「レッサーパンダ事件」の犯人もそうだった。少年でこそなかったが、それでも取り調べでは「帽子はレッサーパンダではなく犬だ!」と素っ頓狂なことを言う。罪の意識や反省などどこ吹く風、それよりもむしろ、今の状況をわかっているのか?10日前に何をして、今、何が起こっているのか。もしかすると、彼が怖かったのは「父親に殴られるかもしれない」ということくらいだったかもしれない、いや、それすらも理解できないのかもしれないのだ。

そしてそれは「不可抗力」なのである。わからないのだ。

緑地公園に通りかかった女子大生をレイプしようとした。いきなり襲いかかって悲鳴を上げられた。それに驚いた犯人が、逆に逃げ出したこともあるという。だから今度は「包丁で脅してから」と企てた。欲望を抑えることなど考えない。そして、その思考経路も稚拙すぎる中での決行であった。しかし犯人は、包丁を出すまでもなく被害者女性に睨みつけられたという。それで、こう感じたそうだ「馬鹿にされた」と・・・

そして、その次の思考先には「殺してやる」しかなかったのである。

そして、馬乗りになって胸部と腹部を3回刺す。更に頚部を絞めあげて絶命させた。

この犯人には父親も妹もいた。しかし、ホームレスのような生活をしていたという。

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いろんな事情は、当たり前にある。だが、「他人様に危害を与えるかもしれない」という危険があるならば、それはどのような事情にも揺らがないはずだ。息をするように、食事をするように、その子の身を案じねばならんはずだ。無論、相手のことも、社会のこともだ。

他人様の理解を求める前に、同じような境遇の者たちと協力し合う前に、覚悟を決めて管理せねばなるまい。監視せねばなるまい。看視せねばならないのだ。

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