忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

障害者施設の70歳スタッフ逮捕 警視庁>2012.6.17

2012年06月17日 | 過去記事

    




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111107-00000032-mai-soci
<障害者施設の70歳スタッフ逮捕 警視庁>

<東京都江東区の知的障害者施設「恵の家」で入所者に暴行したとして、警視庁城東署が、同施設スタッフ、鈴木昇容疑者(70)=江東区大島4=を暴行容疑で逮捕していたことが分かった。鈴木容疑者は調べに「言うことを聞かないので、頭を押さえたり、たたいたりした」と容疑を認めているという。

 逮捕容疑は、8月9日午後9時40分ごろ、施設の浴室内で、知的障害のある男性(29)に「何回言ったら分かるんだよ。バカヤロー」などと暴言を浴びせ、頭を押さえ付けるなどしたとしている。

 城東署によると、男性の様子を不審に感じた父親がICレコーダーを持たせて録音し、発覚した。鈴木容疑者は「6月ぐらいから暴行を始めた」とも供述しているという。

 施設は、NPO法人「ひまわり恵の会」が運営し、4人の知的障害者が利用。夜間は鈴木容疑者だけが泊まり込んでいたという。施設の女性職員は取材に「暴行は知らなかった。事実であれば申し訳ない」と話した>









11月11日は「介護の日」である―――と職場で言ったら誰も知らなかった。厚生労働省は「高齢者や障害者等に対する介護に関し、国民への啓発を重点的に実施するための日」として、2008年に定めたらしいが、残念無念、介護する側にも浸透していない。

また、なぜに「11月11日」かというと、それは「いい日いい日」ということらしい。なんとも語呂が悪いし意味がわかり辛い。というか、日本にはそもそも「9月15日」があった。「敬老の日」である。介護がどうのではなく「お年寄りを大切にしましょう」だけなら、コレで十分なはずだった。しかし、これがいまは「9月の第3月曜日」ということになっている。我が祖母の誕生日でもある「9月15日」は単なる「敬老の日」ということにされた。世間を無理矢理に土日月、連休させるためだ。いわゆる「ハッピーマンデー」である。

「敬老の日」は以前、そのまま「年寄りの日」だった。これが1964年、年寄りという言葉は如何なものか、と馬鹿をやって「老人の日」となる。その翌年、老人というのもなぁ・・ということで老を敬う日、敬老の日が制定された。意外なことだが、子供の日や成人の日は世界にもあるが、この「年寄り」を敬う休日がある(あった)、というのは日本だけだそうだ。

しかしながら、これがなくなり、世間は3連休とのことでレジャーをする。「敬老の日」が「敬老週間」と変容した2008年にも、テレビは「経済効果」がどうしたとやった。

ちなみに「障害者の日」というのもあった。12月9日だ。由来は知らない。しかしながら、これもいま、敬老の日と同じく「障害者週間」と変容している。「障害者基本法」が制定された12月3日から9日までの1週間がそうだ。しかし、普通、こんなの誰も知らない。

いくら障害者基本法に「個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有する」と書いてあっても、これはどこまでいっても「権利を有する」と言われた側しか意識しない。「国民の間に広く障害者の福祉についての関心と理解を深める」との主旨を説明されても、普段、そんなことを気にして生きている人は少ない。12月3日に、今日から一週間は障害者週間だ、と言っても、ふうん、としかならない。つまり、これは「義務を果たす側」に働きかける他ない。具体的に言えば、知的障害者施設であれ、高齢者施設であれ、働く側の人間を「プロ」に育てる他ない。人材の育成が急がれるのだ。

介護の世界は「介護保険」の導入により、とっくに「措置時代」が終わっている。親も家族も面倒見ない困った人を世話してやっている、という時代は過ぎ去っているはずなのである。だから、いま、介護で提供するモノは「サービス」となっている。「サービス」ならば質が問われる。競争がある。さらに「生産と消費が同時」である「サービス」というものは生産過程で不良品を撥ねたりできない。だからこそ「プロ意識」の構築は欠かせない。この業界はとっくにそうなっているはずだ。

しかしながら、現実は本末転倒。この知的障害者施設で働く70歳の男もそうだ。<言うことを聞かないので、頭を押さえたり、たたいたりした>とのことだが、言って聞くならそこにはいない。つまり、このクソ不景気の中、こんな程度の70歳の男に仕事はない。こういう低レベルな人間を「人手不足」を理由に看過してよい時期はもう終わっている。

70歳といえば「古稀」である。唐の詩人は「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」と詠んだ。意味は「酒代のツケはどこに行ってもあるが、70歳まで生きた人間は昔から稀なものだ」となる。いま、日本は古稀が稀じゃないから困っている。70歳であろうが、元気ならば働ける職場もある。しかしながら「安いから」「人手不足だから」という理由で、障害者に暴行するような愚劣な70歳を雇ってもらっては困る。この施設の女性職員は<暴行は知らなかった>と述べているが、ならば「暴言」はどうだったのか。発覚した暴行も<頭を押さえたり><たたいたり>という程度であるが、これはもう日常的、かなりの確率で「あった」のではないかと、私の拙い経験則から察する。ICレコーダーでバレただけではないのかと。

勉強不足も仕方がない。資格を取らないのも勝手にすればいい。向上心がないのも、まあ、本人の自由である。しかし、己のメシの種を軽んじ、愚弄し、粗野に扱い、あまつさえ暴行まで加えるという「プロ意識の欠如」は目に余る。また、これらを座視することで、さらに有能な人材が枯渇する。これが現実かと幻滅して去っていくのである。

もちろん、高齢者は全て「仙人」ではない。作家の曽野綾子女史も「くれない族」と称して「あれをしてくれない」「これもしてくれない」と不満ばかりの高齢者を非難する。その精神的依存こそが老化だと叱咤する。「小泉政権の負の遺産」とやらのひとつ「年寄りも頑張ってくれ」と言われた75歳の高齢者は「死ねというのか」とテレビでやって、コレも曽野綾子女史から「戦中派なのに」と呆れられる。生きるか死ぬかの時代を生き抜いた日本人とは思えぬ弱体ぶりだ、と嘆いておられる。たしかに高齢者施設にはそういう利用者もいるが、その過半以上は「できない」という前提で入所することになっている。障害者施設もそう。言うまでもなく「やめなさい→はい、わかりました」であればそこにいない。

それに対応するためには、やはり「プロ意識」しかない。人材の育成しかないが、現在の高齢者施設や障害者施設には、なんとも「制服がない」ところまである。コレがすべてを物語る。あまりの離職率の高さに辟易し、コストが発生するようなことはしないわけだ。私も現在、上半身は私服である。制服がないからだ。靴も自前。ジャージも一応、あるにはあるが、履いて行かなくとも誰も何も言わない。最近はもう、クールビズよろしく、他の職員らも海水浴みたいな恰好で働いているが、これも何ら問題視されない。

私は医者の白衣のように、看護師の制服のように、介護職にもそれなりの制服を用意すべし、というのが持論だ。介護学校では「命を扱う仕事です」と教えてもらうが、同じ「命を扱う仕事」の医師も看護師も制服がある。そのまま外を歩けば誰でも「その仕事」だと認識できる格好をしている。しかし、介護職員らは自宅で寝っ転がっている格好と比して変わらない。必然的に「中身」も伴ってしまう傾向がある。三島由紀夫の「盾の会」の軍服が自衛隊のソレよりも格好よろしいのと同じで、たかだか制服じゃないか、とはいかないのである。

いま、老人や障害者を虐待したというニュースがたくさんある。各都道府県も相談窓口やらを設置して対応にあたる。介護相談員も施設を監視に来る。しかし、圧倒的に虐待事件を引き起こすのは、高齢者や障害者に直接触れ合う機会が多い介護職だ。どこの馬の骨かもしらん人間を、そのまま施設の利用者にあてがう危険はないか。それにまだまだ無資格者、介護福祉の研修すら受けていない「古いだけの素人」も混在する。人手不足も結構だが、そろそろ「ちゃんとしたプロ」を置かねばならない時期に来ているのではないか。それは「老人の日」か「敬老の日」か、ということより高齢者にとって深刻な問題だ。




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