藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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仙台口征討軍 久ノ浜(福島県いわき市)慶応4年7月22日

2019年04月07日 15時55分57秒 | 芸藩志第九部 戊辰戦争
※($BO①P〇〇〇)→($『戊辰役戦史』上巻〇〇〇ページ参照)
<『戊辰役戦史』より>
仙台追討総督として四条 隆謌(しじょう たかうた)が小名浜港(福島県いわき市)に着いた。平潟軍を山道軍と海道軍に二分割し、平潟口海道軍を率いる事となる。
海道軍は陸前浜海道を相馬から仙台に向かう事とし、当面の目標を相馬中村と定めた。($BO①P523 )
海道軍は白河口軍との約束で相馬中村まで急いで北進する必要があったが、この時点で海道軍に参戦したのは、因州(鳥取)、郡山(福島・120名)、笠間(茨城)、津(三重・95名)、肥後(熊本・489名)、筑前(福岡・442名)、芸州(広島・不明)、長門(山口・4中隊)、久留米(福岡・不明)、岩国(山口・1中隊)となっている。($BO①P524)
 
7月22日、芸州兵と因州兵の一部が久ノ浜に派遣された。
これは手前の四ツ倉の敵兵が大きく退却した為に状況確認を兼ねた先発隊であった。
安芸兵が一小隊を久ノ浜の先、末続村(すえつぎ)に斥候を出すも状況が掴めず、夜陰に乗じた相馬中村兵の襲撃を受けて退却した。($BO①P525)

<芸藩志第十八巻>抜粋
〇七月廿二日全隊岩城平を発す昨日督府よりは薩藩兵も同く進軍せしむるを以て軍事は協議すへきを令せられしと雖同夜急に薩兵は三春口より白河へ進撃する事と為り而して薩兵に代りて因州藩一中隊は我兵に継て出発する事と為り本隊と相前後して進兵せり
正午久の浜駅に到着す然るに同駅を距る二里にして広野駅あり要害極めて堅固にして賊兵は之に拠り砲台を築き防備堅く以て官軍を待つの報あり殊に其距離の近接するを以て或は夜襲の慮あり依て俄に守衛兵を前進せしむる事に決し日暮槗本素助は小隊長佐久間義一郎等と二小隊を率ゐて本道末続村に至り
末続村の農民は窃に我か前哨兵進入せしを広野駅の賊兵に密報す依て賊兵若干隊は夜半潜行して我か前哨兵を襲ひ我か兵接戦し賊を斬る二人なり然れとも(長沼)主税之助森本梅太郎は共に負傷し林熊太郎は戦死す
此夜督府より広野駅へ進撃の命あり依て間道より進撃する事に定め末続村の配兵は之を撤退せり全隊の兵を合して一団と為し以間道より進軍す後陣には因州兵若干継進せり

<コメント>
薩藩兵が血気盛んな芸藩兵の参戦を受けて安易な白河口方面に転戦を要望した事が推測される。
前哨兵を出したところ、そこを狙われた。
7月22日朝時点の芸藩兵の総員は292名以下(傷病者を含む為)

『芸州広島藩・神機隊物語』穂高健一著 より取材に基づくデータ
・林熊太郎~戦死(末続寺に埋葬)
<出典:奥羽出張病院日記・関寛斎>
・長沼主税之助~「左手上肱の外部から横に肩甲骨下に届く刀創、凡そ八寸。」
・森本梅太郎~「右頬骨下より鼻下へ届く、口吻まで約八寸、深さ約二寸の刀創。
        但し舌先より割れ、前歯を砕く」

芸藩兵被害:討死1名、手負2名、計3名。

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