<『戊辰役戦史』の説明>
官軍は敵状判断を誤り、敵主力は熊ノ町(四ツ倉の北約30Km)以北に退却したものとして、7月23日の戦闘は先鋒の因州・芸州両藩兵のみで行った。その頃官軍他藩兵の中には後方整備が続かず後方機関の来着を待つものもあり、急速に前進不可能な藩もあった。($①P531)
前日の敵襲によって敵愾心を沸かした芸兵は至近に残存する敵兵を掃蕩しようと、因州兵に共同を求める。
因州兵は総督府の許可を得て(総督府は強気の姿勢)1小隊を久ノ浜に、2小隊を金ヶ沢(久ノ浜北1Km)に留め置き、芸州兵を先鋒として進軍。
「敵の一部が亀ヶ崎(久ノ浜北西5Km)に在り」との情報を得て、因州兵が亀ヶ崎を三方から包囲攻撃した。($①P525)
ここには相馬一隊が居たが、不意の上に不利とみて総てを投げうって退却した為、因州兵は殆ど戦わずに亀ヶ崎を占領した。
本街道では激烈な銃砲声があり、因州兵は直ちに本街道に向かう。
ここで芸州・因州兵は敵状判断に誤りがあった事に気づく。敵は熊ノ町付近に退却し、広野付近に散見されるのは斥候やゲリラ隊に過ぎないと判断していたが、広野付近にまで進軍してみると、敵は浅見川北方の高地に陣地を構えて頑強に抗戦している。これは、後退を重ねている仙台・相馬兵に対し、新たに彰義隊にいた幕臣春日左衛門が指揮する陸軍隊が加わり、陣容を改めて熊ノ町から再び南下してきたものであった。
官軍は中央の芸州兵の左翼に亀ヶ崎から転進してきた因州兵主力、右翼には芸州兵に続いてきた因州兵の後尾部隊を展開したが容易に落とせず、そのまま徹夜交戦を行った。($①P526)
<芸藩志第18巻>
〇七月廿三日本隊は先鋒として前進し因州兵之に継き山間の間道より進撃し日暮浅見川村に達す浅見川は広野駅の山丘の下の小にして同駅を拒る事僅若干丁なり故に賊兵は我兵の来着するをみるや広野口なる砲台又は胸壁に拠り大小砲を瞰射する雨の如し而して日已に暮れ闇黒にして地形の如何を知るへからす依て正面なる本道へは銃兵若干隊へ高間省三をして四斤山砲及ひ臼砲を以て進ましめ因州兵も亦本道正面より進めり此時我か半隊は左側なる山脈に上り賊の側面を攻撃す我は不利の地に在て仰て敵を攻め激戦して夜半に至れとも賊兵猖獗にして勝敗未た決せす因州兵は敵兵の勝地を占め防戦し俄に勝算なきを以て退兵して再挙の事を来議す我曰く今日の事只進む有りて退くへからす若し一たひ足を挙けは遂に再ひ此地に至るへからす我藩は只決死鏖戦するのミと因州兵も亦遂に退かす而して我兵は弾薬已に尽き各兵僅に二三弾を余し而して運搬未た達せす依て因兵に就き之か貸借を謀る因兵も亦同しく弾薬已に尽き偏に輸送を待つに会せり是に於て我兵進む能はす而して夜七時頃より賊勢も漸く挫けたる景况を覚ゆ依て頻に鯨波を発して時間を送り天明に至れは将に敵陣に突貫せんと謀れり此時本道に在て彼此戦尤猛烈にして我兵は因兵と共に頗る苦戦せり因藩士来り暫く退兵して賊の鋭鋒を避るを議す砲隊長高間省三曰く我砲弾已に尽き僅に破裂弾十二三発を存せり是を以て猛撃して広野駅口なる砲台を乗取るへしと抜刀して叱して曰く銃手にして進ますんは斬るへしと直に進て猛烈なる砲撃を為す因兵も亦相進む四面の山嶺は砲烟に封鎖せられ只砲火の激発するを見るのみ