大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の養子(妻の弟)
渋沢平九郎に関する広島側の情報を含みます。
慶應2年「慶應征長の役」の直前、戦争を回避したい広島藩は、
幕府と長州の間で周旋活動をしていました。
在廣・小笠原閣老等に対し、執拗に戦争回避を訴えていた𠁅、
執政・野村帯刀、執政・辻将曹が相次いで謹慎処分されました。
これに怒った広島藩学問所助教や学生達が決起し、
小笠原閣老等の暗殺計画を立て始めます。
それを聞きつけた世子・浅野茂勲(長勲)が、
「おまえ達が遣るならオレが遣るから手を出すな」と止めます。
それでも市中に暗殺予告の立て札が立つに至り、
藩主・浅野茂長(長訓)が小笠原閣老に
「身の安全を保障できない」と国外退去を求め、
小笠原閣老は小倉に移ります。
常識的には暗殺計画を立てただけでも、「桜田門外の変」級の重罪の𠁅、
誰も一切罪に問われる事はありませんでした。
この時決起した学問所の若者達の一部が結集して民兵を作ったのが
「回天軍第一起神機隊」(かいてんぐんだいいっきしんきたい)です。
従って、広島藩の中でも過激なグループが作った軍隊です。
神機隊の結成自体、総員は1200人程ですが、
藩からは200人分の運用資金しか許可されておらず、
後はクラウドファンディングで運営していました。
但し、武器弾薬は長男高間省三が砲隊長だった事もあり、
武具奉行高間多須衛(高間家は浅野家の砲術家系)
から提供されていたので、最新式のモノを使っていました。
調査によると、(画像)→広島藩製のライフル銃を使っていた様で、広島護国神社に実物が保管されています。
*ミニエール銃より短く、機動力重視であった事が判ります。
慶應3年11月の藝薩長三藩進発では広島藩は長州兵を密かに牽引しますが、
広島藩執政・辻将曹としては飽くまでも天皇護衛の為の軍隊であるのに、
薩長と共に旧幕府勢力の一掃を目指すかの様な
広島藩指揮官達の気配を察知したため、
神機隊のメンバーである指揮官達を更迭しました。
「鳥羽伏見の戦い」で、戦闘に参加させなかった事に対し、
薩長から相当な避難中傷を浴びました。
また、明治に入っても一部の人を除き、
広島藩出身者の多くは、あらゆる場で冷遇されたとされています。
「鳥羽伏見の戦い」の汚名に対し、
上方から帰国した指揮官達は神機隊を率い、
拡大していく戦争を終わらせると同時に汚名を晴らす為に
約320名の精鋭の出兵を決意しますが、
元々藩から正式に認められたのは200人だけであり、
財政が逼迫している広島藩は当初、出兵を認めませんでした。
脱藩してでも出征すると主張した為、
藩主が聴許するという形で非公式に出兵した軍隊です。
その為、他の広島藩諸隊と違い、正式な総督が任命されておらず、
尚且つ京都で総督(非公式)を含め20人程引き抜きされたので、
この隊は合議制で運用されていました。
当初は藩から軍資金を一切出して貰えず、
広島や尾道等の商人などからクラウドファンディングで軍資金を調達しての
出征でした。8900両?
戊辰戦争に於いて、
クラウドファンディングで非公式な民間軍として出征したのは
この隊だけです。
但し、広島藩にも軍隊を派遣する様要請があり、
その要請に応じる形で途中で追認されています。
この神機隊の斥候が飯能の戦いで逃走中の渋沢平九郎と出くわし、
重症を負わせたところ、自刃したので仙台口征討軍が解隊した後、
遺品を広島まで持ち帰っていました。
広島に行った際に、それを聞きつけた渋沢栄一が返還を求めた為、
引き渡されたという事があった様です。
「渋沢平九郎が余りにも強くて広島藩兵が逃げた」
という説明をしているサイトもありますが、
遺品を持ち帰っているので、それは有り得ません。
また、神機隊は上野戦争の後、仙台口征討軍に参戦し、
多くの戦いで先鋒を努めています。
一時、単独で10倍以上の敵と昼夜問わずの戦いを繰り広げる等奮闘し、
当初約300人だったのが、
実戦で戦える者が80人になる程犠牲を出しながら成果を上げています。
自ら戦闘志願し、戦闘慣れした長州兵が躊躇する、
弾丸飛び交う中を突撃する様な士気の高い隊が、
小規模の戦いで相手を恐れて逃げるなど到底考えられません。
藝藩志にはこうあります。
「飯能は甲府行の沿道に係るを以て忍兵と共に出発し廿二日暁川越に至る更に軍監の指揮に依り直に坂戸へ出張し翌廿三日賊兵今市へ来るの報あり依て今市駅に至れとも賊已に遁走せしを以て再び坂戸へ赴かんと欲し忍藩と共に坂戸越を過るに当り我か斥候と賊の斥候と衝突して互に健闘す賊一人を倒す我か五番隊福田松太郎は数所を負傷し三番隊高島芳助は左臂を失ふ而して賊兵頗る多く且つ夜に入る依て両藩とも今市に退却したり」
つまり、倒した賊一人に該当するのは渋沢平九郎だけということになり、
退却する時には既に渋沢平九郎は自刃しているから、
遺品を持ち帰る事が出来たのです。