藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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大河ドラマ「青天を衝け」がもっと面白くなる 町田明広先生の解説 第二話 2/21

2021年02月22日 00時58分35秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
*膨大な情報をデータとして集積しております。
 「ブログ内検索」機能を使用して、後から振り返る等、データの使い方は自分次第。
*今回から別途下に、他の先生方のTweetを入れております。
 講師料は払ってませんが・・・。
 
「青天を衝け」(2)~「栄一、踊る」
内容:
村祭りが中止。栄一は獅子舞を踊れるのか・・・
一方、家慶や斉昭は慶喜の将来に大きな期待をかける。
時は流れ、栄一、慶喜らは成長し、ペリーの黒船がいよいよ日本へ向かう!
 
栄一たちは、年に一度の村祭りで獅子舞を舞うことを楽しみにしていた。
しかし大人の事情で祭りは中止に。落胆した栄一だが、ある計画を思いつく。
一方、一橋家の養子には言った七郎麻呂は名を慶喜と改め、
将軍・家慶に実子のように慕われていた。
隠居の身の斉昭は、息子を頼みの綱に政界に返り咲こうとする。
そんな中、ペリーが日本にやって来る。
 
1>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
本日は「青天を衝け」2回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
2>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
BSプレミアム「渋沢栄一の原点 パリ万博 その舞台裏に迫る」を拝見した。齊藤洋一 (松戸市戸定歴史館 名誉館長)さん、渋沢資料館の関根さん、黎明館の深港さん、お世話になっている方々が登場された口を開けた笑顔大河では、パリロケは厳しそうだが、どう描かれるのか注目。 
3>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
「青天を衝け」2回目を拝見!子供時代から青年時代への移行期が躍動的に、清々しく描かれましたね。渋沢栄一による家族ドラマと、一橋慶喜による政治ドラマがうまく配置され、今週もすごく見ごたえがありました!「こんばんは、徳川家康です」、最高ですイイね
4>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
徳川家康が語っていた当時の日本の対外政略について、まず家康は明(中国)との貿易を期待したが、日明関係は対等な関係で、中国帝国が形成する伝統的な冊封体制に取り込まれることは拒否する姿勢を示した。
5>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
慶長15年(1601)、明に家康自らを「日本国主」と名乗る書簡を送り、その中で、国交回復を要求し、我が国の影響は朝鮮・ベトナム・タイ・フィリピン・カンボジアやヨーロッパ諸国にも及んでいると明言するなど、対等性や自立を意識していた。
6>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
明は寛永21年(1644)に滅亡して清が建国(1912年2月滅亡)され、一方で徳川将軍家は現実的な新しい「日本型華夷帝国」の創出することになる。このあたり、拙著『グローバル幕末史』で!
7>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
江戸時代は、17世紀前半から海禁の一形態である「鎖国」政策を取ったが、鎖国とは、「日本人の海外渡航・帰国を厳禁し外国船を追い払うことを骨子とし、キリスト教を徹底的に排除すること」であった。
8>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
鎖国が完成する17世紀前半まで、我が国は世界と通商していたが、鎖国はこれを廃止した対外方針の変更に過ぎず、日本を神国として捉え、外国人を忌み嫌い排除の対象とする攘夷という考え方には至っていない。
9>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
攘夷というのは、単なる外国船の打ち払いの行為そのものを指すのではなく、政治的な対外思想を伴うものである。この鎖国という新しい対外政略は、外国船を追い払うことを肯定しており、次第に外国を夷狄と捉える排外思想を生み出した。
10>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
国学や後期水戸学を経て、鎖国は攘夷へと深化して、幕末日本に大きな影響を与えることになる。渋沢栄一も、後期水戸学の影響を受け、この後、尊王志士に成長していくことになる。
11>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
「鎖国」という語彙は、蘭学者・志筑忠雄が享和元年(1801)に刊行した『鎖国論』のよる。その造語の基は、ケンペルの著作「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」。題名があまりに長いことから「鎖国論」と命名。
12>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
幕末には「鎖国」意識があったからこそ、開国意識も生まれた。「皇国而已鎖国難被成置形勢御座候」(「宸翰ニ対スル久光公ノ奉答書」、『玉里島津家史料』2、史料番号783、598~602頁)。鎖国は同時代の用語。
13>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
家康が言った通り、鎖国していたからといって、日本が完全に世界から孤立できるはずはない。幕府は外に向かって開かれた四つの口、(オランダ・中国は長崎会所、琉球は薩摩藩経由、朝鮮は対馬藩経由、アイヌは松前藩経由)を設けた。
14>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
幕府は薩摩藩を介して琉球を事実上、冊封体制下に置き、また、琉球に準ずるものとしてアイヌを位置付け、朝鮮とは国家として対等にもかかわらず、朝貢国として意識的に遇した。こうして、「日本型華夷帝国」としてのメンツを保つことになる。さあ、渋沢に戻ろう!
15>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
渋沢栄一は、弘化3・4年(1846-47)ころ、6歳の時に書物を読み始め、当初は父市郎右衛門に漢文の素読を学び、『大学』から『中庸』、『論語』巻2まで修得したとされる。そして、7歳の時に隣村手計村の尾高惇忠の許へ通い、『論語』を始め四書五経などを学修した。
16>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
渋沢栄一は、嘉永3・4年(1850-51)ころ、10~11歳の時に『通俗三国史』や『南総里見八犬伝』などを好んで読み、安政4~7年ころ、17~20歳の時に世の中の矛盾を感じ始め、『日本外史』や『十八史略』などを読み漁った。
17>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
渋沢栄一は、こうした書物に登場する英雄豪傑を自分の友のように感じており、いずれ自分も天下国家のために何かをしたいという、「志」が高揚した。渋沢が尊王志士に成長していく起点として、こうした経験も寄与したかも知れない。
18>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
その英雄の一人が、山田長政であったようだ。「ジャパンナレッジ」によると、長政は近世初頭のシャム在住日本人の指導者。駿河国(静岡県)に生まれる。通称仁左衛門。1611年(慶長16)ごろ朱印船に乗ってシャム(タイ国)に渡る。
19>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
当時、国都アユタヤ郊外には日本町があり、多数の日本人が居住(1500~1600人)。彼らには一人の有力者(首長)の統率下にシャムの兵士として軍務に服する者、金融業・貿易業に従事する者などがあった。長政はその才幹を認められ、首長となった。
20>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
山田長政の遺子はカンボジアに走り、同国の軍に合流してシャム軍と戦ったが、対戦中に戦死した。長政の没落によりアユタヤの日本町も焼討ちされ、一時、日本人の勢力は衰退した。渋沢はこうした英雄譚に血沸き肉躍る思いをしたのだろう。さて、栄一に戻る。
21>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
渋沢栄一は、幼い頃から従兄・渋沢新三郎に神道無念流の剣術を学び、嘉永4年3月、正式に入門している。新三郎の師・大川平兵衛の血洗島村での出稽古時には、渋沢を始め尾高惇忠、従弟・渋沢喜作など門弟が参集し、剣術試合を実施した。
22>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
渋沢栄一は、従兄・尾高長七郎らと家業の合間に剣術修行のため、上野国・下野国(群馬・栃木)で出かけるなど剣術稽古も熱心に実行したらしい。渋沢は農民であったが、いずれ武士になりたいという志向があり、剣に打ち込んだこともその表れかも知れない。
23>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
憎らしいお代官様、登場。渋沢の有名なエピソードの伏線。その回収を期待したい。
24>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
徳川慶喜について、ちょっと復習すると、弘化2年(1845)8月、一橋家から慶喜相続の打診があり、紀州・尾張の内々の打診を断った経緯の中、徳川斉昭は迅速に前向き対応した。これは老中阿部正弘から12代将軍家慶の内諭と伝言されたことがやはり大きかった。
25>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
斉昭は、世子の家定は虚弱で暗愚との評判で、将軍継嗣に繋がる可能性ありと判断した。弘化4(1847)年9月、一橋家相続の沙汰、一橋領10万石付与の伝達があり、12月1日に元服、七郎麻呂を慶喜と改め、従三位中将に補任され刑部卿と呼称、慶喜11歳であった。
26>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
今からちょうど153年前、慶応3年2月21日、「幕府、征夷大将軍徳川慶喜の音称「よしひさ」を布告す」。「よしのぶ」ではなく、「よしひさ」なんですね、公式には。
27>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
主として「百科事典マイペディア」によると、一橋家とは徳川御三卿の一つ。8代将軍徳川吉宗の四男宗尹(むねただ)を祖とする。1735年に元服した宗尹は徳川の家号を許され,1741年に江戸城一橋門内に屋敷を与えられた。一橋徳川の名称の由来となる。
28>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
一橋家の祖である宗尹は、1746年に賄料領知10万石を与えられた。2代治済(はるさだ)の長男は将軍家を継いで11代将軍家斉(いえなり)となる。9代目には水戸徳川斉昭の子慶喜を迎えたが、慶喜は1866年15代将軍となった。まだかなり先の話である。
29>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
一橋家の10万石の領地は、西日本8万石(おおよそ摂州に1万5000石、泉州に8000石、播州に2万石、備中に3万7000石。代官所は備中の井原村、摂・泉・播3ヶ国は大坂川口)、関東2万石であった。関西に領地が多いことに注目したい。
30>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
ここからは、渋沢栄一とこれ以降も行動を共にする、渋沢喜作(1838―1912)、後の成一郎について、その生涯を今回はごく簡単に触れておこう。「ジャパンナレッジ」では、喜作は佐幕運動家、実業家と紹介されている。
31>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
喜作は、渋沢栄一と同様に武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)に生まれ、従弟の栄一らと尊王攘夷運動を企てたが、後に栄一と同時に一橋家に仕官、鳥羽伏見の戦いに従軍後、彰義隊を結成し頭取となったが、副頭取の天野八郎と対立したため脱隊した。
32>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
喜作は、彰義隊脱退後、さらに振武(しんぶ)軍を組織して官軍に抗したが敗北、箱館 五稜郭でも敗れ陸軍糺問所に捕らわれる。明治4年(1871)出所後、栄一の推挙で大蔵省に出仕、翌年冬に蚕糸業調査のためイタリアに出張。
33>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
喜作はその後、1873年に帰国とともに退官して小野組に入社、同社破産後、栄一の援助で渋沢商店を創立し、東京・深川に回米問屋、横浜に生糸売込問屋を経営した。また、深川正米市場を設立して頭取となり、東京商品取引所理事長にも就任した。
34>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
続いて、渋沢栄一に大きな影響を与えた尾高惇忠について、その生涯をやはり簡単に述べておこう。文政13年(1830)7月27日生まれ、 明治34年(1901)1月2日没。富岡製糸場の初代場長、および日本の実業家。第一国立銀行仙台支店支配人。通称は新五郎。号は藍香。
35>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
尾高惇忠は、現在の深谷市下手計に生まれ、学問に優れており、17歳のころに自宅で尾高塾を開き、近隣の子どもたちに学問を教えていた。従弟の渋沢栄一の師でもあり、その考えに大きな影響を与えた。栄一は後年、「藍香(尾高)ありて青淵(栄一)あり」と述懐している。
36>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
尾高惇忠は、10代で後期水戸学に感化され尊王攘夷思想を抱くようになり、 高崎城乗っ取り計画や横浜商館焼き討ち計画を渋沢栄一らと共に企てたが、それ以降は行動を共にせず、栄一が徳川慶喜に仕官すると、それに呼応するように、幕府寄りにスタンスを変えていった。
37>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
尾高惇忠は、元治元年(1864)に水戸天狗党との関係を疑われ捕縛され、家宅捜索も受けたが、直ぐに赦免された体験を持つ。慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、迷わず彰義隊に参加した。
38>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
しかし、尾高惇忠は天野八郎と合わず脱退し、渋沢喜作を首領として「振武隊」(1500名)を組織し、会計頭取(財務責任者)の任に就いた。高麗郡飯能(埼玉県飯能市)の能仁寺を本営として、飯能の戦いで官軍と交戦したものの敗走した。この時、逸れた渋沢平九郎(尾高平九郎)は自決する。
39>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
尾高惇忠は喜作とともに、伊香保、草津、前橋へと転々としたのち、密かに江戸に入って、榎本武揚と合流し、北海道の函館戦争でも新政府軍に抵抗した。その後、明治4年(1871)に至り、大蔵省の官僚になった渋沢栄一の縁から、官営・富岡製糸場の初代所長に就任する。
40>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
当初、製糸場は西洋人技師が携わっていたことから、工女になると西洋人に生き血を飲まれるなどの悪い噂が喧伝され、女工が集まらない事態となった。そのため、尾高惇忠は娘の勇(ゆう)を最初の工女として勤務させ、また各地を回って説得するなど工女勧誘に尽力した。
41>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
尾高惇忠は、明治9年(1876)には、黒字化させた製糸場を辞職し、明治10年(1877)からは、第一国立銀行の盛岡支店、そして仙台支店の支配人などを務め、東北の産業経済発展に貢献し、明治34年(1901)1月2日に逝去した。
42>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
第12代将軍徳川家慶(1793―1853)について、11代将軍家斉の二男として生まれ、幼名は敏次郎。天保8年(1837)、に将軍となる。しかし、家斉在世中は、大御所政治時代であり、家斉に実権を握られていた。
43>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
天保12年(1841)、家斉の死後、徳川家慶は老中水野忠邦を首座に任用して、幕政の改革、世にいう天保の改革を行った。しかし、改革は急激にして、また各方面に厳格に過ぎたため人心を失い、忠邦は2年余で失脚した。
44>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
その後、徳川家慶は阿部正弘を老中首座に起用し、有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、幕末の雄藩連合運動の素地を作ることとなった。嘉永6年(185 3)6月のペリー来航に際しては病床にあり、ほどなく死去した。
45>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
老中阿部正弘の相談に与っていた川路聖謨(1801―1868)について、幕府の徒士・内藤吉兵衛の子として豊後国(大分県)日田に生まれ、小普請組川路三左衛門光房の養子となる。通称弥吉、後に三左衛門。
46>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
川路聖謨は18歳の時に幕府に出仕し、下級武士の出身で初めて支配勘定出役となり、それ以降も能力を認められて出世を続け、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行を歴任、嘉永5年(1852)には勘定奉行に上り、海防掛を兼ねた。想像を絶する官僚中の官僚である。
47>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチンの来航に際しては、川路聖謨は外交交渉のため長崎に赴き、翌年に再び伊豆下田においてプチャーチンと折衝し、日露和親条約を締結した。ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。然もありなん。
48>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
川路聖謨の実弟松吉は、幕臣井上新右衛門の養子となり、のち外国奉行・井上信濃守清直として、岩瀬忠震と共にハリスの応接にあたり、兄弟ともに幕末外交史上に活躍したことになる。川路聖謨が遺した言葉として、「小心でなくては大事はできない」(「寧府紀事」)
49>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
その後、川路聖謨は条約勅許・将軍継嗣問題で一橋派と目され、大老井伊直弼にその地位を追われた。井伊の横死後、文久3年(1863)に外国奉行となったが、数か月で辞職したが、その事由は定かではない。なお、江戸城の無血開城の翌日、ピストル自殺を遂げた。まさに幕府に殉じたのだ。
50>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
幕府はオランダに風説書提出を義務付け国際情報を得ていたが、アへン戦争が起きると、これとは別により詳細な情報(別段風説書)を入手しようとした。オランダ風説書は、鎖国体制下の日本との貿易を特に認められたオランダが幕府に提出した海外情勢に関する風説(ニュース)を総括した書。
51>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
オランダ風説書の起源は、鎖国完成後の寛永18年(1641)とされ、当初は必ずしも提出が義務付けられなかった。キリスト教禁制を強行し、日本人の海外渡航禁止の政策をとった幕府としては、海外情報源の確保は極めて重要な意義をもった。
52>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
現在知られている風説書は日本文・蘭文あわせて318通余、時期は寛永18年(1641)から安政4年(1857)に及んでいる。それに加え、中国(清)におけるアヘン戦争関係情報として、別個に「別段風説書」が提出された。
53>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
阿片戦争(1840-42)から始まった「別段風説書」では、19世紀半ばの世界情勢が毎年報告されている。日本に影響があるものは重点的に取上げられているが、それ以外でもヨーロッパ各国およびイギリス、オランダのアジア植民地の事も細かい所まで記述されている。
54>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
別段風説書は、ジャワのバタビアにあったオランダ領東インド政庁が新聞記事から作成しており、様々な事件が時系列に継続して記述されている。この別段風説書の充実の伴い、従来の風説書は形式的な短文になった。
55>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
江戸幕府は、ペリーの来航(嘉永6年6月)を既に1年前の嘉永5年の別段風説書で知っていた。別段風説書には、アメリカが日本へ艦隊を派遣することを決め、使節にペリーを選任した事ならびに渡来目的が述べられていた。
56>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
尾高長七郎役の満島真之介さんとは、ザ・プレミアム「時空超越ドキュメンタリードラマ 江戸城無血開城」で満島さんがアーネスト・サトウを演じられ、私が時代考証をした時、親しくさせていただいた。メチャ明るくて気さくで、ナイスガイだった。
57>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
次回はペリー来航です!まだ阿部正弘も後期水戸学関連もお話できていませんね。それはさておき、次週も楽しみです。
58>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
【NHKさいたまアリーナ教室・オンライン講座】渋沢栄一とその時代(3/13から全3回)
激動の人生を紐解き、キーパーソン将軍慶喜についても迫ります!大河ドラマをより楽しむために、ぜひ受講してください(^^)
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
59>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
【オンライン】渋沢栄一とその時代
3/13(土)「渋沢栄一とその時代① ― 生い立ちから一橋家仕官まで」
4/3(土)「渋沢栄一とその時代② ― 一橋家仕官後から明治官僚まで」
4/24(土)「徳川慶喜と幕末政治― 将軍時代を中心に」
*いずれも10:30~12:15 
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
60>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
【NHK青山講座・対面】幕末人物伝2-知られざる英雄の実像
3月20日(土)10:30~「武市半平太」
1回のみの参加も可能です。
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
61>町田 明広@machi82175302  2021年2月21日
近刊の共著『新説の日本史』(SB新書)では、第5章幕末の「新説12 薩長同盟は軍事同盟ではなかった!?」「新説13 日米修好通商条約は不平等ではなかった!?」を担当しています。https://sbcr.jp/product/4815609054/ 


関連情報:
矢部 鴎所@komusai06311 2021年2月21日
勘定奉行川路聖謨が本日登場したが、この時点で既に奈良一乗院門跡である一乗院宮尊応法親王(後の青蓮院宮尊融法親王)とは出会っている。この出会いが後にとんでもないことを実現することに繋がる。
矢部 鴎所@komusai06311 2021年2月21日
49>への返信:
この頃の川路ですが、外国奉行就任前後、体調が悪いと日記に記載がございましたので、それが辞職の原因ではないかと考えております。

馬場弘臣@omikun_1603 2021年2月21日
近世後期の江戸地廻り経済圏ー商品作物の生産と異国船来航からの政治変動→社会変動に繋がっていく……。うまく描かれてるな。

こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
結構、栄一パートは伝記資料と雨夜譚がベース。
こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
劇中に月次拝賀という言葉が出てきましたが、江戸城の儀礼の一つで、毎月1日・15日・28日に大名・諸役人が江戸城の白書院という部屋で将軍に謁見するというものです。この日にちをしっかり押さえていないと、場合によっては脚本上の日程設定などがおかしくなります。
こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
今日はラストにペリーが登場しました。教科書的にはアメリカが日本の開国を望んだ原因の一つとされるのが、清国との望厦条約締結をきっかけとした中国市場の開拓で、日本は寄港地としての役割を期待されていました。
こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
当初、アメリカが企図した航路はサンフランシスコからアリューシャン列島・千島を通るルートでしたが、同国が西海岸に進出したことでニューヨークから喜望峰を経由するよりも大幅な短縮可能なルートが設定できるようになりました。
こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
そもそも、ルート短縮が検討された原因は、イギリスとの中国市場をめぐる競争でした。ペリーのセリフにもイギリスを出し抜くというニュアンスがありましたが、それはこうした米国史研究の現状も把握して、それを組み込んで考証したからです。
詳細はピーターワイリイ『黒船が見た幕末日本』で
こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
当初、日本への使節として選ばれたのはオーリックでしたが、彼はサスケハナ艦長との衝突などを理由として更迭されました。オーリックの後任として選ばれたのがペリーですが、57才のペリーが選ばれた背景にあったのは、もともと米国海軍内で日本開国計画の立案を任されていたためでした。
こけし@kokeshinookimon 2021年2月21日
ちなみに、1852年3月にペリーは日本行の訓令を受け取るはずだったのですが、大統領選挙の混乱などから訓令を受け取ったのが同年11月でした。もし、3月に訓令を受け取っていたら、ペリー来航も一年ずれていたかも知れません。
 
桐野作人@kirinosakujin  2021年2月21日
「青天を衝け」第2回。とりあえず一橋慶喜について。弘化4年(1847)9月、松平七郎麿は一橋屋形を相続して徳川姓になった。先代一橋昌丸死去のため喪に服していたが、10月1日、江戸城に登城して将軍家慶に拝謁。一橋相続、10万石拝領を謝す。どう5日にも登城し大奥で家慶と対面。
桐野作人@kirinosakujin  2021年2月21日
ドラマでもあったが、将軍家慶は「水戸でどんな書物を読んだか、水戸城下の風物はいかに、今年の作毛はどうか」など問い、七郎麿はいちいち答えたという。同11日にも登城、大奥でまた家慶に拝謁。ヤマガラ、カナリヤ、鶯などの小鳥を拝領している。家慶は親元を離れた11歳の少年を気遣う。
桐野作人@kirinosakujin  2021年2月21日
同12月1日。登城した七郎麿は本丸中奥にて家慶・家祥父子に拝謁し、偏諱を賜って慶喜と名乗ることになり、合わせて従三位左近衛権中将に叙任され、刑部卿と称することになった。同時に元服式を挙げている。ドラマでもあったが、これから数日後、登城して能を見物している。

僭越ながら
藝藩志・藝藩志拾遺研究会    2021年2月22日
38>への補足情報
渋沢平九郎が戦ったのは、「回天軍第一起神機隊」(かいてんぐんだいいっきしんきたい)
という広島藩の兵ですが、神機隊の結成自体、総員は1200人程ですが、藩からは200人分の運用資金しか許可されておらず、後はクラウドファンディングで運営していました。但し、武器弾薬は長男高間省三が砲隊長だった事もあり、武具奉行高間多須衛(高間家は浅野家の砲術家系)から提供されていたので、最新式のモノを使っていました。調査によると、広島藩製のコンパクトなライフル銃を使っていた様で、広島護国神社に実物が保管されています。
戊辰戦争に於いて、クラウドファンディングで非公式な民間軍として出征したのはこの隊だけです。但し、広島藩にも軍隊を派遣する様要請があり、その要請に応じる形で途中で追認されています。

戊辰戦争では当初、出兵が認められず、脱藩してでも出征すると主張した為、藩主が聴許するという形で非公式に出兵した軍隊です。その為、他の広島藩諸隊と違い、正式な総督が任命されておらず、尚且つ京都で幹部を含め20人程引き抜きされたので、 この隊は合議制で運用されていました。当初は藩から軍資金を一切出して貰えず、広島や尾道等の商人などからクラウドファンディングで軍資金を調達しての出征でした。
神機隊は上野戦争の後、仙台口征討軍に参戦し、多くの戦いで先鋒を努めています。
一時、単独で10倍以上の敵と昼夜問わずの戦いを繰り広げる等奮闘し、当初約300人だったのが、実戦で戦える者が80人になる程犠牲を出しながら成果を上げています。
(既に王政復古が成された為、「鳥羽伏見の戦い」に於いて、執政辻将曹より戦闘を禁じられ、戦闘に参加しなかった事に対し、薩長から相当な避難中傷を浴びた汚名を晴らしたいという意図が強く働いていたとされています。また、「鳥羽伏見の戦い」より、明治に入っても広島藩出身者の多くは、あらゆる場で冷遇されたとされています。※人脈がある人は出世しています。)

この神機隊の斥候が逃走中の渋沢平九郎と出くわし、重症を負わせたところ、自刃したので仙台口征討軍が解隊した後、遺品を広島まで持ち帰っていました。広島に行った際に、それを聞きつけた渋沢栄一が返還を求めた為、引き渡されたという事があった様です。渋沢平九郎が余りにも強くて広島藩兵が逃げたという説明をしているサイトもありますが、遺品を持ち帰っているので、それは有り得ません。
自ら戦闘志願し、戦闘慣れした長州兵が躊躇する、弾丸飛び交う中を突撃する様な士気の高い隊が、小規模の戦いで相手を恐れて逃げるなど考えられません。

藝藩志にはこうあります。
「飯能は甲府行の沿道に係るを以て忍兵と共に出発し廿二日暁川越に至る更に軍監の指揮に依り直に坂戸へ出張し翌廿三日賊兵今市へ来るの報あり依て今市駅に至れとも賊已に遁走せしを以て再び坂戸へ赴かんと欲し忍藩と共に坂戸越を過るに当り我か斥候と賊の斥候と衝突して互に健闘す賊一人を倒す我か五番隊福田松太郎は数所を負傷し三番隊高島芳助は左臂を失ふ而して賊兵頗る多く且つ夜に入る依て両藩とも今市に退却したり」
つまり、倒した賊一人に該当するのは渋沢平九郎だけということになり、退却する時には既に渋沢平九郎は自刃しているから、遺品を持ち帰る事が出来たのです。


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