藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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大河ドラマ「青天を衝け」がもっと面白くなる 町田明広先生の解説 第三話 2/28

2021年02月28日 22時32分59秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
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「青天を衝け」(3)~「栄一、仕事はじめ」
内容:
憧れの江戸を訪れ、舞いあがる栄一。栄一は、村の窮地を救うために藍葉の買い付けに挑む。そのころ、斉昭は息子・慶喜のために型破りな男を家臣に迎えようとしていた。

市郎右衛門と初めて江戸へ行った栄一は、江戸の華やかさに驚くとともに、父の姿に商売の難しさを知る。その年の藍葉の不作により窮地に陥った父を助けるため、自ら藍葉の買い付けに行きたいと考える栄一だが・・・。一方、黒船が来襲した江戸は大騒ぎ。将軍・家慶が亡くなり、次期将軍候補に慶喜の名が挙がるも、慶喜は反発する。そんな慶喜の家臣にと、平岡圓四郎に白羽の矢が立つ。


01>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
本日は「青天を衝け」3回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
02>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
「青天を衝け」3回目を拝見!青年パート・成長譚が生き生きと描かれ、家業の藍玉製造や藍葉作りをうまく取り込み、視聴者に分かり易く紹介し、渋沢の商才も伝わってきました!いよいよ、ペリー来航、幕末の動乱が始まります。「こんばんは、徳川家康です」、やはり最高です!
03>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
家康が紹介したマクドナルド(MacDonald, Ranald、1824−1894)について、主としてブリタニカオンラインによると、北アメリカ先住民族インディアンの血をひいたアメリカの探検家、英語教師。日本渡航を企てて 1845年、捕鯨船に乗組んだ。
04>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
マクドナルドは、1848年に日本近海でボートに乗って北海道利尻島付近に上陸。捕えられて長崎に移送され、監禁中にオランダ通詞 14人に英語を教えた(日本最初の英語教師)。そのなかには、ペリー来航の際の通訳となった森山多吉郎 (栄之助)、堀達之助らがいた。
05>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
1849年、マクドナルドはアメリカ船『プレブル』号で長崎を去った。のち中国,インド,オーストラリア,カナダ,アメリカで放浪生活をおくった。 1894年8月5日死去。70歳。W.ルイスおよび村上直次郎共編の自叙伝"Ranald MacDonald" (1923) がある。
06>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
実は、数年前、神田外語大学の英米語学科の学生がマクドナルドを扱った卒論を執筆しており、その副査を担当した。それ故、思い入れがある人物。
07>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
いよいよ、ペリー艦隊が来航し激動の時代に突入したが、まずはそのあたりから。我が国の開国は、嘉永6年(1853)にペリーが来航し、その翌年に日米和親条約が結ばれたこととするのが、いまだに一般的なようである。それが実は「開国」ではなかった。
08>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
日米和親条約では開国に至らず!については、ペリーが2回目の来航を果たした次回で語ることにしたい。
09>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
そもそも、ペリーはなぜ日本にやって来たのであろうか、その目的を最初に整理したい。当時のアメリカは、カリフォルニアが空前のゴールドラッシュを迎えていたこともあいまって、領土が西海岸にまで達していた。さらに、アメリカでは産業革命が進展していた。
10>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
アメリカは、特に綿製品の輸出先として、太平洋の先にある大市場の中国(清)への進出を目論み、その中継基地として日本の港は必要不可欠であった。また、最盛期を迎えていた捕鯨産業は北太平洋から日本沿岸に漁場を求めており、その側面からも薪水や食料の補給が大きな課題となっていた。
11>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
加えて、アメリカにとって操業中に頻発する漂流民の安全確保も、極めて深刻な問題であった。日本は貿易対象国として、当初は重きを置かれていなかったものの、優良な漁場に位置することから、日本の存在はアメリカのみならず、世界的に注目を集めていた。
12>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
さて、ペリーである。嘉永6年6月3日、ペリー艦隊は浦賀に入港した。長崎への回航要求をかたくなに拒み、江戸湾を北上して測量を強行するなどの示威行動を繰り返した。そのため、なす術がない幕府は、9日には久里浜においてペリーと会見せざるを得なくなった。
13>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
ここで、日本側は和親と通商を求めるフィルモア大統領からの国書などを受け取った。しかし、この段階では一切外交交渉はなされず、ペリーは一年後の再来を予告して、早くも浦賀入港から9日後の6月12日には出航した。
14>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
これは1ヶ月以上の食料や水がなかったこと、清の政情不安から居留民の保護のため、軍艦を差し向ける必要があったことが大きな理由である。また、幕府が回答までの時間を引き延ばすことが、容易に想定できたことも関係があった。
15>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
満足すべき回答がないまま長期間が経過し、結局出航せざるを得なくなると、日本が勝利したと解釈され、今回の使命に大きな汚点を残すことが考えられたからだ。ペリーの1回目の来航は、日本に大きな衝撃を与えことは、その後の歴史が物語っている。
16>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
ペリーを迎えることになった老中阿部正弘(1819~57)について、やや詳しく触れたい。全くの私見であるが、老中の双璧は田沼意次と、この阿部だと考えている。文政2年(1819)、江戸で生まれた、備後福山 10万石を継ぎ、天保 11年 (1840)、寺社奉行となり功績を上げた。
17>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
阿部正弘は、天保14年(1843)に25歳で老中となると、安政4年(1857)の逝去時までその地位に止まり、12代将軍家慶、13代家定の幕政を統括した。
18>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
阿部正弘は、水野忠邦の失脚後、老中首座となり、外国船の出没が激しくなると海防を厳重にすることを奨励した。そして、アメリカ・ロシア・オランダ・イギリスと和親条約を締結することになる。
19>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
阿部は安政の改革を断行したが、その基本構想は、譜代大名に独占された老中制度を打破することであり、それによって譜代門閥制度による幕府独裁制を修正することにあった。つまり、朝廷と有力大名(御三家・一門・外様による雄藩連合)の協力を得て、挙国一致体制の構築を企図したもの。
20>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
安政の改革の背景には、直面する外交問題に対応できない、幕府の深刻な武威低下があったのだ。薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城と連携し、水戸斉昭を幕政参与とし、将軍継嗣としては慶喜を推した。
21>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
安政の改革の具体的な施策としては、外交・国防問題に専従させる海岸防禦御用掛(海防掛)を任命し、幕臣の師弟のために、軍事的養成機関である講武所を設置した。加えて、江川英龍(太郎左衛門)に命じて、お台場に砲台を造営させた。こうして、海防・軍事の強化を目指した。
22>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
諸藩に対しては、寛永12年(1635)の大船建造禁止令を廃止し、その建造を解禁し、海防の強化を命じた。また、幕臣以外にも広く門戸を開放した、国家レベルでの取り組みとして、洋学教育・外交問題研究機関である蕃書調所、および海軍士官養成機関である長崎海軍伝習所を設置した。
23>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
安政の改革の中でも、最も重要な阿部の政策は人材登用であろう。例えば、勝海舟大久保忠寛岩瀬忠震川路聖謨江川英龍ジョン万次郎高島秋帆永井尚志筒井政憲井上清直水野忠徳などを大抜擢した。
24>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
彼らの多くは、目付海防掛といった要職に起用され、その後の安政の大獄で罷免等の弾圧を受けたが、この間は外交問題を中心として、阿部を補佐して幕政を担った。とりわけ、私は岩瀬忠震を推したい。岩瀬も幕末の奇跡と言えよう。最近、評伝も新刊で出ているので、関心のある方は、ぜひ!
25>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
阿部政権は、外様大名から庶民に足るまで、外交問題についての意見を募るなど、開放的な政策を行った。その反面、身分や組織の枠を超えて議論を進める、いわゆる「処士横議」の風潮を生み、幕政批判が公然と起こる下地が形成された面もある。
26>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
安政の改革は、幕府に一服の清涼剤を与え、立ち直りのきっかけになるかと思った。しかし、その矢先に、井伊大老直弼による恐怖政治が始まり、元の木阿弥に帰してしまったのだ。安政の改革はもっと注目されてよい。
27>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
阿部正弘は、安政4年(1857)6月17日に老中在任のまま急死したため、その推挙を受けて老中首座となり、外国掛老中を兼ねていた堀田正睦(1810~64)が後継者となった。その堀田を待ち構えていたのは、通商条約問題であった。ドラマでは、まだまだ先の話であるが。
28>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
さて、主人公の渋沢栄一に話を切り替えよう。嘉永6年(1853)、渋沢が13歳の時にペリー来航に遭遇する。大いに刺激を受けた結果、攘夷の念の萌芽があったと後日、渋沢自身は語っている。(『渋沢栄一伝記資料』綱文)
29>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
しかし、ペリー来航当時の渋沢栄一の心情を直接伝える史料は存在しないため、渋沢がその瞬間に何を考えたのかは不分明である。とは言え、その後の渋沢の行動を鑑みるに、「尊王攘夷」に目覚めたことは間違いないと考える。
30>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
安政元年(1854)から2年にかけて、渋沢栄一が13、14歳頃までは、連日にわたって読書・剣術・習字等の稽古三昧の日々であった。この頃からは家業を手伝い始め、近隣村々を廻り藍菓の買い付けも1人で行っていた。
31>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
渋沢栄一は、藍葉を藍玉にして取引先の紺屋に値段を決めずに先に送付した。そして、紺屋が使用した分だけの代金を徴収するために出張し、次の注文の確認をした。春・秋は様子を見に出かけ、正月(1月)・盆(8月)にはは集金に出かけるなど、年に4回は得意先を訪問していた。
32>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
安政4年(1857)頃、17歳頃から信州・上州・武州秩父にある得意先廻りを1人で担当した。家業に対する熱意も沸き、当時の特産地・阿波の藍に負けないものを作りたいと近隣村々から藍菓を買い集め、作った人々を招待して番付を作成した。
33>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
渋沢栄一は、藍の出来に応じて席順を定め、一番良い藍を作った人を上席に据えて饗応した。競争意識を高め、一層良い藍を作ることを奨励しており、渋沢の異能を物語るエピソードとして有名な話かも知れない。このあたりは次週か?
34>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
いよいよ平岡円四郎【生年:文政5.10.7(1822.11.20) 没年:元治1.6.16(1864.7.19)】が登場。簡単にどのような人物かを「朝日日本歴史人物事典」を基に紹介。平岡は、幕末の幕臣。嘉永6(1853)年12月、川路聖謨藤田東湖に推され、一橋家小姓となり徳川(一橋)慶喜に近侍するようになった。
35>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
平岡円四郎は、将軍継嗣問題では慶喜擁立を工作、安政の大獄で差控、甲府勝手小普請に左遷された。しかし、慶喜の将軍後見職就任に伴い、文久3年(1863)一橋家用人となり上洛。翌元治元年(1864)年5月15日、一橋家家老となる。
36>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
平岡円四郎は「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川(嘉兵衛)に在り」と評される。奸臣とみなされ元治元年、水戸藩士の手にかかり殺害された。渋沢栄一は平岡なくして、慶喜への仕官はあり得なかった。
37>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
本日は徳川慶喜ネタがなく、すいません
草彅くん、慶喜のクールな「素気なさ」をうまく演じられていました。ドラマでも触れられていましたが、将軍継嗣問題が出てきました。今回はこのあたりがじっくり描かれそうで、期待大です(^^)
38>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
今回から松平春嶽が登場!かっこよかった(^^) 確実に、次週から橋本左内も登場!!私の周辺でもざわめきが・・・
左内は書いてみたい伝記候補の一人です!
39>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
ここからは水戸学について述べていこう。水戸学とは、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業が継続される中で、藩内で醸成された学問のことである。その目的は、過去の日本の歴史を朱子学的大義名分から明らかにすることにあった。
40>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
水戸学は、前期と後期に区分されている。18世紀初めまで、『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだのが前期である。そして、第九代藩主の徳川斉昭の治世である18世紀末期から幕末にかけて、編纂事業は継続しつつ、政治的課題の解決にも目を向けたのが後期である。
41>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
その舞台となったのが、斉昭が設置した藩校の弘道館であった。なお、水戸学が他藩の武士から注目されるようになったのは天保年間(1830〜44)以降であり、当時は「天保学」「水府の学」と呼称された。水戸学と言われるようになったのは、実は明治以後である
42>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
現在では前期・後期を含めて「水戸学」とされる。後期水戸学は、藤田幽谷(1774~1826)、その門人・会沢正志斎(1782~1863)、幽谷の実子であり門人でもある藤田東湖(1806~55)という系譜を持つ。私はこの3人を「水戸学の三傑」と名付けた。
43>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
藤田幽谷の没年は幕末期の直前、ペリー来航までまだ30年近くある文政9年で、幕末を生きたわけではない。しかし、後期水戸学を思想的に基礎付け、水戸藩内に根付かせた功績は、後期水戸学の祖と呼ぶにふさわしい。
44>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
会沢は幽谷の思想を受け継ぎ、その内容を包括的かつ体系的に表現し、藩内だけに止まらず後期水戸学の存在を広く世に知らしめた。東湖は後期水戸学の思想を様々な詩や文章にして社会に喧伝し続けた。その著述は極めて情熱的で、日本中の若年武士層に感嘆をもって受け入れられ深く浸透した。
45>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
東湖は徳川斉昭の補佐役として政治の世界でも活躍し、後期水戸学の思想を政治の実践の場面で活用した。東湖の活躍によって、水戸は後期水戸学の聖地となり、全国に勃興する尊王志士のコミュニケーションの中枢的役割を果たしたが、その中心にいたのが東湖であった。
46>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
後期水戸学は、江戸時代の諸思想・学問を整理統合したところに大きな特色がある。幕府が封建社会を維持するために重視した朱子学をベースにし、上下の身分秩序を重んじて、礼節を尊ぶ精神を引き継いだ。また、経世論も取り入れ、政治・経済・農業・国防などを論じた。
47>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
特に国防論を重視し、鎖国論を堅持して攘夷を声高に主張し始めた。加えて、平田国学を受け入れて、東アジア的華夷思想の中心に天皇を据え、尊王論の勃興を促したのだ。ナショナリズムの全国への浸透は、こうした後期水戸学によってもたらされたと言えよう。
48>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
後期水戸学の理解者であり体現者である斉昭について、ここでも触れておこう。斉昭は、最後の将軍・慶喜の実父として有名であり、烈公と称されるほど劇烈な性格で、ジェットコースターのような浮き沈みの激しい生涯を送った。会沢正志斎藤田東湖などをブレーンとして藩政改革に臨んだ。
49>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
斉昭は西洋式軍備を導入し、民政を重視して藩財政基盤の再建に努め、藩校弘道館を興して藩の文武を奨励した。また、ペリー来航後は海防参与として幕政にも関与したが、将軍継嗣問題などで大老井伊直弼と対立し、失脚して死ぬまで蟄居強いられた。
50>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
斉昭は、有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子と結婚し、また、姉の鄰姫が朝廷随一の権力者、関白鷹司政通に嫁いでいたため、朝廷との強いパイプを有していた。とりわけ、政通に対して、幕府の内部事情や対外情勢を詳細に報告しており、これが孝明天皇の判断に多大な影響を与えた。
51>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
斉昭は天保10年(1839)には幕府に対しても、改革を求めるために『戊戌封事 』を12代将軍徳川家慶に建言した。この中で、内外の問題を「内憂外患」(内憂とは国内の憂い、外患とは対外的な危機)という言葉で表現した。
52>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
人材登用、言路洞開(政治にかかわれない者にも、意見を述べる機会を与えること)、財政整理(悪貨駆逐、賄賂厳禁)、オランダ貿易廃止、キリスト教厳禁、蘭学禁止、大船建造解禁、攘夷励行、蝦夷地開拓などの実行を幕府に迫った。こうした斉昭の動向は、あらゆる勢力から注目された。
53>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
こうした言動は、過激である半面、惰弱な幕府に対していかにも頼もしく、斉昭を当時のスーパースターに祭り上げることになった。武士であれば、誰でも憧れる異質な存在であった。後年、斉昭と対決する井伊大老ですら、斉昭の信奉者の一人であった。
54>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
斉昭の側用人として政治家としても活躍した藤田東湖について、水戸学を単なる学問で終わらせず、政治の世界で実践し、学問と政治を融合することに成功した。そして東湖は、全国の尊王攘夷運動の中心人物として活躍した。
55>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
東湖の会沢を継承する思想は、『弘道館記述義』において明らかにされ、水戸学の思想を簡潔に表現し、その中で「尊王攘夷」の語を初めて用いた。また、東湖の自叙伝的詩文『回天詩史』は、幕末志士たちに大いに朗吟され、深い感銘を与え続けた。
56>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
こうして後期水戸学は、幕末を迎える思想的準備を果たしたが、東湖が安政地震(1855)で轢死したことで指導者を失い、迷走を始める。また、幕府権威の失墜によって、尊王のみならず敬幕的志向を持っていた後期水戸学は、時代から乖離を始める。東湖については、次回もう1度!
57>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
【NHKさいたまアリーナ教室・オンライン講座】渋沢栄一とその時代(3/13から全3回)
激動の人生を紐解き、キーパーソン将軍慶喜についても迫ります!大河ドラマをより楽しむために、ぜひ受講してください(^^)
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
58>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
【オンライン】渋沢栄一とその時代
3/13(土)「渋沢栄一とその時代① ― 生い立ちから一橋家仕官まで」
4/3(土)「渋沢栄一とその時代② ― 一橋家仕官後から明治官僚まで」
4/24(土)「徳川慶喜と幕末政治― 将軍時代を中心に」
*いずれも10:30~12:15
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
59>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
【NHK青山講座・対面】幕末人物伝2-知られざる英雄の実像
3月20日(土)10:30~「武市半平太」
1回のみの参加も可能です。
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
60>町田 明広@machi82175302 2021年2月28日
近刊の共著『新説の日本史』(SB新書)では、第5章幕末の「新説12 薩長同盟は軍事同盟ではなかった!?」「新説13 日米修好通商条約は不平等ではなかった!?」を担当しています。
https://sbcr.jp/product/4815609054/



こけし@kokeshinookimon 2月28日
あっ、ワイが起草した意見書(涙
こけし@kokeshinookimon 2月28日
ペリーのビジュアルばかりが話題になっていますが、この頃、ペリーは長旅の影響で極度の体調不良に見舞われていますので、俳優さんのトーンも少し低めかも知れません。
こけし@kokeshinookimon 2月28日
一方で、斉昭は若いころから耳が悪く、大声で話すという癖がありました。斉昭の場合は、海防参与に任じられますが、あまりに声がデカかったために機密を重視する老中から次第に疎まれるようになっていきます。そうした裏設定も見てもらえるとありがたいです。
こけし@kokeshinookimon 2月28日
ペリー来航の際に意見を聴取されるのは、諸大名のほかに評定所や海防掛ほか長崎奉行も含まれる。高校の日本史までだと大名は親藩・譜代・外様という分類が一般的だけど、当時は殿席といっていわゆる控室で大名が分類されている。
こけし@kokeshinookimon 2月28日
例えば、大廊下上之間・大廊下下之間・大広間・溜間・帝鑑間詰など。んで、御三家・御三卿は大廊下の上之間で、春嶽は大廊下の下之間、井伊直弼は溜間詰の筆頭で、島津家は大広間詰というようにいわゆる格が違う。
こけし@kokeshinookimon 2月28日
ペリー来航時の諸大名への諮問については、『幕末外国関係文書』が詳しい。ちなみに今回慶喜の家臣が起草した意見書というのは創作である。
こけし@kokeshinookimon 2月28日
一応、助監督にちょうどいい塩梅で起草してくれと頼まれたので、『幕末外国関係文書』に収録されている水戸家の意見書を抜粋・要約したのが、あの意見書だった。裏方の密かな裏設定としては、「慶喜が斉昭の子なので忖度して起草した」という感じで文章も起草していた。
こけし@kokeshinookimon 3月1日
水戸学関係の新書はそこそこあるんだけど、徳川斉昭を直接扱った評伝って殆どない。
永井博『徳川斉昭』は、コンパクトにまとまっているので斉昭の生涯を分かりやすく把握したいという人には良いかも知れない。
徳川斉昭 | 山川出版社
徳川斉昭(一般書)/永井博のご購入は、山川出版社公式サイトで。「歴史書・教科書・学習参考書の山川」として様々な歴史刊行物を出版しています。一部書籍は目次もご覧いただけます。
こけし@kokeshinookimon 3月1日
一方で斉昭関連の考証資料として用いたのが、この論文。昨日ツイートした斉昭の耳が遠かったというエピソードの元ネタ。斉昭という個性全体の把握を通して、海防参与から外されていく過程を描いており、近年の水戸藩関係の論文のなかで一番面白い。
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I029039577-00
こけし@kokeshinookimon 3月1日
↑の論文は超絶面白い。地域の図書館から国会図書館に複写依頼を出してでも読んだ方が良い。

馬場弘臣@omikun_1603 2月28日
烈公=竹中直人の似顔絵はちょっと…似すぎ
なお、ペリー来航時の江戸湾警備の三浦半島側は川越藩と彦根藩でした。彦根藩主はもちろん井伊直弼。直弼は三浦半島の見分にはきちんと来ています。概略は『新横須賀市史』の通史編にて

矢部 鴎所@komusai06311  2月28日
阿部正弘が積極的開国、消極的開国どちらにも肩入れしなかったところも非常に重要。阿部正弘存命時、岩瀬忠震の活動には限界があった。
矢部 鴎所@komusai06311 2月28日
町田明広先生は岩瀬忠震について『攘夷の幕末史』『グローバル幕末史』『新説の日本史』等で御解説されております。
矢部 鴎所@komusai06311 2月28日
ちなみにこの頃の岩瀬忠震は「外交については慣例通りに、勝手に上陸したら召し捕えるべき」という論を主張していた。
彼が古賀門下として積極的開国論を展開するのはもう少し後の話

桐野作人@kirinosakujin 2月28日
今夜の大河「青天を衝け」第3回。このドラマは脚本と時代考証がかなりしっかりしている気がする。また渋沢栄一と徳川慶喜のストーリーを並列的に描いているのも効果的で、いつか両者が交わるのだろうと予感させる。今回、平岡円四郎が本格的に登場した。渋沢と慶喜をつなぐキーパーソン。
桐野作人@kirinosakujin 2月28日
七郎麿が一橋屋形を相続したとき、父斉昭が吉子夫人に、七郎麿が将軍になるかもしれぬと喜んだ場面が前回?にあったが、斉昭の心境はそうだったらしい。斉昭は朝比奈昌広の父昌寿に御礼と色紙を贈っているが、それに「棹て行く棹の取り手の渡し船 思ふ方にも疾く着きにけり」とあった。
桐野作人@kirinosakujin 2月28日
和歌の心は、渡し船の行き先は将軍ということだろう。将軍家慶は七郎麿が早世した五男初之丞(一橋慶昌)とおもかげがよく似ているのも気に入ったらしい。これも前々回くらいの場面で家慶が七郎麿に告げていた。






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