革命前後を生きたロシア大公女
ドミトリ・パヴロヴィチの姉マリア
Maria Pavlovna Romanova 1890~1958
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/24/f51cfea461f4c744ed1a6a0d68a6c686.jpg)
最後のロシア皇帝ニコライ2世の従妹マリア・パヴロヴナは、以前の記事に上げたドミトリ・パヴロヴィチの姉であり、ウラディミル・パーレイの異母姉です。
ロシア革命時に亡命して生き延び、1930年に「Education of a Princess」を、1932年に「A Princess in Exile」を上梓しました。そのうちの前者の日本語訳「最後のロシア大公女」(平岡緑訳)を抜粋しながら、マリアの生涯を辿ります。
「1890年にこの世に生を受けて以来、私は激動の時代を生き抜いてきた。私の最も旧い記憶に残る日々は、今こうして執筆しているニューヨーク市内のアパートメントの周囲に輝くばかりに林立する摩天楼、そしてその下に流れる膨大な交通量の織りなす世界からは、まったく想像もつかないほどかけ離れた異質のものであった。今にして思えば、あの頃私が住んでいたのはいわば中世にも似た世界だった。‥」
(序 半生記より)
1890年、当時皇帝アレクサンドル3世の弟パーヴェル大公の長女として生まれたマリアは、のちの皇帝ニコライ2世の父方の従妹であるとともに、現在のエジンバラ公フィリップ王子の母方の従姉でもあります。
1891年、妊娠7カ月のマリアの母アレクサンドラ(ギリシャ国王ゲオルギオス1世の二女)は事故から妊娠中毒症を起こし、6日間意識不明ののち早産しそのまま他界しました。
そのとき生まれた弟ドミトリはもちろん、マリアも母の記憶はなく、日に2度、父に会える他は「赤の他人に育てられてきた」と回顧しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/13/86541d0dc39cef6ff9f274ce79b3d368.jpg)
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弟ドミトリ
大好きな優しい父と過ごすクリスマスの、微笑ましいエピソードがあります。
「父宛の贈り物が溢れんばかりに満載されたテーブルには、想像を絶するほど珍無類な、しかし愛情のこもった品々が並んでいた。弟と私は何カ月となく針仕事に没頭しては恐ろしく悪趣味のクッション、紙挟み、ペン拭い、本の表紙掛けを縫い上げた。私達が少し年長になり、父が裁縫はもうやめてくれと懇願するようになってからは、クリスマスに備えて貯金を始め、その日が近づいてくると、勇んで店に出かけていっては非実用的なくだらない物をしこたま買いこんできた。がらくた類は、子供達からの贈物という感傷のレッテルが貼られるお蔭で屑篭行きこそ免れたが、年々衣装箪笥の暗がりでぞっとするほど無駄に増え続ける運命にあった。‥」
マリアの語り口はこのように忌憚ないストレートな調子であり、歯に衣着せぬ物言いが散りばめられています。生後数カ月の皇女オリガを、「胴体が小さい割に頭でっかちの、ひどく醜い赤子」と書いています。
伯父セルゲイ、伯母エリザヴェータ、父パーヴェルと
伯父セルゲイと
イリンスコエ
マリアとドミトリは夏の間、イリンスコエの伯父セルゲイ夫妻の下で過ごすのが常でした。イリンスコエでは近隣の知人宅にお茶に呼ばれることがあり、ユスーポフ家には度々招かれ、少し年上のニコライとフェリクスらとともに過ごしていました。
子供のいない伯父は二人に愛情を傾けてくれましたが、伯母エラ(アレクサンドラ皇后の実姉エリザヴェータ)は姉弟に無関心であり、冷酷であり、その言葉に傷つけられることが度々あったようです。しかし、当時ヨーロッパで最も美しいプリンセスと言われていたエラの美しさは、マリアも驚嘆しつつ認めています。夫妻はともに自尊心が強く、内気で冷淡、柔軟性に欠ける一方、特にセルゲイは独占欲が強く、姉弟はなじめなかったようです。のちに、父パーヴェルが貴賎結婚で国外追放になり、皇帝はセルゲイ夫妻を姉弟の後見人としたため、父を非難し愛情を押しつける伯父に、マリアたちは縮み上がる思いをしたそうです。
9月下旬にはツァールスコエに滞在、皇女オリガやタチアナの遊び相手として子供部屋に通され、数え切れないほどのおもちゃで存分に楽しみましたが、訪れるたびにマリアは、皇帝夫妻と皇女たちの素朴な家族愛に触れ、傍目に羨ましく感じました。
「何故ならそこでは、飾り気のない平和な静けさに満ちた家庭そのものの雰囲気を味わうことができたから。」
そのあと姉弟は伯父伯母のモスクワの住まいに移って行きました。
前列中央にドミトリ、後方中央にマリア、その左にエリザヴェータ
ドミトリとセルゲイ
左ドミトリ
1905年、社会に不穏な気配がたちこめ始めた頃、セルゲイが爆殺されました。葬儀出席のために一時帰国を許された父パーヴェルと久しぶりの再会をしました。父は姉弟を引き取りたいと願い出ましたが、伯母は伯父の遺志に則りたいとして父の申し出を断りました。その後まもなく、伯母エラはプロシアに嫁いだ妹イレーネを仲介して、17歳のマリアにスウェーデンのヴィルヘルム王子との結婚を勧めてきました。
Prince Wilhelm of Sweden
Duke of Södermanland
マリアとの結婚は1908~1914年
その後結婚はしなかったが平民の愛人と暮らしていた
マリアは状況に流されるままに婚約しました。結婚に向けて準備を進めていく中で、まだ大人に成りきれないマリアには不安がときどきに湧いてきます。
「かなり自由な教育を受けたはずの王子も、自主性に欠けるという点では私と似たりよったりだった。私の周囲と瓜二つの周囲が、彼の生き方を考慮して諸事万端に決定を下していた。こんな二人が結婚したら先々どうなるのだろう?共に手にする独立と自由に二人してどう対処したらよいのだろう。この若々しい、見るからに自信に溢れた男性が、私との家庭を作ることに人生の幸せを見出す心づもりでいるのには、つくづく良心の呵責を感じた。私は彼に向かってまるで空っぽの心を差し出しているうえ、自らの自由を獲得するために、ある意味では利用しようとさえしているのだから。」
マリアにとっては、結婚への不安よりも最愛の弟ドミトリと離れねばならないことへの不安の方が大きかったようです。
1908年の結婚後、スウェーデンでは王宮でも国民にも温かく迎え入れられ、充実していたマリアでしたが、海軍の任務でほとんど家をあける王子にないがしろにされていると誤解し、次第に仲がこじれていきました。
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スウェーデンの民族衣装
Lennart王子
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二人の間に王子レナートが誕生しましたが、タイ国王の戴冠式にスウェーデン国王代理としてヴィルヘルム王子と参列するため、子供を置いて長期旅行へ。関係は修復できず、体調を崩してナポリの保養地で療養していましたが思い余ってパリの父のところへ身を寄せ、結婚解消を申し立てました。離婚成立後、マリアはロシアへ帰り、ドミトリのそばに住まいます。
1912年、エラが修道院を設立してから院内に住まうことになったため、ドミトリは皇帝一家とともに暮らしていましたが、自由を求めてその頃にはセルゲイの遺産であるイリンスコエに移っていました。
1914年、第一次大戦が始まるとドミトリも出征し、前線へ派遣されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/84/d302ba43d8f9d0a8e84098a49e241cad.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/a9/6f28573c01a363b421ab667f05ccdccd.jpg)
弟が従軍したのならば自分もと、マリアは看護婦になり戦場の病院で看護に携わり、経営もし、様々な困難に直面しても真摯に立ち向かいながら、自らの力量を次第に高めていきます。マリアは戦時下にありながら自分に「目覚め」がおとずれたことを幸福に感じていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/24/7396c4443053e147cf89dde84ef06c98.jpg)
皇族の立場を離れて、様々な階層の人々と生きるうちに、ロシアの置かれている状況、その病を知るに至り、マリアの中でますますロシアへの愛が深まっていきました。
そんな中で、ドミトリとユスーポフ公らによるラスプーチン暗殺事件が起こったのです。
マリアは弟からこの件で自分に相談がなかったことを、弟に自分が切り離されてしまったように感じて、驚くとともに悲しみました。ドミトリは姉には相談せず、伯母エラには、皇后の心理状態を図るために相談していました。
ラスプーチンの皇帝皇后への束縛ぶりはロマノフの親族たちはそれまでにも面会を重ね、説得を重ねていました。パーヴェルは皇帝の最後の叔父としての立場から、ドミトリも息子同様の寵愛を受けていた立場から、皇帝に意見具申してきたものの聞き入れられることはありませんでした。
逮捕後に自宅軟禁されたドミトリとユスーポフ公の様子が、この著作のなかで詳細に書かれています。
この一件に関するマリアの見解が記されています。
「頑愚なうえ、自分だけの殻に閉じこもってしまい世間の動静にまったく無知な皇后の差しがねによって、信頼に足る人物は全員宮廷から締め出されていた。その中で、不実と虚偽に取り巻かれた両陛下は、一般に蔓延している非難の声も聞こえないありさまだった。
国会が反抗的態度を明らさまにする一方で、議員たちは宮廷内の腐敗した秩序を言いたい放題あげつらう弁説に熱中していた。‥しかし、すべては決断を伴わない果てしない饒舌の域を出ず、一人としてその実現に手を貸そうとする者はいなかった。人々は小人物の集団になり下がっていた。‥弟はラスプーチン事件について終始沈黙を守っていたが、こうして私に話す言葉の端々から、彼の殺害に参画した心情が窺われた。彼は、怪物に心臓を一突きにされて悶えているロシアを、その元凶から解放しようとしただけでなく、国内諸般の事情に活を入れ、無気力で無定見で低級な舌戦にとどめを刺し、ひと思いに模範的行為に打って出ることで、人々の奮起を促したつもりだった。」
ドミトリはペルシアに送られる前に父と電話で一言だけ話す。これが親子の最後の会話になりました。
やがて1917年2月、皇帝は退位、臨時政府が立ち上がるも、脆弱な体制は綻び、あっという間にボリシェビキに呑み込まれ、10月革命を迎えました。マリアはツァールスコエの父の下で暮らし、異母弟ウラディミルの友人プチャーチンと結婚しました。生活はどんどん制約されて苦しくなりましたが、マリアは恋愛結婚に充足していました。やがて息子ロマンが生まれ、1918年7月18日に洗礼式をしました。奇しくもその日は、遠いシベリアの地で伯母エラやウラディミルが殺害された日でした。ウラディミルは前年3月に流刑になっています。
マリアは1919年にルーマニアへの亡命を遂げてから、父パーヴェルの処刑、伯母と異母弟の処刑、息子ロマンの病死を知ることになります。
ボリシェビキによる政権はいよいよロマノフを圧迫にかかり、父パーヴェルが連行されます。妻オリガ・パーレイが奔走し、父は戻ることが出来ましたが、マリアに及ぶ危険を避けるため、マリアと夫は我が子を夫の父母に預け、ドイツが実質占領しているウクライナに逃亡します。スウェーデン公使館発行の身分証明書を石鹸の中に隠し、身分を偽っての逃亡を数々の危機を乗り越えて奇跡のごとく成し遂げました。
その後、ドイツは帝政崩壊しウクライナにもボリシェビキが迫ることが予測され、マリアは夫とその弟と、従姉妹のルーマニア王妃の導きでルーマニアへの逃亡を目指します。スペイン風邪で発熱しながらも、王妃によって派遣された大佐に導かれ、ロシア人士官にガードされた列車に乗り込み、ベッサラビア国境へ向かいました。
「その日、汽車がベッサラビアとの国境がそこから始まるベンデレイに差しかかる頃、日はとっぷりと暮れた。何本かの空瓶に立てた蝋燭が客車内をほの暗く照らしていた。私は発熱と悪寒で、頰が焼け付くようだった。ベンデレイに到着する直前、私は警護についてくれた志願兵達に礼と別れを述べ、彼らを通してロシアに別離を告げようと思った。重い冬支度、毛皮の帽子、ライフル銃が弾丸ベルトにぶつかる音。やってきた男達は客車をいっぱいにした。彼らから、ロシアの秋の野の匂い、燃え盛る薪から上る煙の匂い、革長靴の匂い、弾薬の匂い、軍服の匂いが立ちのぼってきた。蝋燭だけの点る狭い車内で、彼らの輪郭だけがはっきりと認められた。
私は感極まって言葉が出てこなかった。見知らぬ、今まで会ったこともなかったこの男達が、急に身内よりも身近に感じられた。彼らは心情として私が後に残していくものの一部であり、同時にそのすべてを具現していた。
彼らの顔を永遠に記憶に焼きつけようと、私はテーブルの下から蝋燭を取り上げ、一人一人の顔を順番に照らしていった。
刈り込んだ髪に濃い口髭を蓄え、日焼けした顔が一瞬ごとに、一筋の細い黄色い光の中に浮かび上がった。私を永遠に彼らの心の中に留めておくためにも、その場にふさわしいことを言いたかったが、辛い、救われようのない涙が頰をとめどなく濡らすばかりで、言葉にならなかった。
こうして、私はロシアに永遠の別れを告げた。」
マリアは以降ロシア(ソ連)に戻ることは生涯ありませんでした。ロシアという大地との空間的別れであり、失われゆくロシアという国との時間的別れでもあり、自分の存在と祖先の喪失でもあり、残してきたもの全てが失われていく、それをどうすることもできない無力感‥。
それが、ただはらはらと流れ落ちる涙。
落剥してゆく感情のかたち、かもしれません。
この本はここで終わりです。亡命後のことは1932年出版の作品に書かれているのでしょう。日本語訳のものがあるのかどうか?
マリアは1932年以降、26年間生きました。亡命後のマリアの足跡を簡単に記します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/b1/820d7c8327c59ccad7f0ef2a02582fc1.jpg)
1918年ルーマニアへ
のち、パリへ
1919年息子ロマンの死
ロンドンで弟と再会、弟と夫は合わない
1920年夫と二人でパリへ
義母オルガ・パーレイや異母妹と暮らす
ドミトリもパリへ
1921年レナートにドミトリとともに会う
パリにレースを扱う店Kitmirを出店
弟の招きでココ・シャネルと取引
1923年プチャーチンと離婚、その後も経済的援助を続ける
有名なファッションデザイナーJean Patouと恋愛
1928年店を売ってロンドンへ
香水の店を出すがふるわなかった
1929年アメリカへ
ニューヨークのデパート店員
出版本が成功し大学でレクチャー
仏語、露語、西語に翻訳される
1937年ドイツのマイナウへ息子レナートを訪ねる
この年、アメリカがソ連と同じ連合で大戦に参加することに失望し、アルゼンチンへ
1942年結核療養中のドミトリがスイスのダボスで死去
1947年息子レナートがマリアを訪ねる
1949年ドイツのマイナウへ
レナートの邸宅に同居
1958年肺炎により死去、68歳
マイナウの墓所で弟ドミトリの隣に埋葬された
レナート
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元夫ヴィルヘルムと息子レナート
弟ドミトリと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/5c/205971d7e4d39b31e91fecc3ab12210e.jpg)
画像はお借りしたものです
ドミトリ・パヴロヴィチの姉マリア
Maria Pavlovna Romanova 1890~1958
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最後のロシア皇帝ニコライ2世の従妹マリア・パヴロヴナは、以前の記事に上げたドミトリ・パヴロヴィチの姉であり、ウラディミル・パーレイの異母姉です。
ロシア革命時に亡命して生き延び、1930年に「Education of a Princess」を、1932年に「A Princess in Exile」を上梓しました。そのうちの前者の日本語訳「最後のロシア大公女」(平岡緑訳)を抜粋しながら、マリアの生涯を辿ります。
「1890年にこの世に生を受けて以来、私は激動の時代を生き抜いてきた。私の最も旧い記憶に残る日々は、今こうして執筆しているニューヨーク市内のアパートメントの周囲に輝くばかりに林立する摩天楼、そしてその下に流れる膨大な交通量の織りなす世界からは、まったく想像もつかないほどかけ離れた異質のものであった。今にして思えば、あの頃私が住んでいたのはいわば中世にも似た世界だった。‥」
(序 半生記より)
1890年、当時皇帝アレクサンドル3世の弟パーヴェル大公の長女として生まれたマリアは、のちの皇帝ニコライ2世の父方の従妹であるとともに、現在のエジンバラ公フィリップ王子の母方の従姉でもあります。
1891年、妊娠7カ月のマリアの母アレクサンドラ(ギリシャ国王ゲオルギオス1世の二女)は事故から妊娠中毒症を起こし、6日間意識不明ののち早産しそのまま他界しました。
そのとき生まれた弟ドミトリはもちろん、マリアも母の記憶はなく、日に2度、父に会える他は「赤の他人に育てられてきた」と回顧しています。
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大好きな優しい父と過ごすクリスマスの、微笑ましいエピソードがあります。
「父宛の贈り物が溢れんばかりに満載されたテーブルには、想像を絶するほど珍無類な、しかし愛情のこもった品々が並んでいた。弟と私は何カ月となく針仕事に没頭しては恐ろしく悪趣味のクッション、紙挟み、ペン拭い、本の表紙掛けを縫い上げた。私達が少し年長になり、父が裁縫はもうやめてくれと懇願するようになってからは、クリスマスに備えて貯金を始め、その日が近づいてくると、勇んで店に出かけていっては非実用的なくだらない物をしこたま買いこんできた。がらくた類は、子供達からの贈物という感傷のレッテルが貼られるお蔭で屑篭行きこそ免れたが、年々衣装箪笥の暗がりでぞっとするほど無駄に増え続ける運命にあった。‥」
マリアの語り口はこのように忌憚ないストレートな調子であり、歯に衣着せぬ物言いが散りばめられています。生後数カ月の皇女オリガを、「胴体が小さい割に頭でっかちの、ひどく醜い赤子」と書いています。
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マリアとドミトリは夏の間、イリンスコエの伯父セルゲイ夫妻の下で過ごすのが常でした。イリンスコエでは近隣の知人宅にお茶に呼ばれることがあり、ユスーポフ家には度々招かれ、少し年上のニコライとフェリクスらとともに過ごしていました。
子供のいない伯父は二人に愛情を傾けてくれましたが、伯母エラ(アレクサンドラ皇后の実姉エリザヴェータ)は姉弟に無関心であり、冷酷であり、その言葉に傷つけられることが度々あったようです。しかし、当時ヨーロッパで最も美しいプリンセスと言われていたエラの美しさは、マリアも驚嘆しつつ認めています。夫妻はともに自尊心が強く、内気で冷淡、柔軟性に欠ける一方、特にセルゲイは独占欲が強く、姉弟はなじめなかったようです。のちに、父パーヴェルが貴賎結婚で国外追放になり、皇帝はセルゲイ夫妻を姉弟の後見人としたため、父を非難し愛情を押しつける伯父に、マリアたちは縮み上がる思いをしたそうです。
9月下旬にはツァールスコエに滞在、皇女オリガやタチアナの遊び相手として子供部屋に通され、数え切れないほどのおもちゃで存分に楽しみましたが、訪れるたびにマリアは、皇帝夫妻と皇女たちの素朴な家族愛に触れ、傍目に羨ましく感じました。
「何故ならそこでは、飾り気のない平和な静けさに満ちた家庭そのものの雰囲気を味わうことができたから。」
そのあと姉弟は伯父伯母のモスクワの住まいに移って行きました。
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1905年、社会に不穏な気配がたちこめ始めた頃、セルゲイが爆殺されました。葬儀出席のために一時帰国を許された父パーヴェルと久しぶりの再会をしました。父は姉弟を引き取りたいと願い出ましたが、伯母は伯父の遺志に則りたいとして父の申し出を断りました。その後まもなく、伯母エラはプロシアに嫁いだ妹イレーネを仲介して、17歳のマリアにスウェーデンのヴィルヘルム王子との結婚を勧めてきました。
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Duke of Södermanland
マリアとの結婚は1908~1914年
その後結婚はしなかったが平民の愛人と暮らしていた
マリアは状況に流されるままに婚約しました。結婚に向けて準備を進めていく中で、まだ大人に成りきれないマリアには不安がときどきに湧いてきます。
「かなり自由な教育を受けたはずの王子も、自主性に欠けるという点では私と似たりよったりだった。私の周囲と瓜二つの周囲が、彼の生き方を考慮して諸事万端に決定を下していた。こんな二人が結婚したら先々どうなるのだろう?共に手にする独立と自由に二人してどう対処したらよいのだろう。この若々しい、見るからに自信に溢れた男性が、私との家庭を作ることに人生の幸せを見出す心づもりでいるのには、つくづく良心の呵責を感じた。私は彼に向かってまるで空っぽの心を差し出しているうえ、自らの自由を獲得するために、ある意味では利用しようとさえしているのだから。」
マリアにとっては、結婚への不安よりも最愛の弟ドミトリと離れねばならないことへの不安の方が大きかったようです。
1908年の結婚後、スウェーデンでは王宮でも国民にも温かく迎え入れられ、充実していたマリアでしたが、海軍の任務でほとんど家をあける王子にないがしろにされていると誤解し、次第に仲がこじれていきました。
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二人の間に王子レナートが誕生しましたが、タイ国王の戴冠式にスウェーデン国王代理としてヴィルヘルム王子と参列するため、子供を置いて長期旅行へ。関係は修復できず、体調を崩してナポリの保養地で療養していましたが思い余ってパリの父のところへ身を寄せ、結婚解消を申し立てました。離婚成立後、マリアはロシアへ帰り、ドミトリのそばに住まいます。
1912年、エラが修道院を設立してから院内に住まうことになったため、ドミトリは皇帝一家とともに暮らしていましたが、自由を求めてその頃にはセルゲイの遺産であるイリンスコエに移っていました。
1914年、第一次大戦が始まるとドミトリも出征し、前線へ派遣されました。
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弟が従軍したのならば自分もと、マリアは看護婦になり戦場の病院で看護に携わり、経営もし、様々な困難に直面しても真摯に立ち向かいながら、自らの力量を次第に高めていきます。マリアは戦時下にありながら自分に「目覚め」がおとずれたことを幸福に感じていました。
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皇族の立場を離れて、様々な階層の人々と生きるうちに、ロシアの置かれている状況、その病を知るに至り、マリアの中でますますロシアへの愛が深まっていきました。
そんな中で、ドミトリとユスーポフ公らによるラスプーチン暗殺事件が起こったのです。
マリアは弟からこの件で自分に相談がなかったことを、弟に自分が切り離されてしまったように感じて、驚くとともに悲しみました。ドミトリは姉には相談せず、伯母エラには、皇后の心理状態を図るために相談していました。
ラスプーチンの皇帝皇后への束縛ぶりはロマノフの親族たちはそれまでにも面会を重ね、説得を重ねていました。パーヴェルは皇帝の最後の叔父としての立場から、ドミトリも息子同様の寵愛を受けていた立場から、皇帝に意見具申してきたものの聞き入れられることはありませんでした。
逮捕後に自宅軟禁されたドミトリとユスーポフ公の様子が、この著作のなかで詳細に書かれています。
この一件に関するマリアの見解が記されています。
「頑愚なうえ、自分だけの殻に閉じこもってしまい世間の動静にまったく無知な皇后の差しがねによって、信頼に足る人物は全員宮廷から締め出されていた。その中で、不実と虚偽に取り巻かれた両陛下は、一般に蔓延している非難の声も聞こえないありさまだった。
国会が反抗的態度を明らさまにする一方で、議員たちは宮廷内の腐敗した秩序を言いたい放題あげつらう弁説に熱中していた。‥しかし、すべては決断を伴わない果てしない饒舌の域を出ず、一人としてその実現に手を貸そうとする者はいなかった。人々は小人物の集団になり下がっていた。‥弟はラスプーチン事件について終始沈黙を守っていたが、こうして私に話す言葉の端々から、彼の殺害に参画した心情が窺われた。彼は、怪物に心臓を一突きにされて悶えているロシアを、その元凶から解放しようとしただけでなく、国内諸般の事情に活を入れ、無気力で無定見で低級な舌戦にとどめを刺し、ひと思いに模範的行為に打って出ることで、人々の奮起を促したつもりだった。」
ドミトリはペルシアに送られる前に父と電話で一言だけ話す。これが親子の最後の会話になりました。
やがて1917年2月、皇帝は退位、臨時政府が立ち上がるも、脆弱な体制は綻び、あっという間にボリシェビキに呑み込まれ、10月革命を迎えました。マリアはツァールスコエの父の下で暮らし、異母弟ウラディミルの友人プチャーチンと結婚しました。生活はどんどん制約されて苦しくなりましたが、マリアは恋愛結婚に充足していました。やがて息子ロマンが生まれ、1918年7月18日に洗礼式をしました。奇しくもその日は、遠いシベリアの地で伯母エラやウラディミルが殺害された日でした。ウラディミルは前年3月に流刑になっています。
マリアは1919年にルーマニアへの亡命を遂げてから、父パーヴェルの処刑、伯母と異母弟の処刑、息子ロマンの病死を知ることになります。
ボリシェビキによる政権はいよいよロマノフを圧迫にかかり、父パーヴェルが連行されます。妻オリガ・パーレイが奔走し、父は戻ることが出来ましたが、マリアに及ぶ危険を避けるため、マリアと夫は我が子を夫の父母に預け、ドイツが実質占領しているウクライナに逃亡します。スウェーデン公使館発行の身分証明書を石鹸の中に隠し、身分を偽っての逃亡を数々の危機を乗り越えて奇跡のごとく成し遂げました。
その後、ドイツは帝政崩壊しウクライナにもボリシェビキが迫ることが予測され、マリアは夫とその弟と、従姉妹のルーマニア王妃の導きでルーマニアへの逃亡を目指します。スペイン風邪で発熱しながらも、王妃によって派遣された大佐に導かれ、ロシア人士官にガードされた列車に乗り込み、ベッサラビア国境へ向かいました。
「その日、汽車がベッサラビアとの国境がそこから始まるベンデレイに差しかかる頃、日はとっぷりと暮れた。何本かの空瓶に立てた蝋燭が客車内をほの暗く照らしていた。私は発熱と悪寒で、頰が焼け付くようだった。ベンデレイに到着する直前、私は警護についてくれた志願兵達に礼と別れを述べ、彼らを通してロシアに別離を告げようと思った。重い冬支度、毛皮の帽子、ライフル銃が弾丸ベルトにぶつかる音。やってきた男達は客車をいっぱいにした。彼らから、ロシアの秋の野の匂い、燃え盛る薪から上る煙の匂い、革長靴の匂い、弾薬の匂い、軍服の匂いが立ちのぼってきた。蝋燭だけの点る狭い車内で、彼らの輪郭だけがはっきりと認められた。
私は感極まって言葉が出てこなかった。見知らぬ、今まで会ったこともなかったこの男達が、急に身内よりも身近に感じられた。彼らは心情として私が後に残していくものの一部であり、同時にそのすべてを具現していた。
彼らの顔を永遠に記憶に焼きつけようと、私はテーブルの下から蝋燭を取り上げ、一人一人の顔を順番に照らしていった。
刈り込んだ髪に濃い口髭を蓄え、日焼けした顔が一瞬ごとに、一筋の細い黄色い光の中に浮かび上がった。私を永遠に彼らの心の中に留めておくためにも、その場にふさわしいことを言いたかったが、辛い、救われようのない涙が頰をとめどなく濡らすばかりで、言葉にならなかった。
こうして、私はロシアに永遠の別れを告げた。」
マリアは以降ロシア(ソ連)に戻ることは生涯ありませんでした。ロシアという大地との空間的別れであり、失われゆくロシアという国との時間的別れでもあり、自分の存在と祖先の喪失でもあり、残してきたもの全てが失われていく、それをどうすることもできない無力感‥。
それが、ただはらはらと流れ落ちる涙。
落剥してゆく感情のかたち、かもしれません。
この本はここで終わりです。亡命後のことは1932年出版の作品に書かれているのでしょう。日本語訳のものがあるのかどうか?
マリアは1932年以降、26年間生きました。亡命後のマリアの足跡を簡単に記します。
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1918年ルーマニアへ
のち、パリへ
1919年息子ロマンの死
ロンドンで弟と再会、弟と夫は合わない
1920年夫と二人でパリへ
義母オルガ・パーレイや異母妹と暮らす
ドミトリもパリへ
1921年レナートにドミトリとともに会う
パリにレースを扱う店Kitmirを出店
弟の招きでココ・シャネルと取引
1923年プチャーチンと離婚、その後も経済的援助を続ける
有名なファッションデザイナーJean Patouと恋愛
1928年店を売ってロンドンへ
香水の店を出すがふるわなかった
1929年アメリカへ
ニューヨークのデパート店員
出版本が成功し大学でレクチャー
仏語、露語、西語に翻訳される
1937年ドイツのマイナウへ息子レナートを訪ねる
この年、アメリカがソ連と同じ連合で大戦に参加することに失望し、アルゼンチンへ
1942年結核療養中のドミトリがスイスのダボスで死去
1947年息子レナートがマリアを訪ねる
1949年ドイツのマイナウへ
レナートの邸宅に同居
1958年肺炎により死去、68歳
マイナウの墓所で弟ドミトリの隣に埋葬された
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元夫ヴィルヘルムと息子レナート
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