ロシア皇帝一家殺害の生き残り?
皇女アナスタシアの詐称者アンダーソンと
皇室関係者の係争
Anna Anderson/Anastasia Monahan
Anna Tchaikovsky
Franziska Schauzkowska
1896~1984
最も有名なアナスタシア詐称者 アンナ・アンダーソン
1917年10月、ボリシェビキは臨時政府を倒すと、かねてから実行の機会をうかがっていたニコライ2世元皇帝一家及びロマノフ家のロシア在住者を処刑する計画に着手し始める。
レーニンは1918年6月~7月の処刑実行後、皇帝の銃殺のみ公表し、ミハイル大公や他のロマノフ血縁者は逃亡、皇帝の子女及び皇后は安全な場所に避難させていると虚偽の発表をした。
その後、ドイツが捕虜交換を希望し皇后らの安否確認を求めるが、突然応じなくなり、交渉は立ち消えとなっている。皇后、皇女、皇太子は戦後も不明のまま、怪しい目撃証言なども聞かれたが、レーニンの(虚偽)発表を信じる限りどこかに生存している可能性も残されていた。
一方、暗殺の数日後に白衛軍に制圧されたエカテリンブルグで、イパチェフハウスやガニナ・ヤマと呼ばれる坑道の縦穴(最初の埋葬場所)を調査した法務調査官ニコライ・ソコロフは、一家全員が殺害されていると推測する他なしと結論し、証拠物品として焚き火跡の骨や灰、ハウスの遺留物をトランクに詰め、皇太后に差し出そうとしたが、生存を信じ続けるマリア皇太后は頑として受取を拒否した。ソコロフはフランスに移った後、1929年に『ロシア皇帝一家暗殺に関する司法調査』と題する本を執筆し、刊行した。
焚き火跡でのソコロフ
実際はこの下に皇女一人と皇太子が埋められていたにもかかわらずソコロフは考え及ばず地下に手をつけなかった。しかしここで埋められたままだったことで遺体を今に残すことができたともいえる。でなければソ連時代に遺骨は意図的に消失されていただろう。
その一方で、あらゆる場所で数十名の偽アレクセイや偽アナスタシアらが名乗りを上げた。ほとんどは簡単に見破られる詐称者ばかりであったが、ロマノフの親族を震撼させ、生涯、詐称を証明できなかったのがアンナ・アンダーソンであった。
舞台はベルリンから始まる。
1920年、ベルリンのラントヴェア運河に身を投げた女性が救助され入院していたが、彼女は自分の身上を一切語らなかった。体や頭には、身投げによるものではない無数の傷があった。ロシア訛り風のドイツ語を話した。
1922年のある日、彼女は他の入院患者に、皇帝一家の写真のタチアナを指し、自分に似ていないかと聞き、自分はロシア皇女であると打ち明けた。彼女は過去の経緯をこう騙っている。
殺害の後、自分はまだ息があった。それに気づいたポーランド出身の警備兵アレクサンダー・チャイコフスキーが家に連れ帰り、すぐに家族とともにルーマニアのブカレストに逃亡した。その過程で意識不明のうちに犯され、妊娠し、男子を出産。現地のカトリック教会にて結婚。間もなく、チャイコフスキーは路上の喧嘩で死亡。子を家族の者に預け、ドイツのイレーネ王女(アレクサンドラ皇后の姉)に援助を願い出るべく、ベルリンへ向かったが、なぜか門番も居らず、王女に会えず失望し、運河に身を投げる‥。
(ルーマニアに居ながらなぜ顔見知りのルーマニア王妃マリアを頼らず、遥か遠いベルリンを目指したか?
マリア王妃ならばイレーネ叔母より寛容に今の状況の自分を受け入れる度量のあることを、アナスタシアならばわかっていたはず。
と、皇女オリガ・アレクサンドロヴナは分析している。)
彼女はしばらく、自分をチャイコフスキー夫人と名乗るようになる。実際のところ、イパチェフハウスの警備兵の名簿にアレクサンダー・チャイコフスキーなる名はなく、ルーマニアの教会で挙式した者のリストにも名はなく、ブカレストの傷害事件の記録にも名はなかった。
前列左から イレーネ、アレクサンドラ、エリザベータ
後列左から エルンスト、ヴィクトリア
この話が次第に周囲に知れ、皇室関係者が真偽を見極めるため面会に訪れるようになる。
以下、経時的に各皇室関係者の見解を中心に追う。
1922年
Captain Nicholas von Schwabe
Zinaida Torstoy(皇后の友人)
Sophie Baxhoeveden伯爵夫人(皇后の従者)
Baxhoeveden伯爵夫人(右)と皇后の従者であり親友であるAnna Vurvova
面会中チャイコフスキー夫人は苛立ち、毛布で顔を半分隠していたが、一瞥した伯爵夫人に「タチアナ皇女はこんなに小柄じゃない」と否定された。
そのためか、後日になって、自分は自分がタチアナとは言っていない、アナスタシアだと言い出した。それを確かめるために面会に来たのはイレーネ、セシリアである。
Irene of Hesse by Rhine
(アナスタシアの伯母)
チャイコフスキー夫人は興奮して逃げ惑い、精神膠着状態で質問には何も答えなかった。イレーネは、似てないと感じた。
1925年
Cecilie of Prussia(元ドイツ皇太子妃)
膠着状態で会話不成立。
皇帝や皇太后に似ているが皇后に似ていない。
セシリア皇太子妃
Sigismund of Hesse by Rhine(イレーネの二男/皇女の従兄)
コスタ・リカ在住
アナスタシア本人でなければ答えられないと思われる18の質問状を送付
その回答により本人と断定可能
ジギスムント
皇帝一家の従者で、側近く仕えていた者たちも面会に訪れた。オルガ・アレクサンドロヴナに依頼され、スイスから面会に訪れたのは、皇太子や皇女の仏語教師であり、また皇太子の教育係も兼ねていたPierre Gilliardとその妻で皇女付きの看護師だったAlexandra Tegrevaだった。
Pierre Gilliard(皇帝子女の家庭教師)
Alexandra Tegreva(皇女らの侍女)
二人が訪れた時、チャイコフスキー夫人は病で瀕死状態であり、会話はもちろん不可能だった。テグレヴァは、外反母趾だったアナスタシアと同じ足の形であることを確認した。あまりに病状が悪いため、手術の済んだ3ヶ月後に再び訪れ、ジリャールが会話を求めたが、彼女は憤激して会話にならなかった。ジリャールはアナスタシアと認めるに至らず、妻も同意見に。
テグレヴァとアレクセイ 後方にジリャール
ジリャールとアレクセイ
ジリャールは皇女や皇太子と一緒に収まっている写真は数多い。皇帝一家に流刑地まで付き添ったが、エカテリンブルグではチェカに付き添いを認められなかった。氏名から外国籍の者として処刑を免れている。テグレヴァはその点、危険な立場であったがジリャールと親密だったことが考慮され、事なきを得た。
その午後、訪れたのはオリガである。
GD Olga Alexandrovna
(ニコライの妹/皇女の叔母)
皇太后マリアはニコライや家族の生存に望みを捨てていなかったため、生き残りの者としてのアナスタシアに会うつもりはなく、身辺の者達にも会うのを禁じた。その禁をおかして、皇太后の二女であるオルガは一縷の望みを抱いてチャイコフスキー夫人に会いに来る。かつて心優しいオルガ叔母は、皇后の意向で宮殿に閉じこもりがちな皇女たちを街に連れ出し、外の空気に触れさせてあげていた。気取らず皇族らしくないオルガは、農民らに気軽に陽気に話しかける術も心得ていたと、マリア・パヴロヴナも著書に記している。
面会を経て、アナスタシアではないと確信しながらも、チャイコフスキー夫人に強く同情し、度々会いに行ったり、手紙を送り、贈り物もした。
アナスタシアとオリガ皇女
剽軽者のアナスタシアとオリガは通じるところがある
オリガ・アレクサンドロヴナは最初の不幸な結婚の後、平民と再婚し男子2人、TikhonとGuriを得た。皇帝一家のミトコンドリアDNA鑑定への協力を当初ティクホンに願い出たところ(当時グリはすでに他界)協力を再三拒否。自分がロマノフの血を引いていないことを確かめる魂胆だろう、と疑ってきたので交渉を断念した経緯がある。
Glev Botkin(皇室関係者/遊び相手)
Tatiana melnik(同上)
皇女らをよく知る者として、幼い頃遊び相手になっていた皇帝付き医師ボトキンの息子Gleb Botkinと娘Tatiana Botkinaがいる。グレブは子供の頃から絵が上手く、皇女や皇太子にボトキン医師を通して絵をせがまれた。ユーモラスな動物の線画が皆に大好評だった。ボトキン医師はイパチェフハウスで皇帝一家と運命をともにした。タチアナとグレブはトボリスクまで同行したが、エカテリンブルグへの同行は許されず、皇帝皇后マリアとともに発つ父とはそれが永遠の別れになった。父の暗殺を知った彼らは日本を経て、最終的にアメリカに亡命した。
二人はヨーロッパ滞在中のチャイコフスキー夫人を訪ね、アナスタシアであると確信している。グレブが訪ねるとき、チャイコフスキー夫人はグレブが面白い動物のイラストを持ってきているか?と期待していたと知り、すっかり信じた。タチアナは、夫人は事件のショックによりロシア語への恐怖、時間感覚、会話能力を失っているだけだと理解した。
ボトキン医師とタチアナ、グレブ
グレブ・ボトキン
グレブは後年、著作家兼挿絵画家として活躍
1927年
Ernst Ludwig of Hesse by Rhine
チャイコフスキー夫人の最大の敵は、元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(暗殺された皇后アレクサンドラとエリザヴェータ大公女の実兄)だった。
いまいましい詐称者の化けの皮を剥ぐべく、賛同したジリャールに働きかけてチャイコフスキー夫人を非難する記録を発表させ、さらに莫大な資金を投入して私立探偵を雇い、アナスタシアではないことを確実に実証するために、チャイコフスキー夫人の正体を調べ出し、公表した。
エルンスト・ルートヴィヒ大公"エルニー伯父さん"とオリガ、アレクセイ
クリミアのリバディア宮殿にて
アンナ・チャイコフスキーの正体は、ポーランド出身の工場労働者フランチスカ・シャンツコフスカであるとあばき、新聞に発表させた。のちのDNA鑑定でこのスクープが正しかった事は証明されたが、そのときにはエルンストもアンナも既に他界している。
フランチスカは第一次大戦中の1916年、武器工場で働いていたが誤って手榴弾を床に落とし、同僚1人を死亡させ、自身も重傷を負った。1920年に病院から姿を消し、行方不明になっていた。
フランチスカの兄フェリクスが面会し、即座にフランチスカ本人であることを認めたにもかかわらず、夫人と会話した後になって取り消した。
アンナ・アンダーソン(チャイコフスキー夫人)
写真の前歯は入れ歯で、普段は合わないので外し、人と会うときだけ着ける
そのためか人と会うときは扇子などで口元を隠していた
Felix Yusupov
(皇室と親交深い有力貴族)
ユスーポフは辛辣なコメントを残している。
"I claim categorically that she is not Anastasia Nicolaievna, but just an adventuress, a sick hysteric and a frightful playactress. I simply cannot understand how anyone can be in doubt of this. If you had seen her, I am convinced that you would recoil in horror at the thought that this frightful creature could be a daughter of our Tsar."
ユスーポフと妻イリナ(クセニアの娘、ニコライの姪)
彼らの孫娘イリナ・シェレメーティエフがニコライのミトコンドリアDNA検査に協力してくれたおかげで身元の解明に至った
1928年
ヨーロッパで立場を不利にしつつあるチャイコフスキー夫人を案じて、ボトキンはアメリカに渡るように勧める。
更にボトキンは行動を起こす。
当時、皇帝の隠し財産がイングランド銀行に眠っているという噂が流布した。生前の皇后や皇帝の言葉から、それらはいざという時の娘たちの嫁入り資金なのでは、と思われていた。
ボトキンは「アナスタシアのため」、チャイコフスキー夫人の委任状を手に法律家をイギリスへ、相続の権利を主張するために派遣した。
Andrei Vladimirovich
(ニコライの従兄弟)
チャイコフスキー夫人はアメリカへ向かう途中のパリで皇位請求者キリル・ウラディミロヴィチの弟アンドレイと会い、アンドレイは熱烈な支援者となった。
アンドレイ・ウラディミロヴィチは、かつて結婚前のニコライの愛人であったバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤを叔父セルゲイと争い、結婚を勝ち取り、どちらの子がわからない息子を認知した。
チャイコフスキー夫人と対面したマチルダは、アナスタシアとは面識はないが夫人の眼にニコライの眼差しを覚え、彼女はアナスタシアに違いないと思った
Xenia Leed(元ロシア皇族)
アメリカに渡ったチャイコフスキー夫人はボトキンの口添えでアナスタシア支援を申し出た、もとロシア皇族でアメリカの富豪と結婚したクセニア・リードの下で暮らす。しかしチャイコフスキー夫人はいろいろなことで面倒事を起こし、クセニアと揉めることとなった。
クセニア・リード
ニューヨークでのチャイコフスキー夫人は、作曲家兼演奏家のセルゲイ・ラフマニノフによって、NY Grand City Hotelのスイートルームを提供された。このとき、面倒な取材を受けないようにするためにAndersonの偽名を使う事を勧められ、以後彼女はチャイコフスキーの名を使わず、Anna Andersonを名乗るようになった。アンダーソンは一時期、ニューヨーク社交界でもてはやされたが、次第にその奇行が目立ち始め、精神病院に強制入院させられた。退院後再びドイツへ戻った。
1928年10月、アナスタシアには最後まで背を向けたまま、皇太后マリアが亡くなった。
その直後、ロマノフ家12家と元ヘッセン大公家のエルンスト、イリナ、ヴィクトリアらの署名による『ロマノフ家の宣言』が発表された。その内容は、空に浮いていた皇帝一家の安否について、『全員が暗殺されたことを認める』というものだった。
宣言者は、
クセニア・アレクサンドロヴナ大公女
オリガ・アレクサンドロヴナ大公女
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公(クセニアの夫)
アンドレイ公
フョードル公
ニキータ公
ドミトリ公
ロスチラフ公
ヴァシーリー公(以上クセニアの男子6名)
他、従兄弟2名
クセニアの家族 イリナとその下に6人の男子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/fa/3d82366fd2e4d9e3350d6057fdc0bf18.jpg)
1917年当時クリミアに逃れて助かったロマノフの者たち
つまりこれは、頑なに暗殺を認めないままにしていたマリア皇太后の意向に180度相反する内容の宣言であり、皇太后の死後24時間と経たぬうちに宣言されたのだった。この宣言は、皇太后の遺産のアナスタシア詐称者への相続をシャットアウトするものになる。ボトキンは憤慨し、抗議文をクセニア宛に送った。宣言は貪欲で破廉恥、醜い陰謀、アナスタシア皇女に対する迫害であり、皇帝一家を暗殺した犯罪者以上に理解に苦しむ、と、その筆は辛辣を極めた。
他方で、ボトキンが調査に送り出した法律家は私財まで投じて隠し財産を探し求めたが、手掛りを得られぬまま果てた。
銀行は決して預金の額はおろか、預金の有無も公表しない。しかし、のちに元イングランド銀行重役が在職中にそのような預金について、存在したとは思われないとの談があり、どうやらイングランド銀行にあった資金は第一次大戦中に引き出され、病院や病院列車の建設に費消されたもようだという。
若き日のマリア・フョードロヴナ ニコライを背負っている
青年は弟ヴァルデマール(デンマーク王子)
王子はマリアが禁じているにも関わらずアンダーソンを支援した
のちにアナスタシアであると立証された場合に王室がその無慈悲を非難されないために行ったという
皇帝関係者でアンナ・アンダーソンに最後に面会したのは、皇后の友人Lili Dehnと皇女皇太子の英語家庭教師Chales Sydney Gibbsであった。
Lili Dehn
Chales Sydney Gibbs
「彼女がアナスタシアだというなら、私は中国人だよ」と友人に話したという。
リリ・デーン
ラスプーチン、アンナ・ヴュルヴォワと
アレクセイの教師陣 右から2人目がギッブス
ギッブスとアナスタシア
皇帝一家と親密だったギッブスは、一家の死に強く打ちひしがれ、帰国後ロンドンで剃髪して正教に改宗、生涯を祈りに捧げた。
1938年
シャンツコフスカの身内の姉2人兄2人との面会。これはナチスにより仕組まれた面会であった。自称アナスタシアが偽りであることが判明すれば彼女は逮捕されることになる。姉の1人は認めようとしたが他の兄弟達に止められた。彼女には彼女の今の生き方があるということを受けとめ、「確認できなかった」ということで締めくくられた。
これ以降、アナスタシアかどうかを確かめる面接は公式には行われなかった。
このあと、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。アンダーソンは支援者の庇護を受けながらドイツ内を転々として生き延びた。
話は時を少し戻る。
1932年
アンダーソンはヘッセンの親族間の小規模な不動産相続に際して、自分の権利を主張し、訴訟を起こした。これは先のロマノフ家の宣言に対する報復だろうか。裁判は第二次世界大戦を挟み、1970年に結審した。反証したのはもちろんエルンストのいる元ヘッセン大公家からだが、途中でエルンストは亡くなり、息子のルートヴィヒが後を継いだ。この訴訟に金銭的援助をしたのがイギリスのマウントバッテン卿であった。
ルイス・マウントバッテンはアレクサンドラやエルンストの甥にあたり、さらに英国女王の又従兄、王配フィリップの叔父でもあり、第二次世界大戦で活躍したイギリス海軍元帥、元インド総督である。ロシアの皇女たちは彼の幼き日の遊び相手であったし、アナスタシアの姉マリアは彼にとって特別な存在であり続けた。マウントバッテンは亡くなった妻の莫大な遺産を惜しみなく裁判費用に注ぎ込んだ。
マウントバッテンはアンダーソンに面会したことはついぞなかったが、あんな不埒な狂人まがいの人物が自分の従姉妹であるなど、到底受け容れられなかった。
ルイス・マウントバッテン
しかしながら裁判はアンダーソンに有利な証言が次々に展開された。そのほとんどが、筆跡学者、人類学者、犯罪学者らによる医学的、科学的なものであった。
同一人物か一卵性双生児にしかありえない一致だという
結果、裁判はアンダーソンがアナスタシアであることを立証できなかったという判断で終わった。つまり、アナスタシアではないという立証もできなかった。
そののち、アンダーソンはヨーロッパでは次第に話題に上らなくなっていった。
アメリカに戻ったアンダーソンはどんどん奇矯な人になっていった。ビザのために、ボトキンの知人でアンダーソンより20歳年下の裕福な支援者マナハンと結婚する。マナハンは、自分はロシア皇帝の義理の息子だとはしゃいだ。彼らは非常に沢山の犬猫を飼い、死んだ猫は暖炉で火葬し、周囲の住人から悪臭の苦情を受けていた。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/ab/6ec287ed25d7d43556ece6225cf61e27.jpg)
1984年2月、アナスタシア・マナハンは肺炎で亡くなったが、とうとうその正体は明かされないままだった。
1920年に運河で救われてからその死まで、アンダーソンは1度も自ら働くことなく、全てその時々に誰かに支援を受けて暮らしていた。死後その遺体は、一時身を寄せていたことのあるドイツのSeeon城内に埋葬された。
すべての決着は、1989年に最初に発見された皇帝一家の遺骸からのDNA鑑定により、アンナ・アンダーソンが皇帝一家の型と一致しない、かつ、現存するシャンツコフスカの子孫とミトコンドリアDNA型が一致することが先に判明し、二つ目の墓の発見で、残る1人の皇女(マリアかアナスタシアかの確定はできていない)も発見されたことにより、皇帝一家で1918年以降を生き延びた者は誰もいなかったことが判明した。
アンダーソン存命中から、アナスタシアをロマンチックに取り上げた映画が幾つも制作されていたが、それらの作品は単に空想の世界の夢物語であり続ける方が望ましいものと思う。
Grand Duchess Anastasia Nikolaevna Romanova
1901~1918
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/8d/5930b7d07b333078bc20ab03c626b8cc.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/ba/20d628b790c2ec05217521751fa937a3.jpg)
変顔が面白いアナスタシア!
つられてマリアやアレクセイもおかしな顔に‥
上の手紙はアナスタシアからルイス・マウントバッテンへ宛てたもの。アナスタシアは英語が苦手で、ドイツ語風に発音し、文法はマスターできてなかった。母への手紙にも表記ミスが目立った。他方、アンダーソンの英語は完璧だったという。アンダーソンはロシア語をしゃべらなかったが、聞いて理解することはできていたといわれている。フランス語で応じることもできたらしい。
皇女アナスタシアの詐称者アンダーソンと
皇室関係者の係争
Anna Anderson/Anastasia Monahan
Anna Tchaikovsky
Franziska Schauzkowska
1896~1984
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/0a/d67749a67b3bea49e67675e4d2a34c90.jpg)
1917年10月、ボリシェビキは臨時政府を倒すと、かねてから実行の機会をうかがっていたニコライ2世元皇帝一家及びロマノフ家のロシア在住者を処刑する計画に着手し始める。
レーニンは1918年6月~7月の処刑実行後、皇帝の銃殺のみ公表し、ミハイル大公や他のロマノフ血縁者は逃亡、皇帝の子女及び皇后は安全な場所に避難させていると虚偽の発表をした。
その後、ドイツが捕虜交換を希望し皇后らの安否確認を求めるが、突然応じなくなり、交渉は立ち消えとなっている。皇后、皇女、皇太子は戦後も不明のまま、怪しい目撃証言なども聞かれたが、レーニンの(虚偽)発表を信じる限りどこかに生存している可能性も残されていた。
一方、暗殺の数日後に白衛軍に制圧されたエカテリンブルグで、イパチェフハウスやガニナ・ヤマと呼ばれる坑道の縦穴(最初の埋葬場所)を調査した法務調査官ニコライ・ソコロフは、一家全員が殺害されていると推測する他なしと結論し、証拠物品として焚き火跡の骨や灰、ハウスの遺留物をトランクに詰め、皇太后に差し出そうとしたが、生存を信じ続けるマリア皇太后は頑として受取を拒否した。ソコロフはフランスに移った後、1929年に『ロシア皇帝一家暗殺に関する司法調査』と題する本を執筆し、刊行した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/f3/43a6a6841b7014f8cca6a84efe62f5c5.jpg)
実際はこの下に皇女一人と皇太子が埋められていたにもかかわらずソコロフは考え及ばず地下に手をつけなかった。しかしここで埋められたままだったことで遺体を今に残すことができたともいえる。でなければソ連時代に遺骨は意図的に消失されていただろう。
その一方で、あらゆる場所で数十名の偽アレクセイや偽アナスタシアらが名乗りを上げた。ほとんどは簡単に見破られる詐称者ばかりであったが、ロマノフの親族を震撼させ、生涯、詐称を証明できなかったのがアンナ・アンダーソンであった。
舞台はベルリンから始まる。
1920年、ベルリンのラントヴェア運河に身を投げた女性が救助され入院していたが、彼女は自分の身上を一切語らなかった。体や頭には、身投げによるものではない無数の傷があった。ロシア訛り風のドイツ語を話した。
1922年のある日、彼女は他の入院患者に、皇帝一家の写真のタチアナを指し、自分に似ていないかと聞き、自分はロシア皇女であると打ち明けた。彼女は過去の経緯をこう騙っている。
殺害の後、自分はまだ息があった。それに気づいたポーランド出身の警備兵アレクサンダー・チャイコフスキーが家に連れ帰り、すぐに家族とともにルーマニアのブカレストに逃亡した。その過程で意識不明のうちに犯され、妊娠し、男子を出産。現地のカトリック教会にて結婚。間もなく、チャイコフスキーは路上の喧嘩で死亡。子を家族の者に預け、ドイツのイレーネ王女(アレクサンドラ皇后の姉)に援助を願い出るべく、ベルリンへ向かったが、なぜか門番も居らず、王女に会えず失望し、運河に身を投げる‥。
(ルーマニアに居ながらなぜ顔見知りのルーマニア王妃マリアを頼らず、遥か遠いベルリンを目指したか?
マリア王妃ならばイレーネ叔母より寛容に今の状況の自分を受け入れる度量のあることを、アナスタシアならばわかっていたはず。
と、皇女オリガ・アレクサンドロヴナは分析している。)
彼女はしばらく、自分をチャイコフスキー夫人と名乗るようになる。実際のところ、イパチェフハウスの警備兵の名簿にアレクサンダー・チャイコフスキーなる名はなく、ルーマニアの教会で挙式した者のリストにも名はなく、ブカレストの傷害事件の記録にも名はなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/e8/8b44a25aa9f7661273e4a7d643d412e6.jpg)
後列左から エルンスト、ヴィクトリア
この話が次第に周囲に知れ、皇室関係者が真偽を見極めるため面会に訪れるようになる。
以下、経時的に各皇室関係者の見解を中心に追う。
1922年
Captain Nicholas von Schwabe
→タチアナと認める
Zinaida Torstoy(皇后の友人)
→タチアナではない
Sophie Baxhoeveden伯爵夫人(皇后の従者)
→タチアナではない
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/5f/9db55b69264f325a4e14f7c6acc630b4.jpg)
面会中チャイコフスキー夫人は苛立ち、毛布で顔を半分隠していたが、一瞥した伯爵夫人に「タチアナ皇女はこんなに小柄じゃない」と否定された。
そのためか、後日になって、自分は自分がタチアナとは言っていない、アナスタシアだと言い出した。それを確かめるために面会に来たのはイレーネ、セシリアである。
Irene of Hesse by Rhine
(アナスタシアの伯母)
チャイコフスキー夫人は興奮して逃げ惑い、精神膠着状態で質問には何も答えなかった。イレーネは、似てないと感じた。
→アナスタシアではない
1925年
Cecilie of Prussia(元ドイツ皇太子妃)
膠着状態で会話不成立。
皇帝や皇太后に似ているが皇后に似ていない。
→アナスタシアではない
ただしのちに考え直し皇后にも似ていたとして1952年アナスタシアと認め、先生供述書にサインするが、息子ルイス・フェルディナント夫妻は強く反対した。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/26/f95a6a542a6f5127f9301a4edc899b97.jpg)
Sigismund of Hesse by Rhine(イレーネの二男/皇女の従兄)
コスタ・リカ在住
アナスタシア本人でなければ答えられないと思われる18の質問状を送付
その回答により本人と断定可能
→アナスタシアと認める
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/92/969a85b1bf38142393400d2a464441d2.jpg)
皇帝一家の従者で、側近く仕えていた者たちも面会に訪れた。オルガ・アレクサンドロヴナに依頼され、スイスから面会に訪れたのは、皇太子や皇女の仏語教師であり、また皇太子の教育係も兼ねていたPierre Gilliardとその妻で皇女付きの看護師だったAlexandra Tegrevaだった。
Pierre Gilliard(皇帝子女の家庭教師)
Alexandra Tegreva(皇女らの侍女)
二人が訪れた時、チャイコフスキー夫人は病で瀕死状態であり、会話はもちろん不可能だった。テグレヴァは、外反母趾だったアナスタシアと同じ足の形であることを確認した。あまりに病状が悪いため、手術の済んだ3ヶ月後に再び訪れ、ジリャールが会話を求めたが、彼女は憤激して会話にならなかった。ジリャールはアナスタシアと認めるに至らず、妻も同意見に。
→アナスタシアではない
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ジリャールは皇女や皇太子と一緒に収まっている写真は数多い。皇帝一家に流刑地まで付き添ったが、エカテリンブルグではチェカに付き添いを認められなかった。氏名から外国籍の者として処刑を免れている。テグレヴァはその点、危険な立場であったがジリャールと親密だったことが考慮され、事なきを得た。
その午後、訪れたのはオリガである。
GD Olga Alexandrovna
(ニコライの妹/皇女の叔母)
皇太后マリアはニコライや家族の生存に望みを捨てていなかったため、生き残りの者としてのアナスタシアに会うつもりはなく、身辺の者達にも会うのを禁じた。その禁をおかして、皇太后の二女であるオルガは一縷の望みを抱いてチャイコフスキー夫人に会いに来る。かつて心優しいオルガ叔母は、皇后の意向で宮殿に閉じこもりがちな皇女たちを街に連れ出し、外の空気に触れさせてあげていた。気取らず皇族らしくないオルガは、農民らに気軽に陽気に話しかける術も心得ていたと、マリア・パヴロヴナも著書に記している。
面会を経て、アナスタシアではないと確信しながらも、チャイコフスキー夫人に強く同情し、度々会いに行ったり、手紙を送り、贈り物もした。
→アナスタシアではない
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Glev Botkin(皇室関係者/遊び相手)
Tatiana melnik(同上)
皇女らをよく知る者として、幼い頃遊び相手になっていた皇帝付き医師ボトキンの息子Gleb Botkinと娘Tatiana Botkinaがいる。グレブは子供の頃から絵が上手く、皇女や皇太子にボトキン医師を通して絵をせがまれた。ユーモラスな動物の線画が皆に大好評だった。ボトキン医師はイパチェフハウスで皇帝一家と運命をともにした。タチアナとグレブはトボリスクまで同行したが、エカテリンブルグへの同行は許されず、皇帝皇后マリアとともに発つ父とはそれが永遠の別れになった。父の暗殺を知った彼らは日本を経て、最終的にアメリカに亡命した。
二人はヨーロッパ滞在中のチャイコフスキー夫人を訪ね、アナスタシアであると確信している。グレブが訪ねるとき、チャイコフスキー夫人はグレブが面白い動物のイラストを持ってきているか?と期待していたと知り、すっかり信じた。タチアナは、夫人は事件のショックによりロシア語への恐怖、時間感覚、会話能力を失っているだけだと理解した。
→アナスタシアと認める
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1927年
Ernst Ludwig of Hesse by Rhine
チャイコフスキー夫人の最大の敵は、元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(暗殺された皇后アレクサンドラとエリザヴェータ大公女の実兄)だった。
いまいましい詐称者の化けの皮を剥ぐべく、賛同したジリャールに働きかけてチャイコフスキー夫人を非難する記録を発表させ、さらに莫大な資金を投入して私立探偵を雇い、アナスタシアではないことを確実に実証するために、チャイコフスキー夫人の正体を調べ出し、公表した。
→アナスタシアではない
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クリミアのリバディア宮殿にて
アンナ・チャイコフスキーの正体は、ポーランド出身の工場労働者フランチスカ・シャンツコフスカであるとあばき、新聞に発表させた。のちのDNA鑑定でこのスクープが正しかった事は証明されたが、そのときにはエルンストもアンナも既に他界している。
フランチスカは第一次大戦中の1916年、武器工場で働いていたが誤って手榴弾を床に落とし、同僚1人を死亡させ、自身も重傷を負った。1920年に病院から姿を消し、行方不明になっていた。
フランチスカの兄フェリクスが面会し、即座にフランチスカ本人であることを認めたにもかかわらず、夫人と会話した後になって取り消した。
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写真の前歯は入れ歯で、普段は合わないので外し、人と会うときだけ着ける
そのためか人と会うときは扇子などで口元を隠していた
Felix Yusupov
(皇室と親交深い有力貴族)
ユスーポフは辛辣なコメントを残している。
"I claim categorically that she is not Anastasia Nicolaievna, but just an adventuress, a sick hysteric and a frightful playactress. I simply cannot understand how anyone can be in doubt of this. If you had seen her, I am convinced that you would recoil in horror at the thought that this frightful creature could be a daughter of our Tsar."
→アナスタシアではない
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彼らの孫娘イリナ・シェレメーティエフがニコライのミトコンドリアDNA検査に協力してくれたおかげで身元の解明に至った
1928年
ヨーロッパで立場を不利にしつつあるチャイコフスキー夫人を案じて、ボトキンはアメリカに渡るように勧める。
更にボトキンは行動を起こす。
当時、皇帝の隠し財産がイングランド銀行に眠っているという噂が流布した。生前の皇后や皇帝の言葉から、それらはいざという時の娘たちの嫁入り資金なのでは、と思われていた。
ボトキンは「アナスタシアのため」、チャイコフスキー夫人の委任状を手に法律家をイギリスへ、相続の権利を主張するために派遣した。
Andrei Vladimirovich
(ニコライの従兄弟)
チャイコフスキー夫人はアメリカへ向かう途中のパリで皇位請求者キリル・ウラディミロヴィチの弟アンドレイと会い、アンドレイは熱烈な支援者となった。
→アナスタシアと認める
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チャイコフスキー夫人と対面したマチルダは、アナスタシアとは面識はないが夫人の眼にニコライの眼差しを覚え、彼女はアナスタシアに違いないと思った
Xenia Leed(元ロシア皇族)
アメリカに渡ったチャイコフスキー夫人はボトキンの口添えでアナスタシア支援を申し出た、もとロシア皇族でアメリカの富豪と結婚したクセニア・リードの下で暮らす。しかしチャイコフスキー夫人はいろいろなことで面倒事を起こし、クセニアと揉めることとなった。
→アナスタシアと認める
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ニューヨークでのチャイコフスキー夫人は、作曲家兼演奏家のセルゲイ・ラフマニノフによって、NY Grand City Hotelのスイートルームを提供された。このとき、面倒な取材を受けないようにするためにAndersonの偽名を使う事を勧められ、以後彼女はチャイコフスキーの名を使わず、Anna Andersonを名乗るようになった。アンダーソンは一時期、ニューヨーク社交界でもてはやされたが、次第にその奇行が目立ち始め、精神病院に強制入院させられた。退院後再びドイツへ戻った。
1928年10月、アナスタシアには最後まで背を向けたまま、皇太后マリアが亡くなった。
その直後、ロマノフ家12家と元ヘッセン大公家のエルンスト、イリナ、ヴィクトリアらの署名による『ロマノフ家の宣言』が発表された。その内容は、空に浮いていた皇帝一家の安否について、『全員が暗殺されたことを認める』というものだった。
宣言者は、
クセニア・アレクサンドロヴナ大公女
オリガ・アレクサンドロヴナ大公女
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公(クセニアの夫)
アンドレイ公
フョードル公
ニキータ公
ドミトリ公
ロスチラフ公
ヴァシーリー公(以上クセニアの男子6名)
他、従兄弟2名
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1917年当時クリミアに逃れて助かったロマノフの者たち
つまりこれは、頑なに暗殺を認めないままにしていたマリア皇太后の意向に180度相反する内容の宣言であり、皇太后の死後24時間と経たぬうちに宣言されたのだった。この宣言は、皇太后の遺産のアナスタシア詐称者への相続をシャットアウトするものになる。ボトキンは憤慨し、抗議文をクセニア宛に送った。宣言は貪欲で破廉恥、醜い陰謀、アナスタシア皇女に対する迫害であり、皇帝一家を暗殺した犯罪者以上に理解に苦しむ、と、その筆は辛辣を極めた。
他方で、ボトキンが調査に送り出した法律家は私財まで投じて隠し財産を探し求めたが、手掛りを得られぬまま果てた。
銀行は決して預金の額はおろか、預金の有無も公表しない。しかし、のちに元イングランド銀行重役が在職中にそのような預金について、存在したとは思われないとの談があり、どうやらイングランド銀行にあった資金は第一次大戦中に引き出され、病院や病院列車の建設に費消されたもようだという。
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青年は弟ヴァルデマール(デンマーク王子)
王子はマリアが禁じているにも関わらずアンダーソンを支援した
のちにアナスタシアであると立証された場合に王室がその無慈悲を非難されないために行ったという
皇帝関係者でアンナ・アンダーソンに最後に面会したのは、皇后の友人Lili Dehnと皇女皇太子の英語家庭教師Chales Sydney Gibbsであった。
Lili Dehn
→アナスタシアと認める
Chales Sydney Gibbs
「彼女がアナスタシアだというなら、私は中国人だよ」と友人に話したという。
→アナスタシアではない
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ラスプーチン、アンナ・ヴュルヴォワと
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皇帝一家と親密だったギッブスは、一家の死に強く打ちひしがれ、帰国後ロンドンで剃髪して正教に改宗、生涯を祈りに捧げた。
1938年
シャンツコフスカの身内の姉2人兄2人との面会。これはナチスにより仕組まれた面会であった。自称アナスタシアが偽りであることが判明すれば彼女は逮捕されることになる。姉の1人は認めようとしたが他の兄弟達に止められた。彼女には彼女の今の生き方があるということを受けとめ、「確認できなかった」ということで締めくくられた。
これ以降、アナスタシアかどうかを確かめる面接は公式には行われなかった。
このあと、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。アンダーソンは支援者の庇護を受けながらドイツ内を転々として生き延びた。
話は時を少し戻る。
1932年
アンダーソンはヘッセンの親族間の小規模な不動産相続に際して、自分の権利を主張し、訴訟を起こした。これは先のロマノフ家の宣言に対する報復だろうか。裁判は第二次世界大戦を挟み、1970年に結審した。反証したのはもちろんエルンストのいる元ヘッセン大公家からだが、途中でエルンストは亡くなり、息子のルートヴィヒが後を継いだ。この訴訟に金銭的援助をしたのがイギリスのマウントバッテン卿であった。
ルイス・マウントバッテンはアレクサンドラやエルンストの甥にあたり、さらに英国女王の又従兄、王配フィリップの叔父でもあり、第二次世界大戦で活躍したイギリス海軍元帥、元インド総督である。ロシアの皇女たちは彼の幼き日の遊び相手であったし、アナスタシアの姉マリアは彼にとって特別な存在であり続けた。マウントバッテンは亡くなった妻の莫大な遺産を惜しみなく裁判費用に注ぎ込んだ。
マウントバッテンはアンダーソンに面会したことはついぞなかったが、あんな不埒な狂人まがいの人物が自分の従姉妹であるなど、到底受け容れられなかった。
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しかしながら裁判はアンダーソンに有利な証言が次々に展開された。そのほとんどが、筆跡学者、人類学者、犯罪学者らによる医学的、科学的なものであった。
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結果、裁判はアンダーソンがアナスタシアであることを立証できなかったという判断で終わった。つまり、アナスタシアではないという立証もできなかった。
そののち、アンダーソンはヨーロッパでは次第に話題に上らなくなっていった。
アメリカに戻ったアンダーソンはどんどん奇矯な人になっていった。ビザのために、ボトキンの知人でアンダーソンより20歳年下の裕福な支援者マナハンと結婚する。マナハンは、自分はロシア皇帝の義理の息子だとはしゃいだ。彼らは非常に沢山の犬猫を飼い、死んだ猫は暖炉で火葬し、周囲の住人から悪臭の苦情を受けていた。
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1984年2月、アナスタシア・マナハンは肺炎で亡くなったが、とうとうその正体は明かされないままだった。
1920年に運河で救われてからその死まで、アンダーソンは1度も自ら働くことなく、全てその時々に誰かに支援を受けて暮らしていた。死後その遺体は、一時身を寄せていたことのあるドイツのSeeon城内に埋葬された。
すべての決着は、1989年に最初に発見された皇帝一家の遺骸からのDNA鑑定により、アンナ・アンダーソンが皇帝一家の型と一致しない、かつ、現存するシャンツコフスカの子孫とミトコンドリアDNA型が一致することが先に判明し、二つ目の墓の発見で、残る1人の皇女(マリアかアナスタシアかの確定はできていない)も発見されたことにより、皇帝一家で1918年以降を生き延びた者は誰もいなかったことが判明した。
アンダーソン存命中から、アナスタシアをロマンチックに取り上げた映画が幾つも制作されていたが、それらの作品は単に空想の世界の夢物語であり続ける方が望ましいものと思う。
Grand Duchess Anastasia Nikolaevna Romanova
1901~1918
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変顔が面白いアナスタシア!
つられてマリアやアレクセイもおかしな顔に‥
上の手紙はアナスタシアからルイス・マウントバッテンへ宛てたもの。アナスタシアは英語が苦手で、ドイツ語風に発音し、文法はマスターできてなかった。母への手紙にも表記ミスが目立った。他方、アンダーソンの英語は完璧だったという。アンダーソンはロシア語をしゃべらなかったが、聞いて理解することはできていたといわれている。フランス語で応じることもできたらしい。