名のもとに生きて

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独ソ戦下を生きるイワン

2016-01-04 13:40:50 | 読書

キャサリン・メリデール「イワンの戦争」より
独ソ戦を生きた一兵卒イワン
“記憶の拷問”


独ソの戦い ウクライナ

イワンは特定の誰かではなく、ソ連の無名の赤軍兵士を総称するものである。
1918年の革命から21年、共産主義国として歩んで来たソ連はドイツファシズムに対峙した。
徴兵されたソ連のイワン達のうち、年長者のなかにはまだ帝国軍として第一次大戦を経験した者もいた。
対するドイツ第三帝国のフリッツ。
フリッツらは西部と東部の二方面で戦っている。
イワン達も広大な国土の東西で戦っていた。
東では日本と対峙していたが、諜報活動により日本は太平洋方面へ軸を移すことを知り、ソ連はドイツとの戦いに大兵力を投じた。
ドイツから見たいわゆる「東部戦線」(独ソ戦)は、第二次大戦のあらゆる戦場のうちで破格に多大な犠牲を出した、凄惨極まる戦場になった。

イギリスの歴史家キャサリン・メリデールの「イワンの戦争 1939-45」は、当時の記憶を元ソ連兵らにインタビューし、彼らの語る事、語らない事に歴史的事実を加味しながらまとめたもので2005年に出版された。
独ソ戦とはどんな戦いだったのか、簡単に経過を追ってから「イワン」の姿を追いたい。


独ソ戦



1939年8月、モロトフ-リッベントロップ協定、すなわち独ソ不可侵条約がドイツとソ連で交わされたが、同時に結ばれた秘密議定書に基づき、ポーランド分割だけでなく、両国の近隣国への勢力拡大を互いに干渉しないことで東ヨーロッパを二国で欲しいままにしようとしていた。
ソ連には資源があるが技術はなく、ドイツには技術はあるが資源はなかった。両国と枢軸国の日伊とで四国同盟を結ぼうという案もあったが、ヒトラーは東方侵攻にこだわっていた。その上、イギリスを打倒するためにはソ連を倒す必要があると考えた。
ポーランド分割で国境を接するようになった両国は、すぐに関係があやしくなった。1941年6月22日、ドイツは条約を破り、ソ連領内に侵攻する。スターリンは日本による仲裁やルーマニアを介しての休戦も検討したほど、この開戦は全く本意ではなかったようだ。リッベントロップも半狂乱になった。
そもそも「反共」の急先鋒を自負するナチス。
ヒトラーは『わが闘争』において、「東部におけるドイツの生存圏の拡大」を明言していたし、「反共」を掲げるイデオロギー闘争以前に、スラヴ人を劣等民族とみなし、ユダヤ人同様、絶滅を目指していた。他方、ソ連はナチスドイツのファシズムを共産主義の敵としてイデオロギー的に潰滅すべきと狙っていた。事実、敵はドイツ国防軍だけではなく、SSや親衛隊によっても構成されていた。
対峙した両国は、領土奪取などではなく、互いの殱滅を目的とした「絶滅戦争」を始めたのである。当然、周辺の東欧諸国は巻き込まれていった。



当初、有利に展開したドイツ軍は予想外の数のソ連兵捕虜や投降者を、即時銃殺や確実に死に追いやる強制労働により500万人を死亡させた。そもそも殱滅させるべき民族なのだから、捕虜に対する国際法を守る考えは毛頭ないのだ。

国土がせまく資源のないドイツは電撃戦と搾取による方法にしか勝機がないのはわかりきっていたのだが、ロシアの大地は余りにも奥深く、前線は伸びに伸びて補給は困難だった。加えて広大な土地の情報不足、未舗装道路であるために泥道での行軍困難、ドイツ技術の誇る精密機構の戦車の厳寒による故障など、ドイツはロシアの地理を大幅に読み誤っていた。そしてドイツは、ソ連人という集団も読み誤っていた。ソ連の資源生産力、尽きぬ人的資源、自国民を締めつけるような焦土作戦も躊躇なく実行すること。
全軍事力の3/4を投入してモスクワ近郊まで迫ったドイツ軍は、ナポレオンの教訓を生かせず、寒さに疲弊していった。また、内陸に攻め込むほど補給に割かれる兵力も多くなり、補給を妨害するパルチザンの暗躍もあり、前線を維持するだけでも苦慮していた。
南の戦線でスターリンの名を冠したスターリングラードを多大な犠牲を払って死守した赤軍は、これを起点に士気を取り戻し、内陸部に移設した生産施設も稼働をし始め、ソ連は前線を西に押し戻していく。ロシアの大地に適した無骨な戦車T-34の量産が赤軍の背中を押した。

スターリングラードをあとに避難する市民

スターリングラード市街戦


更に、ファシズムとの戦いに対して実戦に出ることを躊躇する米英はソ連へレンドリース法として武器貸与などのソ連軍の正面装備、工業製品提供による民間の下支えを行った。しかし、米英の、実戦に加わらない消極的な態度は独ソ両国の消耗を狙っているのではないかとスターリンは警戒していた。

エマニュエル・トッド『帝国以後』によれば、「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線の真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲がナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた」と見ることができる。
ヨーロッパをナチズムの恐怖から解放したのは米英仏ではなく、共産主義国のソ連だったのは事実である。
ヨーロッパの世界大戦を終わらせたのは、東方からのソ連兵と北方からの米兵がエルベ川で握手をしたとき。その後、世界の中心はヨーロッパではなく、米ソの二大国に取って代わられたのは周知のとおりである。


イワン
当時、閉ざされた国であったソ連には謎が多かったが、国外に出ることを許されないソ連人民にとっても周辺国のことは知らされず、資本主義の貧しい国だと聞かされていた。
ソ連に投入されたドイツのスパイのおかしな苦労話がある。
ソ連のスパイになると、

・40~50度のウォッカ1オンス半を一気に呑む
・タバコの吸い口はボール紙
・ウォッカに咳き込み、紅茶に手を伸ばすと、安物のコップが熱くて指にやけどをする

そしてもしも失敗すれば即刻命が危ないという、大変ご苦労な任務だったようだ。ロシア人は追い込まれると必死でいくらでも嘘を言うので諜報にならず、結局諜報はフィンランド経由だったそうだ。
開戦当初の1939年、徴兵年齢は19歳。志願兵は多すぎるくらい集まったが、何分広い国土ゆえに字の読めない者、ロシア語がわからない者、スターリンが誰かわからない者までいた。そこで兵役に就くための試験や政治教育が行われ、成績の良い者がNKVDに採用された。NKVDは秘密警察組織であり、戦後のKGB、現在のFSBに繋がる。
各軍には政治将校が党のスパイとして派遣された。ポリトルクと呼ばれるそれには、教育水準の高いユダヤ人が多かったらしい。イワンたちは敵だけでなく、軍の内部のこうしたスパイやNKVDによる粛清の恐怖にも耐えねばならなかった。いっそ投降した方がましだと、戦争初期には集団でのドイツ側への投降が相次いだ。実際、ドイツ側は想像以上に辛辣だったのだが、スターリンは命令270号を出し、冷酷な締め付けを行った。
それは、
・逃亡者(遅れた者も含む)は射殺してよい
・逃亡者の家族も逮捕する
・逃亡者とその家族は以後、年金支給なし、物質面の権利なし、子供の教育も受けさせない

例えば、河川で戦死、爆死などで身元確認が出来ない戦死者は逃亡者とみなされてしまう。兵本人だけならともかく、家族とその将来にも制裁が及ぶとなれば兵は従うしかなかった。それに、ドイツ兵の、ロシア兵捕虜にたいする残酷な仕打ちも次第に耳に入っていた。
「もしドイツ人が捕虜を大切にしていたらその話はすぐに伝わってきただろう。彼らは捕虜を虐待し、飢えさせ、殺したことで我々を助けたのだ」と元兵士は語った。
「今や相手はゲシュタポやSSなのだ。奴らにとっておれたちはアカ以外の何者でもない」
兵士らも、ドイツの目的はボリシェビキの抹殺であることを承知したのである。実際、ドイツ兵は赤軍の捕虜や民間人を容赦なく殺した。処刑ならまだしも、射撃訓練の的、犬に喰い殺させた。ときに、犬が勝つか人が勝つかの賭けも楽しんだが大方は犬が勝つ方に賭けたそうだ。そうして残虐に殺されなくても、じきに飢えや赤痢で死んだ。ポリトルクやユダヤ人は即刻射殺された。

子猫を可愛がるソ連兵

ドイツ兵と犬

鳩を飼っていたためにドイツ兵に銃殺されたソ連兵 伝書鳩だったのか?


冬のフリッツとイワン
戦争初期、イワンにはいろいろなものが不足していた。ドイツの侵攻で工業生産がストップしていたためだ。民間のイワンも含め、とりわけ困っていたのが長靴の不足だった。破れた靴底に当てる革を、擱坐したドイツの戦車の座席から剥がして使った者もいた。戦死した兵の死体からはあらゆる物を取った。冬外套、上着、帽子、綿入ズボン、セーター、手袋、長靴、フェルト長靴、そして武器。フリッツも死体から冬服を取った。イワンもフリッツもロシアの寒さに凍死寸前あるいは事実、凍死した。長靴を凍った死体から脱がすのはかなりのコツが要りようだった。下手をすると脚ごと取れてしまう。慣れた者は脚ごと切って山ほど持ち帰り、ストーブで脚を融かしてからそっと引き抜く技を身につけた。ロシアが初めてのフリッツらは気の毒に、新聞紙まで体に巻きつけたが、多くが凍死した。戦闘死と同じくらいの被害だった。盗んだ老婆のズロースまで身につけた「冬のフリッツ」という喜劇まで作られた。

厳寒の地ロシア 冬は大地そのものが要塞と化す
凍死したSS隊員たち


レニングラード近郊に凍死して放置されたドイツ兵の死体
埋葬するにも土が凍っていて穴が掘れない


ドイツの疲弊に勢い付いたソ連は、プロパガンダでさらにイワンを煽る。
「一歩も引くな」
「最後の血の一滴まで戦え」
「死ぬまで退却は許されない」
新たに封殺部隊が各隊に送られ、臆病者と見なされれば囚人同様、懲罰大隊送り、つまり前線の捨て身の作戦で捨て石にされるか、強制労働にやられた。
戦争初期の頃の兵はほとんどが既に死んでおり、戦争中期には10代の新世代の兵が、たった3ヶ月の育成期間を経て派遣された。彼らは生まれながらにソ連人であり、少年期を戦時下で過ごし、その間ピオネールなどの組織で政治教育も受けているため、彼らにとって軍務は神聖な義務であり、死の運命も受け容れる覚悟があった。ファシズム下のヒトラー・ユーゲント隊員とそっくりである。
ドイツに蹂躙された経験も経てきた彼らは、報復を煽るプロパガンダを身に染み込ませ、前線を西に押し返していく。

報復を煽るポスター

「報復」?
共産主義のイデオロギーはどうしたのか。
国や民族を超えた共産社会を目指すはずの戦いが、首脳部は本性剥き出しで頭を「報復」にすげ替えた。
イワンたちはドイツの地に脚を踏み入れ、その豊かさに驚き、祖国を嘆き、怒り、プロパガンダに示されるまでもなく、体の底から湧き出る「報復」をした!

ドイツ兵に殺された市民の遺体を見ているソ連兵
老人、女性、子供が容赦なく殺された



酒、略奪、レイプ
あるソ連兵が家族へ宛てた手紙。

「‥多くの英雄的行為を目撃したのは事実だ。でも、赤軍の恥辱も数多く目にした。残虐行為すれすれの無慈悲な仕業が自分にできるとは、考えてもみなかった。自分は善良な人間だと思ってきた。だけど、こんなときにならないと頭をもたげない性質を、人間は奥深くに長い間隠し持っているものなのだ

「祖国の人民の正義の裁きを体現している。ドイツ人がわが国でしたのと同じように‥」

「酔わずにはいられない。俺が体験している現実は、言葉では説明できない。酔ってしまえば、すべてが楽になる」

ドイツに破壊された国境付近の町を通過してきたイワンたちは、ドイツの領土に入り、住民と相対し、膨らんだ憎悪を爆発させた。そこには報復という美名があり、あらゆる蛮行を正当化する拠り所となった。町に火を放ち、略奪し、女性や少女を集団で繰り返しレイプし、時に思うままに殺し、溺れるほど酒を飲んだ。レイプは性欲を満たすに止まらず、敵国に対するあらゆる憎悪を弱者にぶちまけるような残虐極まりないやり口だった。

あまりのひどさにスターリンは取り締まりの法を発令した。レイプや略奪はその場で射殺することになったものの、黙認された。
また、荒ぶる感情に任せて町ごと焼き尽くしていては、物資面で勘定が合わなくなる。食料、毛布、衣服、薬品などを無駄にはできない。1944年、「戦利品の捕獲と搬送に関する諸諸の規則」により、戦利品は全て国家と赤軍の財産とし、兵は階級によって定められた範囲内(小包一個何キロまでというような)のみ所持が許される、とした。人気があったのは、ソ連では所持が認められなかった腕時計、自転車。自転車は初めて乗るので、フラフラとこぐ練習をして転んでは笑っていた。腕時計がソ連兵を喜ばせるというのは広まっていたので、ドイツ人は聞かれる前に用意し、すぐに差し出した。ソ連兵は腕にびっしり腕時計を着けて見せびらかし、指差してもっとよこせと示す。こんなもので気をよくするソ連兵に、ドイツ人は首を傾げた。
使えもしないタイプライターを面白がり、家に小包で送った兵もいたらしい。キリル文字ではないから使いようがないことはたぶん考えなかったのだろう。
赤軍はまた、ドイツの工場ごと手荒く解体して自国に持ち帰った。自国での組み立てや稼働の仕方は、ドイツ人捕虜にやらせればよかった。


「焼け焦げたドイツの町を行く時は心が躍ります‥」

修羅と化したソ連兵に、再び酔いの冷める攻防が待っていた。ベルリン攻防戦である。1945年4月。ベルリン市民は絶望と恐怖のどん底にあったが、ソ連兵もまた多くの損害を出した。


ベルリン
すでに大方の兵力を失い、少年兵や老年兵が経験の乏しい将校のもとで決死戦に挑むドイツは、倍の数のソ連兵と敵対することになる。米英もまたベルリンを目指していたが、ソ連の方が早く到着した。それはベルリン市民にとっては悪い方の目が出たことになった。

ロケット砲カチューシャが火をふく ベルリン付近

「市街戦は火力の勝負だ」。
ソ連は圧倒的な火力を放つ。スターリンのオルガンと言われた独特なカチューシャの音が恐怖を煽るように鳴り渡る。
懲罰大隊のイワンはここまで来て、凍るような恐怖に立たされる。ベルリン付近の地雷原の前に立たされ、後ろから銃を向けられる。

ベルリン市民は地下室で息を潜めていた。
ライラックの花の香りが春爛漫を告げている地上の戦地は、
「子供たちが右や左で死んでいた。
老人は動物のように草を食べていた」
と身元不明のある女性の日記に記されていた。

ベルリン ドイツ兵を捕らえるソ連兵

ベルリンの街でのソ連兵



この攻防戦の最中にヒトラーは自殺し、幹部は逃亡し、ドイツは数日の後に無条件降伏する。降伏を表明してから調印までの間も赤軍はベルリンを執拗に攻撃した。このような態度が日本の降伏時にも繰り返されたことは誰もが知るところであろう。

音楽を奏でる指と略奪する指と
人の手はあらゆるものを生み出す作用点だ


ドイツ兵と比較するならソ連兵は子供には甘かった
ポケットにはいつもお菓子を詰めていて飢えたドイツの子供たちに与えていたという



戦後のイワン
戦争によって西側諸国を初めて見たイワンは、勝利後には、西側世界との接触が増え、読みたい物が読め、学生の交換留学が進み、外国旅行も可能になる、という未来を思い描いた。
しかし指導者スターリンが変わらない限り、ソ連が戦前と変わるはずはないのだった。兵士たちは祖国に戻り、再び集団農場に縛り付けられた。
再び暴力による取り締まりが始まった。

かつて初めてポーランドの農場や農家の佇まいを見た兵は、驚きを隠さず言った。
「生まれてから腹いっぱい食べたことがなかった。どうしてポーランドには文化的できちんとしたくらしがあって、俺たちにはないんだろう」

このつぶやきにフランス、ベルギー、オランダを見てきたウラソフ派の兵士たちはせせら笑っただろう、と書かれている。
資本主義は罪悪だと言葉で教わり、その社会の人々は自分たちよりひどい生活をしていると知らされてきたが、目で見てきたことは否定しようがなかった。

最も悲運だったのは、闘いの末捕虜となり、解放されて来た元捕虜の兵たちだった。祖国に戻るや否や、スパイとして処刑されるか収容所送り、強制労働に連行された。
スターリンは、強制労働に向かわせる必要のない者たちに対しても、「自発的無償労働」を強制した。

本書にはこう書かれている。

「兵士は多種多様だった。一人ひとり違うイワンがいた。しかし、願いは一つだった。独裁を倒すために戦った揚げ句に、それを上回る独裁が残る結果は本意ではなかった。スターリン主義の台頭を認め、体制を守るために自ら戦い、辛酸をくぐり抜けた人々が、戦後も暴君の君臨を容認した。不幸なことだ。祖国は隷属を免れたが、自らを奴隷化したのだった。」

苦しんで勝った戦後のイワンに残されたものはこのような笑えない事実の他にもう一つ、「記憶の拷問」だった。多くは、戦友を救えたのに救えなかったこと、家族を守れなかったことだろう。
殺してきたドイツ人たちのことはどう感じていただろうか。また、前に記した資本主義社会への羨望も記憶の拷問に加わるだろう。

「記憶の拷問」‥これこそが戦争の果実だ。


ソ連の女性兵士
女性兵士はスナイパーとして優秀な腕前を持っていた




「‥問われているのは、大悪人とその罪ではありません。邪悪でないごくふつうの人のうちに、特別な動機がなくても、無限の悪を為す能力があることが重要なのです。‥」
ハンナ・アーレント『責任と判断』で述べられています。真剣にこの問題を考えたいと思います。


写真はtumblrなどの投稿から引用