デンマーク王女 続き
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⑵ダウマー
アレクサンドラの3歳年下のダウマーは兄弟姉妹のなかの4番目、1847年に生まれた。ダウマーは家族からミニーの愛称で呼ばれた。
姉のアレクサンドラとはとても仲が良く、幼少期からともに過ごし、なんでも相談していた。
姉がイギリスへ嫁いで行ってしまう時、ミニーは涙を流して見送ったのだった。
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婚約
それから2年、今度はミニーがデンマークを離れることになった。婚約の相手はロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ。皇帝アレクサンドル2世の長男であった。
婚約したロシア皇太子ニコライ
中央にニコライ、手をつないでいるのがダウマー、母、兄、妹、弟と
政略結婚ではあったが、ニコライが婚約のためにデンマークを訪れ、ミニーと初めて面会した時、2人はよく笑い合い、すぐに親しくなった。小柄で愛くるしく、誰とも打ち解けやすいミニーは、言葉の違いも障壁にならず、たちまち周りの人の心を融かしてしまう。婚約者は2人の将来に希望をふくらませ、帰国していった。ミニーも幸せな結婚になることを思い描いていた。
翌年1965年、南欧旅行中のニコライは髄膜炎を起こしたが、医師の誤診でリウマチと診断され、そのまま旅を続行。しかし症状は悪化し、フランスで客死した。ニコライを手塩にかけて育てた母マリア皇后はもちろん、ミニーにとっても深い悲しみとなり、ミニーの両親は落ち込む娘に何と声をかければよいか途方にくれたという。
ニコライは死の間際に、帝位継承者となる弟のアレクサンドルに、自分が死んだら代わりにミニーと結婚するように頼んだといわれている。皇帝もミニーに手紙を書き、ロシアに迎えたいと懇願した。姉や母の後押しもあり、ミニーもその言葉に従い、ロシアに嫁ぎ、アレクサンドルと結婚することになった。
アレクサンドル3世
結婚
ロマノフ家の男性はほとんどが190センチ前後の長身。しかもアレクサンドルは体格もしっかりしていて、巨熊と言われていた。その横に、小柄で華奢で、少女のように可愛らしい花嫁。帝位継承者になるのも結婚するのも兄の代わりで、自分にとって予想してなかった筋書きだったが、アレクサンドルはたちまちミニーの虜になり、不安がいっぱいの帝位にも勇気をもらって臨もうとした。なにしろ威圧的で強面のアレクサンドルがミニーには優しい。明るいミニーは、夫だけでなく、身分の隔てなく周囲の誰とも打ち解けて魅了した。ロシア国民にも愛され、帝政反対派もしばらくは活動を控えるようになった。
ロシア語を学び、正教に改宗し、義理の母マリア皇后にも受け容れられた。ミニーの姉アレクサンドラは、夫と相思相愛で義父母とも睦まじいミニーのことを羨ましがっていた。
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子女
4男2女。ただし第二子アレクサンドルは早逝した。
❶ニコライ 1868~1918
❷アレクサンドル 1869~1870
❸ゲオルギ 1871~1899
④クセニア 1875~1960
❺ミハイル 1878~1918
⑥オリガ 1882~1960
後にロシア革命を生き残ったのはミニーと娘2人だけである。
ニコライと
ニコライ、ゲオルギ、クセニアと
ミハイル、オルガを含め5人の子供達と
ミニーの義弟セルゲイ・アレクサンドロヴィチの結婚式で、新婦エリザヴェータの妹のヘッセン大公女アリクスと出会った息子ニコライは、彼女を将来の結婚相手にしたいと望んだ。これにはミニーもアレクサンドルも大反対だった。度重なる不幸で、呪われていると噂されるヘッセン大公家の出自はエリザヴェータも同じだが、アリクスの様子を姉から聞いているミニーは強く反対した。固執し続けるニコライの気を変えさせるために、アレクサンドルはバレリーナのクシェシンスカヤを遊び相手にさせ、仮初めの恋に溺れさせたりもしたが、ニコライはアリクスを諦めなかった。アリクスに目をかけているヴィクトリア女王も反対したし、アリクスの姉エリザヴェータすらも、ロシア皇后はアリクスの性格では務まらないと反対した。にもかかわらず、強靭だったアレクサンドルがあっけなく腎臓を病み、予後が危ぶまれるようになって、ニコライは帝位を自分が継承するならアリクスとの結婚を認めるよう、さもなければ自分は皇室から去ると父に迫った。その時点でニコライの弟ゲオルギは結核だったし、ミハイルはまだ若すぎた。弱みを突かれて、やむを得ずアレクサンドルはニコライの望みを認めたが、ミニーは反対し続けた。
アレクサンドルは49歳で崩御。葬儀に引き続いてアリクスとニコライの結婚。終始暗い表情の新皇后は周囲の空気を重くした。
婚約したニコライとアリクス
アリクス改めアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后は、ロシア語が不自由なため会話したがらず、笑顔もないのでどんどん人が遠ざかる。アレクサンドル3世の葬儀からしばらくしてミニーが晩餐会を開き始めると、皇后は非難した。ロシア宮廷の晩餐会は減り、社交界は機能しなくなり、それは皇帝を孤立させることにもなったが、ニコライも非社交的な側面があり、不利益とは感じず、むしろうるさい連中と関わらなくて済むと考えた。
まさに水と油のミニーとアレクサンドラ皇后であったが、ミニーもアレクサンドラにだけ招待状を送らないなどの姑息な意地悪をし、ますます溝を深めることになった。母を愛するニコライは、頻繁に母を訪れ、政治や諸々のことを相談をする。人と会いたくないため、ツァールスコエのアレクサンドル宮殿に子供達とともに引きこもるアレクサンドラ。子供達をかわいそうに思うミニーの娘オルガ、子供達にとってのオルガ叔母さんは、週末に子供達を連れ出してミニーの所で一緒に昼食を取らせ、サンクトペテルブルクの街で遊ばせてやった。たまの外出を、子供達は片時も無駄にしないよう、目を輝かせていたそうだ。ミニーは大好きな孫たちにはこうして接することができた。
ニコライの子女 左からタチアナ、オルガ、アレクセイ、マリア、アナスタシア
家族全員が惨殺された
最も若いアレクセイはまだ13歳だった
革命後
しかしやがて、革命によりニコライ一家が監禁されるようになると、ミニーもクリミアに娘の家族たちとともに身を潜めざるをえなくなった。
そんななかでもニコライとは頻繁に手紙のやりとりを続けていたが、孫たちは他の知り合いや家臣に手紙を書いてもミニーには手紙をよこさなかった。アレクサンドラが書かせなかったようだ。もちろん、手紙魔のアレクサンドラだがミニーには一通も書いていない。ミニーはアレクサンドラの姉エリザヴェータとは親しく、そのこともアレクサンドラには不愉快であった。
ミニーが革命政府によってクリミアに幽閉されていることを知ったアレクサンドラ(姉)はジョージ5世とともに奔走し、軍艦を黒海に送りミニーと家族を脱走させた。ミニーは祖国デンマークに亡命。共同で持っていた別荘で暮らすようになった、社交的なミニーを訪れる人は多く、晩年も賑やかだったが、皇帝一家やミハイルの殺害の知らせが入っても頑なに信じず、彼らは生きていると周囲に言った。にもかかわらず、自分はアナスタシアである、と訴える人たちには決して会おうとしなかった。
亡命の際に持ち出した宝石類はイギリス王妃メアリーに巻き上げられている。メアリーは「良く言っても泥棒」とささやかれる変わった性癖があり、人の物で高価な目につくものは何でも自分のものにした。ミニーに限らず、イギリスに亡命したロマノフの生き残りは、どんなに隠してもメアリーにまんまと貴金属を奪われてしまったそうだ。
ミニーは姉アレクサンドラと同様、80歳で亡くなった。
ロシアをどんどん傾けてしまったのはミニーの息子のニコライだが、ミニーが嫁いでくる前からロシアにはその兆しがあった。ロマノフの最後の光をしっかりと受け取ったのはミニーが最後だったし、息子達の悲劇をその目に見なければならなかった。たとえ見ることを知ることを拒絶していたとしても。
三姉妹のなかでは最も悲しい宿命を最後に背負ったことになった。
左からダウマー、アレクサンドラ、テューラ
デンマークの別荘で
デンマークの別荘で姉と
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tumblr
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同時代、この美貌のデンマーク王女姉妹と競って美しいと評判だったのは、オーストリア皇后エリーザベトである。アレクサンドラよりも7つ年上で、三姉妹が騒がれる頃には既にその美しさで名を馳せていたため、アレクサンドラは「デンマークのエリーザベト」などと囃された。
172センチ、50キロ、ウエスト50センチ。
エリーザベトは美しさを維持するために、ダイエットなどにも気を配り、大変な努力をしていた。スタイルは維持できたが、肌の美しさは失われ、隠すようにしていた。
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当時噂のアレクサンドラやダウマーのこともつよく意識していたらしい。しかし、顔は美しくても小柄で胴長な彼女達にスタイルでは圧倒的に優っていた。
ある公式行事で初めてアレクサンドラと会った時は、お互いに声を交わしたそうだが、別の機会にダウマーと会った時は、話しかけられなかったらしい。
少し怠け者で享楽的な彼女は、エドワード7世や凶王ルートヴィヒとも親しかったそうだ。彼女にとって最大の不幸は、跡継ぎの一人息子が自殺してしまったことである。喪服で通した傷心の後半生のなかで、彼女は旅の途中、無政府主義者に暗殺された。1898年、60歳没。
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⑵ダウマー
アレクサンドラの3歳年下のダウマーは兄弟姉妹のなかの4番目、1847年に生まれた。ダウマーは家族からミニーの愛称で呼ばれた。
姉のアレクサンドラとはとても仲が良く、幼少期からともに過ごし、なんでも相談していた。
姉がイギリスへ嫁いで行ってしまう時、ミニーは涙を流して見送ったのだった。
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婚約
それから2年、今度はミニーがデンマークを離れることになった。婚約の相手はロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ。皇帝アレクサンドル2世の長男であった。
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政略結婚ではあったが、ニコライが婚約のためにデンマークを訪れ、ミニーと初めて面会した時、2人はよく笑い合い、すぐに親しくなった。小柄で愛くるしく、誰とも打ち解けやすいミニーは、言葉の違いも障壁にならず、たちまち周りの人の心を融かしてしまう。婚約者は2人の将来に希望をふくらませ、帰国していった。ミニーも幸せな結婚になることを思い描いていた。
翌年1965年、南欧旅行中のニコライは髄膜炎を起こしたが、医師の誤診でリウマチと診断され、そのまま旅を続行。しかし症状は悪化し、フランスで客死した。ニコライを手塩にかけて育てた母マリア皇后はもちろん、ミニーにとっても深い悲しみとなり、ミニーの両親は落ち込む娘に何と声をかければよいか途方にくれたという。
ニコライは死の間際に、帝位継承者となる弟のアレクサンドルに、自分が死んだら代わりにミニーと結婚するように頼んだといわれている。皇帝もミニーに手紙を書き、ロシアに迎えたいと懇願した。姉や母の後押しもあり、ミニーもその言葉に従い、ロシアに嫁ぎ、アレクサンドルと結婚することになった。
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結婚
ロマノフ家の男性はほとんどが190センチ前後の長身。しかもアレクサンドルは体格もしっかりしていて、巨熊と言われていた。その横に、小柄で華奢で、少女のように可愛らしい花嫁。帝位継承者になるのも結婚するのも兄の代わりで、自分にとって予想してなかった筋書きだったが、アレクサンドルはたちまちミニーの虜になり、不安がいっぱいの帝位にも勇気をもらって臨もうとした。なにしろ威圧的で強面のアレクサンドルがミニーには優しい。明るいミニーは、夫だけでなく、身分の隔てなく周囲の誰とも打ち解けて魅了した。ロシア国民にも愛され、帝政反対派もしばらくは活動を控えるようになった。
ロシア語を学び、正教に改宗し、義理の母マリア皇后にも受け容れられた。ミニーの姉アレクサンドラは、夫と相思相愛で義父母とも睦まじいミニーのことを羨ましがっていた。
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子女
4男2女。ただし第二子アレクサンドルは早逝した。
❶ニコライ 1868~1918
❷アレクサンドル 1869~1870
❸ゲオルギ 1871~1899
④クセニア 1875~1960
❺ミハイル 1878~1918
⑥オリガ 1882~1960
後にロシア革命を生き残ったのはミニーと娘2人だけである。
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ミニーの義弟セルゲイ・アレクサンドロヴィチの結婚式で、新婦エリザヴェータの妹のヘッセン大公女アリクスと出会った息子ニコライは、彼女を将来の結婚相手にしたいと望んだ。これにはミニーもアレクサンドルも大反対だった。度重なる不幸で、呪われていると噂されるヘッセン大公家の出自はエリザヴェータも同じだが、アリクスの様子を姉から聞いているミニーは強く反対した。固執し続けるニコライの気を変えさせるために、アレクサンドルはバレリーナのクシェシンスカヤを遊び相手にさせ、仮初めの恋に溺れさせたりもしたが、ニコライはアリクスを諦めなかった。アリクスに目をかけているヴィクトリア女王も反対したし、アリクスの姉エリザヴェータすらも、ロシア皇后はアリクスの性格では務まらないと反対した。にもかかわらず、強靭だったアレクサンドルがあっけなく腎臓を病み、予後が危ぶまれるようになって、ニコライは帝位を自分が継承するならアリクスとの結婚を認めるよう、さもなければ自分は皇室から去ると父に迫った。その時点でニコライの弟ゲオルギは結核だったし、ミハイルはまだ若すぎた。弱みを突かれて、やむを得ずアレクサンドルはニコライの望みを認めたが、ミニーは反対し続けた。
アレクサンドルは49歳で崩御。葬儀に引き続いてアリクスとニコライの結婚。終始暗い表情の新皇后は周囲の空気を重くした。
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アリクス改めアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后は、ロシア語が不自由なため会話したがらず、笑顔もないのでどんどん人が遠ざかる。アレクサンドル3世の葬儀からしばらくしてミニーが晩餐会を開き始めると、皇后は非難した。ロシア宮廷の晩餐会は減り、社交界は機能しなくなり、それは皇帝を孤立させることにもなったが、ニコライも非社交的な側面があり、不利益とは感じず、むしろうるさい連中と関わらなくて済むと考えた。
まさに水と油のミニーとアレクサンドラ皇后であったが、ミニーもアレクサンドラにだけ招待状を送らないなどの姑息な意地悪をし、ますます溝を深めることになった。母を愛するニコライは、頻繁に母を訪れ、政治や諸々のことを相談をする。人と会いたくないため、ツァールスコエのアレクサンドル宮殿に子供達とともに引きこもるアレクサンドラ。子供達をかわいそうに思うミニーの娘オルガ、子供達にとってのオルガ叔母さんは、週末に子供達を連れ出してミニーの所で一緒に昼食を取らせ、サンクトペテルブルクの街で遊ばせてやった。たまの外出を、子供達は片時も無駄にしないよう、目を輝かせていたそうだ。ミニーは大好きな孫たちにはこうして接することができた。
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家族全員が惨殺された
最も若いアレクセイはまだ13歳だった
革命後
しかしやがて、革命によりニコライ一家が監禁されるようになると、ミニーもクリミアに娘の家族たちとともに身を潜めざるをえなくなった。
そんななかでもニコライとは頻繁に手紙のやりとりを続けていたが、孫たちは他の知り合いや家臣に手紙を書いてもミニーには手紙をよこさなかった。アレクサンドラが書かせなかったようだ。もちろん、手紙魔のアレクサンドラだがミニーには一通も書いていない。ミニーはアレクサンドラの姉エリザヴェータとは親しく、そのこともアレクサンドラには不愉快であった。
ミニーが革命政府によってクリミアに幽閉されていることを知ったアレクサンドラ(姉)はジョージ5世とともに奔走し、軍艦を黒海に送りミニーと家族を脱走させた。ミニーは祖国デンマークに亡命。共同で持っていた別荘で暮らすようになった、社交的なミニーを訪れる人は多く、晩年も賑やかだったが、皇帝一家やミハイルの殺害の知らせが入っても頑なに信じず、彼らは生きていると周囲に言った。にもかかわらず、自分はアナスタシアである、と訴える人たちには決して会おうとしなかった。
亡命の際に持ち出した宝石類はイギリス王妃メアリーに巻き上げられている。メアリーは「良く言っても泥棒」とささやかれる変わった性癖があり、人の物で高価な目につくものは何でも自分のものにした。ミニーに限らず、イギリスに亡命したロマノフの生き残りは、どんなに隠してもメアリーにまんまと貴金属を奪われてしまったそうだ。
ミニーは姉アレクサンドラと同様、80歳で亡くなった。
ロシアをどんどん傾けてしまったのはミニーの息子のニコライだが、ミニーが嫁いでくる前からロシアにはその兆しがあった。ロマノフの最後の光をしっかりと受け取ったのはミニーが最後だったし、息子達の悲劇をその目に見なければならなかった。たとえ見ることを知ることを拒絶していたとしても。
三姉妹のなかでは最も悲しい宿命を最後に背負ったことになった。
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同時代、この美貌のデンマーク王女姉妹と競って美しいと評判だったのは、オーストリア皇后エリーザベトである。アレクサンドラよりも7つ年上で、三姉妹が騒がれる頃には既にその美しさで名を馳せていたため、アレクサンドラは「デンマークのエリーザベト」などと囃された。
172センチ、50キロ、ウエスト50センチ。
エリーザベトは美しさを維持するために、ダイエットなどにも気を配り、大変な努力をしていた。スタイルは維持できたが、肌の美しさは失われ、隠すようにしていた。
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当時噂のアレクサンドラやダウマーのこともつよく意識していたらしい。しかし、顔は美しくても小柄で胴長な彼女達にスタイルでは圧倒的に優っていた。
ある公式行事で初めてアレクサンドラと会った時は、お互いに声を交わしたそうだが、別の機会にダウマーと会った時は、話しかけられなかったらしい。
少し怠け者で享楽的な彼女は、エドワード7世や凶王ルートヴィヒとも親しかったそうだ。彼女にとって最大の不幸は、跡継ぎの一人息子が自殺してしまったことである。喪服で通した傷心の後半生のなかで、彼女は旅の途中、無政府主義者に暗殺された。1898年、60歳没。
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