はじめのい~っぽ 60'S

今日生きてるのは奇跡!
鬼籍入りまでの軌跡!

詩 「一匹の猫」  塔 和子

2014年01月29日 | 本・絵本・雑誌
「一匹の猫」

私の中には
一匹の猫がいる
怠惰で高貴で冷ややかで
自分の思うようにしか動かない
その気品にみちた華奢な手足を伸ばして
悠然とねそべっている
猫はいつも
しみったれて実生活的な私を
じっと見下ろしているのだ

歩くときも
話をするときも
猫は決して低くなろうとしない
そのしなやかな体で
ちょっと上品なしなを作ると
首を高く上げたまま立ち去るのだ

私は
もっと汚く
もっと低く
もっと気楽に生きようとするが
私の中の猫は
汚れることをきらい
へつらうことをきらい
馴れ合うことを拒絶し
いつも
気位高く
美しい毛並みをすんなりと光らせて
世にも高貴にねそべっている          (「分身」より)

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猫が猫たる所以とは
誰かの意思などより
自分はどうなの?どう感じるのと決定する早さ・潔さにあると思います

私など、悠然と寝そべっているつもりで
横になれば怠惰の塊のように
寝姿にも哀れをかもし出しているけれど

気持ちは
自分の中の他人にヘつらない部分を大切にしたいと思っている
「アタクシ自分流ですの」と群れることを好まない私の一面

大きな黒い帽子に真っ赤な口紅、腰を絞った黒のロングドレスにハイヒール
昔のコカ・コーラのポスターのように
周囲の目線を受け止めながら颯爽と歩いている自分を想像している

猫の気取りは
可笑しいような、うらやましい位の気位を感じさせて
それがとっても好きなんです


ある詩論  永瀬 清子 

2013年11月12日 | 本・絵本・雑誌
ある詩論

 詩を書く時は出し惜しみせず中心から、最も肝心な点から書くべきだ
最初の行がすべての尺度になる
 まわりから説明して判らそうとすると詩はつまらなくなる
すべてはその親切程度に平板に散文化し
中心さえも「説明」の一部になる
 つまり詩の行には大切な独立力があるので
本心をつかまぬ行に最初の一行を任すべきではない
又次の次の行も任すべきではない
云いかえれば肝心な中心を捕らえれば第一行が次行を
そして又次行が第三行を指し示し、又生んでくれるとも云える
そしてそこにリズムが生まれる 
つまらぬ所から説きはじめればついに中心に行き合わぬ
そして読者の心にもついに行き合わぬ                                                    短章集『焔に薪を』

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自分の日記でも、公開となると少し構えてしまう
人の悪口や鬱憤晴らしの文章にしたくない
奇跡的に遭遇した読み手と共感できたり「また読んでみようかな」と思える文章が書ければ時間を割きながら書くのも楽しくなる
力まなくてもよいのだが、なにか自分に「おまけ」が欲しい

永瀬清子さんの「ある詩論」は書くことに携わる全ての人に共通する
核心を貫いている気がして彼女の鋭さにスゴサを感じます
読めばよむほど味わい深い

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昨日、M田さんが素敵な芍薬を持って来て下さった
その時は、グーの形をしていたのに、今は妖艶に咲き誇っているから 
永瀬清子さんの文章と一緒に楽しみませんか
私が見ている色と若干違ってますが、
この時期にこの花。素敵なチョイスに脱帽です
 ←中を覗いてみると

   

詩 「友人」  茨木のり子

2013年10月30日 | 本・絵本・雑誌

友人に
多くを期待しなかったら
裏切られた! と叫ぶこともない
なくて もともと
一人か二人いたらば秀

十人もいたらたっぷりすぎるくらいである
たまに会って うっふっふっと笑いあえたら
それで法外の喜び
遠く住み 会ったこともないのに
ちかちか瞬きあう心の通い路なども在ったりする
ひんぴんと会って
くだらなさを曝けだせるのも悪くない
縛られるのは厭だが
縛るのは尚 厭だ
去らば 去れ

ランボウとヴェルレーヌの友情など
忌避すべき悪例だ
ゴッホとゴーギャンのもうとましい
明朝 意あらば 琴を抱いてきたれ
でゆきたいが
老若男女おしなべて女学生なみの友情で
へんな幻影にとりつかれている

昔の友も遠く去れば知らぬ昔と異ならず
四月すかんぽの花 人ちりぢりの眺め
とは
誰のうたであったか

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茨木のり子さんは、昨年友人から紹介していただいた詩人である

もう、なくなられているけれど
サバサバ すっきりした詩=そういう身のこなしや生活をなされているんだろうと思いました
私とのり子さんが友達なら お互い「寄りかからず」生きていけそうな気がします
寄りかからないけれど、力を借り合って生きていけると思います

「ハングル」を習い始めた少し後に「ハングルへの旅」を読んでこれからの学習が 身近になった気分になりました


明朝 意あらば琴を抱いて来たれ(明朝有意抱琴来)
⇒そうだ、気が向いたら明日の朝、琴を持ってもう一度きてくれ。今度は君の琴を聞きながらいっぱいやろうじゃないか ⇒李白「山中対酌」より



詩 「あけがたにくる人よ」  永瀬 清子

2013年10月26日 | 本・絵本・雑誌
あけがたにくる人よ
ててっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼(あお)くたとえようもなくきびしく
私はいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケットひとつをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに

あけがたにくる人よ
ててっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかに来る人よ
足音もなくて何しに来る人よ
涙流させにだけ来る人よ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は永瀬清子さんをずっと前から知っていました
40年以上も前から・・・

品のいい 鼻の大きなおばちゃま・・・・だけの印象でした
その時 彼女は水色のスーツと大き目の真珠のネックレスをしていました

遠いところから田舎の家まで来て下さった時が1度目
2度目は名古屋のお料理屋さん
今では そのお料理屋も建物だけが残っていて取り壊されるのを待っているようです

永瀬清子さんは この詩を81歳で書かれています
既に去った恋
初めて異性に恋した喜び 
彼を待ち続けたあの時間は帰らない
今彼に会って どうなるものではない 分っている
でも 待ち続けていた時の切なさ 不安 
揺れるこころもちでいたことは忘れ去られずに
今でも覚えている


そんな風に受け取りました

最近 何故だか 詩が気になってきて 
好きになってきたのかも知れません
詩の形態や難しい言葉にこだわっているのは 分かりません
共感したいのに 苦心惨憺するのはイヤです

詩人の中には 少しでも分かりづらくして
普段聞いたこともない言葉をちりばめて 
「どうだ さすがだろう?」と自己満足している人もいるかも 
知れないけれど どうぞご勘弁を

独りよがりや 分かる人だけで 盛り上がっていては困る
私を 詩の世界で飛び回らせてほしい
旅させてほしい
じんわり暖まったり 悔しさや悲しみを共感したい


詩  「慕情」   塔 和子

2013年10月25日 | 本・絵本・雑誌
いったい
なんと名付けたらいいのだろう
この熱いものを
いち日中
食べることさえ
忘れているような
すべてのことは
その夢の外側をすべってゆくような
この現実の中の
私の現実に立ち合う
あなたは
せっぱつまった私のゆきどまり
白々ともゆる心ばかりが
もどかしくはぜ
ゆけない肉体が
重く私をしばる
夜も
昼も
果てしない夢に充血した私を
安らわせるものは
もはや
あなた以外に
なにものもない


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こんな熱い思いを私も かつてした
心だけでなく 身も焦がれて 焦がした
七輪の網の上で のたくりまわってねじれる スルメのように
塔和子さんは 亡くなってしまいましたが
生きてるかぎり 
誰しも 
時を越えて ずっとずっと 
過去の人も 未来の人も
甘美な苦しみを味わうのだと思います