ある時代との対話

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斉藤幸平ノート補足

2022-09-13 15:40:00 | 日記

さて、斉藤先生が言う後期マルクスーつまり進歩史観から脱成長のコミュニズムを目指すマルクスの決定的転機は1868年にフラースとマウラーの本を読んだことにあるらしい。この点は「ルイ・アルチュセールの表現を借りるなら認識論的切断と言ってもいい変化」だそうだ


ただ、マルクスがフラースやマウアーを読んだのは事実であるが、エンゲルス宛の手紙の中で述べているだけで、肝心のノートはいくら探してもマルエン全集にはない。フラースについては手紙の中で三箇所、マウラーについても手紙に数カ所、後はザスリーチ宛の手紙に二ヶ所、エンゲルスが書いた「マルク」「フランク時代」という論文に出ているだけだ。もし、1868年にマルクスがフラースやマウアーを読んで「認識論的切断」を起こしたという論拠になるノートが新MEGAにあるならば是非翻訳してほしい。


今ある資料ではマウラーやフラースを読んで「認識論的切断」をマルクスが遂げたというには証拠不十分なのである。僕は斉藤先生の結論に反対しているわけではない。マルクスがマルク共同体やミール共同体をベースにしたエコロジー社会主義に舵を切っていたというならば全くそれはそれで賛成だ。しかし、やはり学問というには論拠が必要なのである。しかし、新MEGAからの引用もなく斉藤先生は、一挙に1868年の「認識論的切断」から1881年のザスリーチ宛の手紙にワープしてしまう。その間、マルクスはずっと研究室に引きこもっていたかのようだが、70年代マルクス、まだまだ結構仕事を、借金取りに追われながらしているのである。


この時代は1871年パリコミューン、資本論ドイツ語二版、ラシャトル版の刊行、インターナショナルの解散、ドイツ社民党ゴータ大会、etcと大変だったはずだが、斉藤先生は、これら全てをすっ飛ばして81年のザスリーチ宛手紙へとワープする。


ザスリーチ宛の手紙には第一草稿と第三草稿に一箇所づつマウラーの名前があるだけだ。しかも、ザスリーチ宛の草稿、全てフランス語で書かれていたようだ。


さて、ここで先生の窮地を救うべく登場したのが、1975年に決して出版目的に書かれたものでない「ゴータ綱領批判」である。


まず、先生の引用している節を全文引用しよう。


「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働がたんに生活のための手段であるだけではなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって、また生産力も増大し、協同的富 Der Genossenschaftliche Reichtum のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになった後、ーその時初めてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことが出来るー各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」


斉藤教授は、マルクスが書いたとされる?マルク共同体に関する論文にマルクスが普段使わないDer Genossenschaftliche Reichtum 協同的富があり、それがゴータ綱領批判にもあるということを論拠にマルクスが脱成長史観へ変わったという決定的な論拠とする。


しかし、マルク共同体について書いているのはエンゲルスで、マルクスの文章はマルエン全集の範囲内では見つからなかった。ミール共同体はマルクス、マルク共同体はエンゲルスと分業をしていたのではないかと思われる。どちらにせよ、マルクスが書いたとされるノートが新MEGAにあるというならば出典をはっきり示さないとやはり証拠不十分なのである。


ゴータ綱領批判を岩波文庫版で翻訳した望月清二によるとマルクスはGenossenschaftlicheという言葉を普段は使わず、ゴータ綱領批判でただ一箇所ここで使っているだけだと言う。ただ、ゴータ綱領批判のもともとの原文はドイツ社民党内で回し読みされた手紙のようなもので、出版を目的にして書かれたものではない。初めてゴータ綱領批判が出版されたのは、1891年で、マルクス死後、エンゲルスが出版した。エンゲルスも序文で断っているように、その際エンゲルスが手を入れている。そこから類推出来るのは、エンゲルスがこの箇所に手を入れた可能性があるということだ。


ただ、ゴータ綱領批判のこの部分を読んですぐにわかることは、ここは高度の共産主義の話しであり、コモンもアソシエーションも党も国家もなくなった日のことで引用しても斉藤先生の説を根拠づけるものにはなっていないと思われる。


「この一節の意味するところは、コミュニズムによる社会的共同性は、マルク共同体的な富の管理方法をモデルにして、西欧においても再構築されることではないか」202と斎藤教授は自身たっぷりに述べる。が、ゴータ綱領批判のこの節は、高度の共産主義の話しで管理とコミュニズムとかもうなくなった世界の話しなんだってと言いたくなる。





斉藤幸平ノート⑥

2022-09-13 15:39:00 | 日記

ただ、ザスリーチ宛の手紙とそれ以外に共産党宣言1882年ロシア語版の序文は併せて読む必要がある。ザスリーチ宛の手紙も草稿だけではなく、マルクスが推敲を重ねた上でザスリーチに実際に出した手紙から草稿の意味を考えないとよくないと思う。経・哲草稿にせよ、経済学批判要綱にせよ、草稿は草稿で、マルクスは出版目的に書いていない。マルクスのような推敲魔の思想を扱う時には、草稿の十分に推敲されていない表現だけに依拠するのはあまりよくないと思う。草稿からならいくらでも自説を裏付ける表現に出会える。


さて、共産党宣言1882年のロシア語版序文にはこうある。


「ロシアでは、資本主義の狂熱が急速に開花し、ブルジョア的土地所有が発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることがみられる。そこで次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体は、ひどくくずれてはいても、大昔の土地共有の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度な形態に移行出来るであろうか。それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展で行われたと同じ解体過程を辿らなければならないのだろうか?」とマルクスは問う。


その回答は

「この問題に対して今日与えることの出来るただ一つの回答は、次の通りである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命の合図となって互いに補い合うならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展となることが出来る」全集4


つまり、ロシア革命は西欧のプロレタリア革命と補い合わなければならず、単独ではその目的を成就することは出来ないということだろう。この点をマルクスが生産力主義を捨てたと見るか捨てていないと見るかによって議論はわかれる。



斉藤幸平ノート⑤

2022-09-13 15:38:00 | 日記

ここでフランス語版資本論での資本論の改訂からヴェラ・ザスリーチ宛の手紙に至るまでのマルクスの思想のプロセスを知るために、1977年に執筆されたと思われるロシアの「祖国雑記」編集部に宛てた手紙を考察してみたい。


ロシアはいち早く資本論ドイツ語初版を翻訳した。ロシア語版資本論は1872年にダニエリソーン(ニコライ・オン)の手で翻訳され、900部があっというまに売れた。他方、ドイツ語初版は1867年に刊行され1000部すって4年かかってドイツで売れたのは600部。マルクスの著書はドイツよりもロシアで売れ出した。それはマルクス自身も想定していなかったことだ。


それだけに誤解も多くマルクスを困惑させた。しかし、ドイツではさっぱり相手にされなかったマルクスが、ロシアで読まれはじめたことはマルクスを喜ばしたであろう。ドイツ語二版の改訂は、ほとんど第一章に限られているが、同じ時期に構想されたラシャトル版資本論がマルクス自身の手によって全面的に改訂されたのもこのあたりに事情があったと思われる。


ところでロシアで問題になったのはやはり初版序文の「産業上最も発達した国は、産業規模の上でこれに続く国々にたいし、それらの国々自身の未来の姿を示しているに過ぎない」であり、初版第六章の「この収奪の歴史は、国が違えば違った色合いを持っており、まちまちな順序でまちまちな段階を通る。典型的な形態を取るのはイギリスだけであって、だからわれわれはイギリスを例に取ることにする」であった。つまり、この二つの文章の解釈を巡っての論争が始まった。それは、ロシアは資本主義の道を必ず通らなければならないのか、それとも資本主義の道を通らずに社会主義の道に進むことが出来るのかという問題であった。


1975年にラシャトル版の最終巻が出た際にマルクスが「この収奪が根底的に成し遂げられたのは、今なおイギリスだけである。したがって必然的に、この国がわれわれのスケッチのなかでは主役を演じるであろう。だが、西ヨーロッパの他の全ての国も同じ運動を通過する」と改訂した。ラシャトル版で、マルクスは本源的蓄積編で書かれたような歴史の歩みを行うのは、西ヨーロッパだけであると自らの歴史観の及ぶ範囲を西ヨーロッパに限定した。が、また、それはロシア人の知るところとはならなかった。


ところで資本論初版の全訳があるのは日本とロシアだけであるらしい。しかも、初版は、甚だ読みにくい。それをすぐに翻訳し、あっという間に900部が売れたロシアの知識人の革命にかける情熱はすごい。その後、レーニンの時代にはこの初版が今まで通り流通していたのか、二版以降の資本論が新たにロシア語に翻訳されたのかわからないが、興味深い。


こうした事情を背景に、「祖国雑記」編集部への手紙は書かれた。ロシアの中では、反マルクス派が、ロシアは資本主義の道を経ることなく社会主義に至れるという、マルクスと同じ主張の人々で、マルクス派がマルクスの資本論の文言を額面通り受けとったもののマルクスの主張とは違う人々だったのも歴史の皮肉を感じさせる。


マルクスはまず、「ロシアが1861年以来歩んできた道を今後も歩みつづけるならば、ロシアは歴史がこれまでに一国民に提供した最良の機会を失ってしまい、資本主義制度の有為転変の全てにさらされることになるだろう」とし、農奴解放以降のロシアにおける資本主義の発達について、否定的にマルクスが捉えていることを述べる。


まず、マルクスはラシャトル版資本論、第8編、本源的蓄積編から引用し、ラシャトル版でなされた改訂の意味は、資本の創世記に関する記述が西ヨーロッパに限定されていることを述べた上で、その後、「我が批判家は、この歴史的な素描をロシアに対してどのように適用することが出来たでしょうか?」と問い、第一に「ロシアは、あらかじめ農民の大部分に転化することなしに、それに成功しない」と同時に、第二に「ロシアは、資本主義のふところにひとたび引きこまれるや、他の世俗的諸民族と同様に資本主義制度の無慈悲な法則に服従させられるであろう」と書いた後、「西ヨーロッパでの資本主義の創生に関する私の歴史的素描を、社会的労働の生産力の最大の飛躍によって人間の最も全面的な発展を確保するような経済的構成に最後に到達するために、あらゆる民族が、いかなる歴史的状況に置かれようとも、不回避に通らなければならない普遍的発展過程の歴史的哲学理論に転化することが、彼には絶対に必要」とし、それは名誉でもあるが、また恥辱でもあるとした。


しかし、このようにロシアのマルクス賛成派を叱るのは酷である。なぜならロシア人はマルクス自身が書いた資本論初版に基づき自説を述べたからである。ロシア人はラシャトル版の改訂のことなど知らず、歴史観をこのように変えたのはマルクスの方である。ドイツ語初版、二版からラシャトル版への改訂、マルクス自身は自身で改訂したラシャトル版の高みからものを言うが、ロシア人にはマルクスの資本論初版に基づいて自説を展開しているに過ぎない。ここにも歴史の皮肉がある。


やがて、マルクスはロシアマルクス主義には組みせず、ナロードニキ支持を明確にしていく。その中で、改めてミール共同体を研究し、その結実がヴェラ・ザスリーチ宛の手紙、その草稿ということになる。


すでにこの時点で、資本論はマルクスの手から離れ一種の近代社会主義運動の綱領的文書になっていたことがわかる。エンゲルスがなぜラシャトル版の改訂を無視し、ドイツ語版資本論にこだわったのか、この辺りに事情の一端があるように思われる。(つづく)





斉藤幸平ノート④

2022-09-13 15:37:00 | 日記

マルクスが単線的歴史観から複線的な歴史観に変化した決定的な点を著作の上で求めるならば、恐らく1972-73年ぐらいではないかと思われる。


1973年に刊行された資本論第2版ではマルクスは、資本論初版序文を「産業が発展している国は、それほど発展していない国に対して、この自身の未来の姿を示しているだけのことだ」ドイツ語二版5とマルクスはまだ述べている。


しかし、ラシャトル版では

「産業上最も発達した国は、産業規模の上でこれに続く国々にたいし、それらの国々自身の未来の姿を示しているに過ぎない」と訂正している。


「産業規模の上でこれに続く」という文言を挿入することにより、この文章を西ヨーロッパに限定している。この点はラシャトル版でのもっとも重大な改訂であるラシャトル版8編「いわゆる本源的蓄積」編の改訂に対応するためでありドイツ語とフランス語という言語上の表現の問題ではない。したがって、文献史上、著作の上での決定的な転換点はラシャトル版での初版序文の改訂であると言っていい。しかし、公認のマルクス研究者は、エンゲルス版第四版だけを資本論と見なす。ゆえに、この転換点には触れることも出来ないのだ。官許研究者の限界である。


ついでに、改めてたちかえる予定であるが、ラシャトル版資本論での「いわゆる本源的蓄積」の改訂を参考のために引用しておく。ラシャトル版第826章から

「この収奪が根底的に成し遂げられたのは、今なおイギリスだけである。したがって必然的に、この国がわれわれのスケッチのなかでは主役を演じるであろう。だが、西ヨーロッパの他の全ての国も同じ運動を通過する。この運動が、環境にしたがって地域的色彩を変えるか、あるいはもっと狭い範囲内に閉じ込められるか、あるいはさほど目立たない特徴を示すか、あるいは違った順序を辿るにしても。」ラシャトル版資本論315


ヴェラ・ザスリーチ宛の手紙、「祖国雑記編集者への手紙」など全てラシャトル版からマルクスは資本論の文言をフランス語で引用している。さらに、草稿、本文含めフランス語で書いていることは要注意。


ついでに参考までにドイツ語二版から改訂箇所を引用しておく。


「この収奪の歴史は、国が違えば違った色合いを持っており、まちまちな順序でまちまちな段階を通る。典型的な形態を取るのはイギリスだけであって、だからわれわれはイギリスを例に取ることにする」ドイツ語二版745


ドイツ語二版が刊行されたのは1973年、ラシャトル版は弾圧による中断を挟みながら1972年から76年にかけて9分冊で刊行された。ドイツ語初版から二版への改訂作業は、改悪とも言える第一章商品だけなのに対ししかし、ラシャトル版では資本論一巻の改訂作業は全編に及んでいる。ラシャトル版はマルクス自身がフランス語に翻訳したと言っても言い過ぎではない。しかし、この辺の事情がエンゲルス版第4版を聖書のように崇めているマルクス研究者やマルクス主義者の研究ではわからないのが実際のところだ。新MEGA云々よりもマルクス研究者ならマルクスの主著の研究をしていただきたいと思う。


さて、斉藤先生は、「ゴータ綱領批判」を引用しながらこの時期のマルクスはエコ社会主義へと生成変化しており、マルクスは階級闘争や生産力史観や革命やそんなたわごとを言うはずはないと述べておられるが、「ゴータ綱領批判」は出版目的で書かれたものではなくメモ書きのようなものであることをもう一度確認したい。その上で同時期に書かれたバクーニンノートから階級闘争や生産力史観や革命などそんなたわごとをマルクスが忘れてしまったのかどうか見てみたい。この1975年あたりマルクスはほんとうにエコ社会主義に転化したのか興味あるところである。


バクーニンが「どんな民主的形態をそなえていても事実上の独裁となることがわかっているので、この独裁はただ過渡的で短いものに過ぎないと考えることで、自らをなぐさめている」とバクーニンの「国家と無政府」から抜き書きした後でマルクスは、あの巨体のバクーニンに向かって偉そうにこう言う。


「君ー。それは違う。労働者と闘う旧世界の諸階層に対する労働者の階級支配が存続しうるのは、階級の存在の経済的基礎が廃絶されるまでのことである」全集18-645

「共産党宣言等々に反するたわごとにすぎないリープクネヒトの人民国家についてくどくど述べたてている点を別とするなら、これは旧社会を転覆するための闘争の時期には、プロレタリアートはまだ旧社会の基礎の上で行動するのであり、したがってまた、多かれ少なかれ旧社会に属していた政治的諸形態をとって活動するのであるから、この闘争の時期中はプロレタリアートはまだ彼らの最終的体制に到達しておらず、解放のための手段を行使する、ということに過ぎない」


さらに「小学生程度の愚かしさ!徹底した社会革命は、経済的発展の一定の歴史的条件と結びついている、それらの条件は社会革命の前提である。社会革命は、したがって、資本主義的生産とともに工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆のなかで相当な地位を占めるようになったところではじめて可能である」全集18-643と基本的な社会革命の前提になる考え方は述べている。


やはりエコ社会主義はマルクスの社会革命に関する基本的考えとはほど遠いようだ、もちろんそういった視覚がマルクスにないとは言わないが、斉藤先生が目指すエコ社会主義の適任者ではないようだ。


*②について


少し言葉足らずだったので、後日改めて書き直します。ある程度補足を書いておいたので見ていただければ幸いです。


バクーニンの「国家と無政府」を初めて邦訳で読んだ時のことを思い出す。バクーニンのこの本は章立てもなにもなく、最初読んだ時は地図を持たずに深い森の中に足を踏み入れた感覚に襲われた。しかし、その森の中には忘れがたい景色が胸に焼きついた。そして、何度かこの本を読む上でマルクス批判としては一番大切な文献だと思った。今回、マルクスのバクーニンノートを読む上で、バクーニンの本との対照は行えなかった。しかし、また、マルクスが1200部だけ発行され、しかもロシアの亡命者のゴタゴタに巻き込まれバクーニンすら自分の本の校正刷りを読んでいないこのロシア語で書かれた本を手に入れたのか調べたくなった。バクーニンにせよ、プルードンにせよ、マルクスは彼らから逆に最も影響を受けたのではないか。対立面だけが語られるが、共通点を探すことも必要ではないかと思った。


(つづく)


斉藤幸平ノート②

2022-09-07 14:43:00 | 日記

④さて、斉藤先生によるとソ連崩壊もスターリン主義の悲劇もさらに現在、中華人民共和国で続いている共産党独裁もすべてはマルクスのエピゴーネンがマルクスを誤読した結果起こった悲劇であるらしい。


「世間一般でマルクス主義と言えば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろう。実際、日本では、ソ連崩壊の結果、マルクス主義は大きく停滞している。今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうという人は極めて少ない」

そして、マルクスの後期のノートが一部の学者しか知らず、間違ったマルクス研究が行われマルクスが誤解されてきた。

「そして、この誤解こそ、マルクスの思想を大きく歪め、スターリン主義という怪物を生み出し、人類をここまで酷い環境危機に直面させることになった原因といっても過言ではない。今こそ、この誤解を解かなければならないのだ」


つまり、歴史は階級闘争の歴史ではなく、歴史の真の原動力は誤解や誤読にあるということらしい。今、まだ地上に天国が現れないのは、イエスの教えをパウロが誤解したためだということだ。また、仏陀の教えを歪めのちの坊主が仏教を作ったから未だに戦争や貧困が世界中に蔓延しているということだ。一面の真理はあると思うが、マルクスはこういう歴史の見方をしているのだろうか!

そして、マルクス思想の後世のエピゴーネンによる誤解とは何か。


「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」とマルクスが楽観的に考えていた」ということにあるらしい。


しかし、ザスリーチの手紙にせよ、晩年の協同体研究にせよ、共産党宣言ロシア語序文にせよ、斉藤先生よりも、50年前には、玉野井先生や和田先生、平田先生が言っていたし、ザスリーチの手紙は岩波文庫の「農業論集」にひっそり隠れるように載っていた。玉野井先生や和田先生や平田先生のものを今読むと古いかも知れないが、先人の業績が存在するにもかかわらずその点に触れないのはなぜか?天才、斉藤先生には、そんなもの必要なかったのであろうか?斉藤先生よりも50年前に、それらのことを知っていた学者なり活動家はいた。しかし、残念ながら冷戦崩壊は起こった。冷戦崩壊の結果、大学からマルクスは次第に消えていった。この時点で誤解は消えつつあった。にもかかわらず冷戦崩壊は止められなかった。


さらに、晩年のマルクスのノートなどカウツキーですら読めなかった可能性がある。まず、マルクスはロシア語、ドイツ語、英語、フランス語をチャンポンで書いていた。そこにマルクスが調子にのって古典語でも入れていればとても読めた代物ではない。

しかも悪筆。マルクスがまだ生きていた頃でも、マルクスの草稿はマルクス本人と奥さん、それにエンゲルスしか読めなかったらしい。そんなものエンゲルス亡き後誰が読めたというのか。ちなみに資本論初版のドイツ語原書を読んでみるといい。ラテン語から古代ギリシャ語までご丁寧に6各語で書かれている。ドイツ語の翻訳もなく。


ロシア革命後リヤザノフがドイツ社民党の倉庫に眠っていたマルクスの草稿を買い付けるまで、ドイツ社民党の倉庫の奥深くマルクスの草稿は眠っていたに相違ない。(余談だがローザは読んだ可能性があり、経済学入門に取り入れている可能性がある。)が、ドイツ社民党はエンゲルス死後マルクスの草稿のことなど忘れていたであろうし、ロシア革命後、レーニンもトロツキーもマルクスのノートを読んでいる暇はなかっただろう。資本論すら読み返す時間があったかどうか。


文献史的なことを少し書いておくと、ドイツイデオロギーの第一章フォイエルバッハがリヤザノフの手で刊行されたのが1924年、経哲草稿が1931年ーしかもハイデガーの書庫で見つかっている。経済学批判要綱については、1939年に一回幻のように出て1953年ようやく一般の研究者が使える版が出た。資本論についても初版の復刻版は1959年、二版の復刻版は1968年、ラシャトル版はなんと1967年に復刻されている。しかし、これらのマルクスのドイツ社民もレーニンも知らなかった著書や草稿の復刻版を刊行させた力こそは実は人民の階級闘争の結果であるのだ。古代社会ノートなど日本で刊行されたのが1977年だ。


マルエン全集について少し感想を述べておくと、無数のソ連、ドイツ、その他の国々の学者の努力、スターリン時代にマルクスの草稿を無事に残すための勇気、あるいは無償の労働、そして、社会主義に対する夢がなければ不完全とはいえ、全54巻のこんなもの完成することはなかった。命がけでスターリンの目から草稿を守ったソ連の学者や学生の努力があったに相違ない。こういうことを無視して新MEGAの高見から物を言うことに対してはふざけるなと言いたい。


斉藤先生によると、これまでの歴史は誤解の産物である。しかも、マルクス主義については、マルクスの共産党宣言時代の歴史観を疑うことなく誤解していたから、スターリン主義が生まれたということになる。が、その誤解もある時代的制約や民衆の闘いに規定されていたのではないのか?それはともかく、スルタンガリエフやタン・マラカ、さらにマリアテギなど、いかに後進的な農業国で社会主義をつくろうか試行錯誤した活動家もいた。

さらに言えば、左派エスエルなど、ミール共同体に関して言えばザスリーチ宛のマルクスとそう認識は変わらなかったのではないか?僕は今日、マルクスを読むということは、マルクスの思想が生み出してしまった悲劇をこの身に引き受けることでもあると思う。誤解史観で片づけられてはならない。


次回は、ヨーロッパ中心史観から複線的な歴史観にマルクスがどう変わっていったのか簡単に述べてみたい。