④さて、斉藤先生によるとソ連崩壊もスターリン主義の悲劇もさらに現在、中華人民共和国で続いている共産党独裁もすべてはマルクスのエピゴーネンがマルクスを誤読した結果起こった悲劇であるらしい。
「世間一般でマルクス主義と言えば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろう。実際、日本では、ソ連崩壊の結果、マルクス主義は大きく停滞している。今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうという人は極めて少ない」
そして、マルクスの後期のノートが一部の学者しか知らず、間違ったマルクス研究が行われマルクスが誤解されてきた。
「そして、この誤解こそ、マルクスの思想を大きく歪め、スターリン主義という怪物を生み出し、人類をここまで酷い環境危機に直面させることになった原因といっても過言ではない。今こそ、この誤解を解かなければならないのだ」
つまり、歴史は階級闘争の歴史ではなく、歴史の真の原動力は誤解や誤読にあるということらしい。今、まだ地上に天国が現れないのは、イエスの教えをパウロが誤解したためだということだ。また、仏陀の教えを歪めのちの坊主が仏教を作ったから未だに戦争や貧困が世界中に蔓延しているということだ。一面の真理はあると思うが、マルクスはこういう歴史の見方をしているのだろうか!
そして、マルクス思想の後世のエピゴーネンによる誤解とは何か。
「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」とマルクスが楽観的に考えていた」ということにあるらしい。
しかし、ザスリーチの手紙にせよ、晩年の協同体研究にせよ、共産党宣言ロシア語序文にせよ、斉藤先生よりも、50年前には、玉野井先生や和田先生、平田先生が言っていたし、ザスリーチの手紙は岩波文庫の「農業論集」にひっそり隠れるように載っていた。玉野井先生や和田先生や平田先生のものを今読むと古いかも知れないが、先人の業績が存在するにもかかわらずその点に触れないのはなぜか?天才、斉藤先生には、そんなもの必要なかったのであろうか?斉藤先生よりも50年前に、それらのことを知っていた学者なり活動家はいた。しかし、残念ながら冷戦崩壊は起こった。冷戦崩壊の結果、大学からマルクスは次第に消えていった。この時点で誤解は消えつつあった。にもかかわらず冷戦崩壊は止められなかった。
さらに、晩年のマルクスのノートなどカウツキーですら読めなかった可能性がある。まず、マルクスはロシア語、ドイツ語、英語、フランス語をチャンポンで書いていた。そこにマルクスが調子にのって古典語でも入れていればとても読めた代物ではない。
しかも悪筆。マルクスがまだ生きていた頃でも、マルクスの草稿はマルクス本人と奥さん、それにエンゲルスしか読めなかったらしい。そんなものエンゲルス亡き後誰が読めたというのか。ちなみに資本論初版のドイツ語原書を読んでみるといい。ラテン語から古代ギリシャ語までご丁寧に6各語で書かれている。ドイツ語の翻訳もなく。
ロシア革命後リヤザノフがドイツ社民党の倉庫に眠っていたマルクスの草稿を買い付けるまで、ドイツ社民党の倉庫の奥深くマルクスの草稿は眠っていたに相違ない。(余談だがローザは読んだ可能性があり、経済学入門に取り入れている可能性がある。)が、ドイツ社民党はエンゲルス死後マルクスの草稿のことなど忘れていたであろうし、ロシア革命後、レーニンもトロツキーもマルクスのノートを読んでいる暇はなかっただろう。資本論すら読み返す時間があったかどうか。
文献史的なことを少し書いておくと、ドイツイデオロギーの第一章フォイエルバッハがリヤザノフの手で刊行されたのが1924年、経哲草稿が1931年ーしかもハイデガーの書庫で見つかっている。経済学批判要綱については、1939年に一回幻のように出て1953年ようやく一般の研究者が使える版が出た。資本論についても初版の復刻版は1959年、二版の復刻版は1968年、ラシャトル版はなんと1967年に復刻されている。しかし、これらのマルクスのドイツ社民もレーニンも知らなかった著書や草稿の復刻版を刊行させた力こそは実は人民の階級闘争の結果であるのだ。古代社会ノートなど日本で刊行されたのが1977年だ。
マルエン全集について少し感想を述べておくと、無数のソ連、ドイツ、その他の国々の学者の努力、スターリン時代にマルクスの草稿を無事に残すための勇気、あるいは無償の労働、そして、社会主義に対する夢がなければ不完全とはいえ、全54巻のこんなもの完成することはなかった。命がけでスターリンの目から草稿を守ったソ連の学者や学生の努力があったに相違ない。こういうことを無視して新MEGAの高見から物を言うことに対してはふざけるなと言いたい。
斉藤先生によると、これまでの歴史は誤解の産物である。しかも、マルクス主義については、マルクスの共産党宣言時代の歴史観を疑うことなく誤解していたから、スターリン主義が生まれたということになる。が、その誤解もある時代的制約や民衆の闘いに規定されていたのではないのか?それはともかく、スルタンガリエフやタン・マラカ、さらにマリアテギなど、いかに後進的な農業国で社会主義をつくろうか試行錯誤した活動家もいた。
さらに言えば、左派エスエルなど、ミール共同体に関して言えばザスリーチ宛のマルクスとそう認識は変わらなかったのではないか?僕は今日、マルクスを読むということは、マルクスの思想が生み出してしまった悲劇をこの身に引き受けることでもあると思う。誤解史観で片づけられてはならない。
次回は、ヨーロッパ中心史観から複線的な歴史観にマルクスがどう変わっていったのか簡単に述べてみたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます