ある時代との対話

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ある時代との対話(終わり)

2021-07-20 19:24:00 | 日記

 資本論ブームだそうである。以前はリーマンショックの後がそうだった。それは何十冊かの解説書を産んだだけで、リーマンショックが現象的に終息していくと、資本論ブームも終わった。そして、その時出版された何十冊かの解説書はブックオフに暴落して並んだ。リーマンショックの時もしかし、マルクスが書いた本の新しい翻訳、労働者向けのマルクス選集の発行などは伴わなかった。マルクス=レーニン主義の延長で何かが語られていたに過ぎなかった。


今回も書店に行くと、資本論の解説本が増えだしている。しかし、相変わらず資本論ブームといいながら解説書の本の山が出来ているだけで、マルクスそのものの研究はゆっくりした歩みでしか進んでいない。


例えば、2017年にドイツイデオロギーの新MEGA版が刊行され、ドイツイデオロギーの全貌が資料的には出そろった。ブリュッセル時代にマルクス・エンゲルスによってドイツイデオロギーという書物は構想されたのか、されなかったのか、それがマルクスを読む読者の知りたいことだ。新MEGAでドイツイデオロギー、ドイツ語で一次資料として刊行されただけで、それ以来マルクス研究者からは音沙汰がない。新MEGA、一冊3万円の本が二巻本で1800 頁、しかもドイツ語の生原稿のまま、そのままの編集でとても素人に読める代物ではない。しかも、ドイツイデオロギー問題は封印されたままである。


また、資本論についても今読むことの出来る資本論は、国民文庫か、岩波文庫、新日本出版から出ているエンゲルス版四版だけだが、資本論一巻には、マルクスが自分の手で刊行した違うバージョンの資本論がある、ドイツ語初版、二版、ラシャトル版である。僕も出来るだけ比較して見たが、二版と現行版も食い違う箇所があり、マルクスが自身で最終校正をしたラシャトル版の重大な改訂箇所がエンゲルス版では二版のままの記述になっている。最低、ドイツ語二版とラシャトル版の比較はされなければならないがそれすらされていない。 


こうした基礎研究を掘ったらかして、解説本を量産することは、それこそ資本論をねたにした商品を量産することに等しいのではないか。が、やがて暴落、ブックオフに並ぶことになる。そして、資本主義の冷酷さを実際に証明する。それはもう漫画であり、マルクス=レーニン主義の焼き直しであり、もうそんなことをしても誰も一般の人は振り向かないのではないか?


面白いのが、新左翼の人びと。この連中ときたら資本論一巻にいろんなバージョンがあること、二巻、三巻はエンゲルス著と言ってもよく、マルクス死後エンゲルスがマルクスの決して完成されていない草稿からなんとか仕上げたものだが、そういうことも知らず、時代の最先端を走っていると思い込み次々と新しい横文字の思想の読書会を行うか、マルクス=レーニン主義に先祖帰りしているかのどちらかのようである。


さて、僕自身はいろいろ因果がありマルクスの資本論に今後もこだわりたいと思うが、しかし、やはりマルクスだけでは時代は読み解けないのではないかと思っている。また、一個人の思想にそれだけの重みをもたせるのは危険である。当たり前の話しではあるが。


それで、今、2019年に刊行され、すぐに買ってそのままほっておいた「カール・ポランニー伝」を読み始めた。カール・ポランニーも日本に紹介されて半世紀たってようやく研究書も出て、伝記的事実も知れるようになった。また、ポランニーの絡みでカール・メンガーの「経済学原理」の初版と二版を読み比べて見たい。限界効用革命の当事者が後に限界効用革命を否定したならばそれは面白いと思う。


自分なりにマルクスを読んできて得たものも大きいが、それは、学ぶということだったように思う。マルクスの中には社会主義の体系などないーマルクス本人も書いているがーただ、あるのはマルクスはシューベルトの交響曲の名前と同じで未完成だということだ。


ある時代との対話⑦

2021-07-16 16:52:00 | 日記

 「資本家的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集まり」として現れている。したがって、この富の基本形態である商品の分析は、われわれの出発点である」


マルクスは財一般でもなく、富でもなく商品から資本論を始める。資本主義が支配する社会の中では商品なくして生きていけず、また、自らも商品にならざるを得ない。


第一章商品章を、二版以降マルクスは商品から貨幣の生成史として書き換えたために、私もそうだったが、多くの読者がここに貨幣論を読みこんでしまったきらいがあった。しかし、初版資本論を読む限り、第一章商品にあたる箇所に、貨幣形態は出てこない。つまり、マルクスは商品そのものを問題にしている。


では、商品とは何か〜「商品の価値が持つ実在は、つかみどころがないという点では、フォルスタッフの女友達である寡婦クイックリーとは違っている。商品体のもつかさばりとは極度に対照的に、商品の価値の中には自然素材が微塵も入り込んでいない。したがって一つ一つの商品はどういじりまわしても、価値物としては捉えどころがない」


「商品は一見したところでは、ありふれた自明のもののように見える。これとは反対に、われわれの分析が示すところでは、商品は形而上学的な精密さと神学的なうわべの飾りにみちた極めて複雑なものである」商品とは形而上学的、神学と同様、実は人間が作り出した訳の分からないものである。


商品を財一般から区別するものは、その使用価値性ではなく、価値である。すべては使用のために作られるのではなく、価値を増やすために作られる。社会全体が商品生産になることによって、社会全体が逆立ちし、倒錯する。


価値という「この共通なあるものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的などといった、何か自然素材ではありえない。商品の自然的特性は、それがこの商品に、使用価値を産む有用性を与える限りでのみ考察される」


商品の自然的属性が問題になるのは商品を有用物にし、使用価値が問題になる時だけである。しかし、商品の価値は、商品からの使用価値の捨象によって初めて成り立つ。ただ、ここで一言挟んでおけば資本主義の限界は使用価値であり、商品の肉体であり、素材である。価値だけではヘーゲルの概念と同じように空中に漂うしかない。「富の社会的形態がどうあろうとも、使用価値は、富の素材をなしている。われわれが考究する社会では、それは同時に交換価値の素材的担い手である」ラシャトル版邦訳4つまり、資本主義に外部あるいは限界は存在する。


「商品の使用価値がひとたびわきに片づけられると、商品には一つの特性、労働生産物という特性しか残らない。しかし、労働生産物そのものが我々の知らない間に変態されている。もし、我々が労働生産物の使用価値を捨象するならば、労働生産物に使用価値を与えているあらゆる物質的ならびに形状的な要素も、同時に消滅する…………したがって、もはや、これらの労働に共通な性格しか残らない。これらの労働はすべて同じ人間労働に、人間労働の支出に、人間労働力が支出された個々の形態に関わりなく、還元される。」


「さて、労働生産物の残留物を考察しよう。どの労働生産物にも、幽霊のような実在がある。これらすべての物体は同一の昇華物、同じ無差別な労働という原器に変態されて、もはや一つのことしか表さない。すなわちこれらの物体の生産には人間労働力が支出されたということ、そこには人間労働が積み重ねられているということである。この共通な社会的実体として、これらの物体は価値である」


価値あるいは価値実体という概念は何かと言われた場合、マルクスは商品の使用価値を捨象した後に残る商品に共通ななにものかであり、それを抽象的人間労働の結晶と言っているが、さらにそれは幽霊のような実在と言っている。マルクスが価値実体と、わざわざスコラ哲学の実体Substanz を使ったところなど、そしてそれを幽霊だと言っているところなどは半分悪ふざけをしたのではないかと僕は思っている。実体とはそれ自身で自足するものであり、神さまのことだ。このあたりマルクスの初期の歴史的に形成されたキリスト教批判が生き残っているのではないかと思う。要するに資本主義の神さまである価値は幽霊だと言いたいのだろう。その幽霊に翻弄され金儲けに走る人間を嘲笑っている感じがする。


その価値という幽霊は、それ自体一つの商品をいくら眺めていても見いだせない。なぜなら幽霊だからだ。価値形態論は、だから必要とされた。要するに商品の価値は売れてみて初めて分かるのであり、ここでマルクスは価値形態をとく。二商品の価値関係の中で等価形態の位置に置かれた商品は、その自然の姿のまま相対的価値形態の価値を表現する。ここでは私的労働が社会的労働に転化し、具体的労働が抽象的労働に、さらに、使用価値が価値になる。

マルクスは、商品によって表される労働の二要因で、使用価値形成労働と価値形成労働に商品を形成する労働を二面性を持つものとして浮き彫りにした。


「最初、商品はわれわれにとって、使用価値と交換価値という二面性を持つものとして現れた。次いで、われわれが見たように、生産労働が厳密な意味で価値のうちに表現されているこういう労働の二重性格を浮き彫りにして見せたのは私が最初である。経済学はこの点をめぐって研究するものであるから、ここではもっと詳細な細目に立ち入らなければならない」


使用価値形成労働は、「労働は、それが使用価値を生産し、有用である限りでは、どんな社会形態にもかかわりなく、人間の実存条件、永遠の必然性、自然と人間の間の物質代謝の媒介者である」

この点が未来社会に向けての出発点である。その時こそ働かないでたらふく食えるのである




②商品とは、分析して見ると、形而上学的詭計に満ちた神学的な意地悪さでいっぱいの代物であるとは最初に見たマルクスの言葉だが、商品経済の中では、価値実体という幽霊に踊らされて使用対象としての商品に支配されるばかりか自分自身まで商品にならなければ生きていけない。資本主義など逆立ちした、倒錯した社会なのだ。つまり商品そのものが問題なのだから純粋な市場経済やまともな資本主義などあるわけではない。


「労働生産物が商品形態を帯びるや否や、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?明らかにこの形態そのものからである。


人間労働の同等性という性格は、労働生産物の価値という形態を獲得する。継続時間による個別労働の測定は、労働生産物の価値量という形態を獲得する。最後に、生産者たちの労働の社会的性格がその中で確認されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を獲得する。このことが、これらの生産物がなぜ商品に、すなわち火を見るより明らかで、しかもそうではないもの、あるいは社会的なものに変換するかの理由なのである………


この場合人間にとって諸物相互の関係という幻想的な形態を取るものは、たんに人間相互間の特定の社会的関係であるにすぎない。この現象に類似したものを見出すためには、それを宗教的世界という曇った領域のうちに求めざるを得ない。そこでは人間の頭脳の産物が、それぞれ特殊な体躯を附与されて人間との交渉やこれら産物相互間の交渉を行うところの独立な存在、という外観を呈する。商品世界における人間の手の生産物についても同じである。労働生産物が商品として現れるやいなや労働生産物に付着する物神崇拝、すなわち、この生産様式に、不可分の物神崇拝、と名づけることの出来るものなのだ」ここで物神崇拝と翻訳されているドイツ語はFetischismusである、呪物崇拝でもいい。


引用ばかりで恐縮だが、ラシャトル版からの引用なので読みやすいと思われる。僕が下手な説明をするよりもマルクスに語らせた方がいいと思われた。しかし、ドイツ語二版にあってラシャトル版にない表現がひとつあった。

 phantasmagorischeという表現で、幽霊ショーのことらしい。マルクスは資本家的生産様式を幽霊ショーになぞらえている。幽霊がうようよいて毎日幽霊ショーを繰り広げている世界である。商品もまた幽霊であり、それを物神崇拝しなければならない世界というわけである。



「労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定される場合にかぎられる。価値量は生産者たちの意志や予測にかかわりなく不断に変化し、したがって、彼ら自身の社会的運動が彼らの目には物の運動という形をとる…………私的労働の生産物の偶然的な、いつも可変的な交換比率においては、その生産に必要な社会的労働時間が規制的な自然法則として力ずくで勝利をしめるからであり、このことは、家が頭上に落ちてくれば誰にでも重力の法則が感じられるのと同じである。従って労働時間によって価値量が決まるということは、商品の価値の表面的な運動の背後に隠された秘密である」


人間と人間の関係が物の形をとって、人間の手の産物が、商品として現れるやいなや、人間を支配し、物神崇拝を生み出すのは、商品の表面的な運動の背後に規制的な労働時間、価値実体が働くからである。価値増殖のための生産様式に於いては、すべてはひとのための生産ではなく、価値増殖のための生産に変わる。この商品生産におけるフェテイシズムは、つまり、商品の支配であると同時に、商品内部に存在する価値による内面の支配を生み出す。


「労働生産物は価値としてはその生産に支出された人間労働の純粋にして単純な表現である。という後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時期を画するものであるが、労働の社会的性格を物の性格、生産物自体の性格として出現させる幻影を、少しも一掃するものではない。この特殊な生産形態、つまり、商品生産にとってのみ真実であるものーすなわち、この上なく多様な種類を持つ労働が、同じ抽象的人間労働としてそれらの同等性のうちに成り立っていること、そして、また、この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていることーこの事実は商品生産の機構と関係にとらわれている人間にとっては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実のように見える」



「ブルジョア経済学のカテゴリーは、それらが現実の社会的諸関係を反映する限り、客観的な真理を持つ知性形態であるが、これらの諸関係は、商品生産が社会的な生産様式であるような特定の歴史時代にしか属していない。われわれがべつの生産形態を考察すれば、現代において労働生産物を覆隠しているこの神秘性はまるごと、たちどころに消え失せるであろう。」と言ってロビンソン物語に入っていく。


「最後に、共同の生産手段を用いて労働し、協議した計画にしたがって多くの個別労働力を同一の社会的労働力として支出するような自由人たちの集まりを描くことにしよう。ロビンソンの労働についてすでに述べたことはどれも、ここでは再現されている。が、それは社会的にであって、個別的ではない。ロビンソンの生産物はすべて、彼の個人的で占有的な生産物であり、したがって、彼のために直接的な有用性を持つ物品であった。結合した労働者の全生産物は、ひとつの社会的生産物である………


マルクスは、まず難破した船でのロビンソン個人の労働を描き、中世社会、家族内労働、さらに未来社会を考察することによって富が商品形態をとらなくても、社会が再生産されることを示した。

(蛇足だが、最後に引用した箇所はアソシエーション論の論拠として使われているが、ドイツ語初版、二版ではVereineが使われており、ラシャトル版でも、associationは使われていなかった。団体ぐらいの意味だろう。)


マルクスは、「宗教界は現実世界の反映にほかならない、労働生産物が一般に商品形態をとる社会、したがって、生産者たちのあいだのもっとも一般的な関係が彼らの生産物価値を比較することから成り立ち、またこの関係が諸物のこういった外皮のもとで彼の私的労働を同等な人間労働として相互に比較することから成り立っている社会、このような社会は、抽象的な人間を礼拝するキリスト教、とりわけプロテスタントや理神論等というキリスト教のブルジョア的な典型のうちに、最もふさわしい宗教的補足物を見出している…………一般的に言って現実世界の宗教的反映は労働と実際生活との諸条件が人間にとって、対同類、自然の透明で合理的な関係を、目に見えるようにする時に初めて消滅するであろう。」


商品世界の夢幻から脱出するには如何なる方法があるのか?


「物資的生産とそれに含まれている諸関係にもとづく社会生活は、自由に協力し、意識的に行動し自分自身の社会運動の主人公となった人間の仕事が、そこに現れる日にはじめて、その姿を覆い隠す神秘的な雲から解放されるであろう。だが、そのためには、社会内にひとそろいの物資的存在条件が必要であるが、この存在条件自体が、長くて苦悩にみちた発展の産物でしかありえない」ラシャトル版邦訳55


これにつけ加える言葉を僕は持たないが、資本主義が夢幻の世界で有れば、どうやってその夢まぼろしをみぬくことが出来るのかということで、昔、いわゆる物象化論について論争した。物象化ーマルクスはこの第一章でその言葉は使っていないーはどうすれば認識できるのかということを論争していた記憶がある。


サボる哲学のアナキスト栗原先生も述べるように、サボればいいのであるーと言ってもみんなでサボる必要があるのだが………


さて、最後に引用したのはラシャトル版資本論からであるがドイツ語二版では次のようになっている。ラシャトル版のマルクスの改訂を無視し、二版の記述をそのままにした現行版の編集の罪は大きいと言うべきであろう。よく読み比べて欲しい。


「社会的な生活過程の姿、すなわち物資的な生活過程の姿は、それが自由に社会化された人間の産物として、人間の意識的に計画された制御のもとにおかれるや否や、初めてその神秘的な霧のヴェールを脱ぎ捨てる。しかし、そのためには、社会の物資的な基礎または一連の物資的な存在条件が必要なのである。これらの条件そのものは、長くて苦悩に満ちた発展の歴史の、自然発生的な産物なのである」ドイツ語二版68


ある時代との対話

2021-07-11 20:21:00 | 日記

 資本論にはマルクスがドイツ古典哲学を受けついでいることから、ある種の難しさがある。哲学の本はよく日常語で書かれているから原書で読めばわかりやすいと言われる。ただ哲学が日本には明治以前にはなかった学問であり、哲学用語の中にはプラトンやアリストテレスの時代からはるばる旅をして近代にやってきた用語もある。そういう用語が現代では日常語として使われていても、学問的に使われた場合、難しい場合がある。そういう哲学固有の難しさがあることは事実だと思う。これは原書で読んでも同じだと思う。


例えばphilosophy だが、普通は哲学と翻訳され誰もそれを疑わないが、philosophy ー実は知を愛するという類の意味らしい。西周がphilosophy を哲学と翻訳したのはどうもオランダ留学中にヘーゲルの精神現象学を読んで、ヘーゲルが哲学を学問に高め云々と述べているところからphilosophy を哲学と翻訳してしまったらしい。Religion が宗教と翻訳されているが、宗教はもともと仏教の中の言葉で、仏教の上位の概念としての宗教一般をさすのに相応しい言葉とは言えないと思うが、それでずっと通ってきてしまっている。またReligionのラテン語のReligioは、もともとキリスト教の宗教儀式をさす言葉らしい。誤訳だとかそういうことをあげつらいたいわけではなく、もともと横文字を日本語にうつしきれない固有の困難があり、その点を考えながらマルクスでもカントでも読んだほうがいいと思われる。


資本論では、最初に価値実体だとか価値形態とか日本語にはない言葉が出て来てこれに惑わされる。価値実体は、Wert Substanz . 価値はドイツ語ではWert.英語ではvalue.

実体は、Substanz だがこの言葉、実体以外にも内容、実質、物資などの意味があり、一番苦労させられる商品章を読む場合、実体以外にも、内容や物資などに置き換えて読んで見るとわかりやすいと思われる。またアリストテレスのウーシアからはるばるラテン語、ドイツ語になってきた言葉でその辺の意味も考えると面白い。スコラ手紙では神さまの意味になったこともある。


さて価値形態はWert form で英語ならvalue from.

form はなぜか形態という仰々しい訳語をあてられているが、形式という意味もあり、形のフォーム。実体、形態などと最初から出てくると誰しも訳文で辟易させられるのだが、価値形態なら価値の形式ぐらいに読み変えて読んでみると腑に落ちるかもしれない。


マルクスの資本論と言えば科学と言われているが、この科学、ドイツ語ではWissenschaft という言葉が使われており、Science とは互換性はないらしく、自然科学の意味での科学として使うとわかりにくくなる。資本論には政治経済学批判との副題もついていて、むしろ科学批判の文脈で読めばわかりやすいのではないかと思う。


資本論の翻訳についてどれがいいのか、よくわからないが、岡崎次郎訳、などが文庫でも手に入り読みやすいのではないかと思われる。


ある時代との対話⑤

2021-07-05 19:04:00 | 日記

 ⑤

マルクスの「資本論」に入る前に、(と言っても第一章「商品」だけ〜全てについては僕の手には追えない〜)簡単に資本論という本について述べておきたいことがある。というのは、2巻、3巻はエンゲルス編集ということでだいたいそういう理解になっているが、一巻についても実はいろんなバージョンがあり、それについて簡単に述べておきたい。 


マルクスが生前刊行した資本論は第一巻だけで、ドイツ語版は、1867年に初版が、1872年に二版が刊行され、さらに18721876 年にかけてフランス語版資本論がほぼマルクスの手で翻訳されて世に出ている。しかし、今、世の中の書店で買えることが出来、読むことが出来るのは1890年にエンゲルスが刊行したエンゲルス版第四版をベースにしたデイーツ版と呼ばれている資本論。ところでエンゲルス版第四版は、スターリン時代に政治的に資本論第一巻においても定本とされ、それ以来資本論第一巻は他のマルクス自身が刊行したヴァージョンがあるにもかかわらず現行版でいいとされてきた。


しかし、例えば、ドイツ語二版と最後のマルクス刊行の資本論、フランス語版と比べてみると、資本論一巻全体に改訂作業はなされており、特に最後の本源的蓄積章においては相当重大な中身まで改訂されているにもかかわらず、フランス語版の改訂はマルクス自身の改訂であるにもかかわらず、従来から見過ごされてきた。


初版から二版に至る過程でも主に商品章を中心に書き換えが行われており、ドイツ語初版、二版、フランス語版のそれぞれの研究、さらには、それぞれを比較した研究は不可欠であるのに、皆無である。


例えば、ドイツ語初版、二版、フランス語版の章立てを書いて見る。


初版では、六章(章は現行版の編におおよそ対応する)のみという非常にシンプルなものになっていて、さらに小見出しも何もないので読みにくいことこの上ない。にもかかわらず、マルクスの当初の資本論に込めた意気込みが伝わり、資本論が何であるのかがよく分かる資本論である。


ドイツ語二版は、現行版にもっとも近い形の資本論で、725章になっている。


ところがフランス語版になると833章になっており、本源的蓄積章が編へと格上げされている。従来、資本論の議論というと重箱の隅をつつく瑣末な議論が多かったので、細かいことははぶくが、初版から二版、二版からフランス語版の改訂について、専門とする学者の手で今後研究が進むことを期待したい。


世の中は、またまた資本論ブームらしいが、こういう基礎研究を掘ったらかしにしてエンゲルス第四版をまだ使っているということ自体が資本論研究が商業主義あるいは資本主義に迎合していると言われてもおかしくはない。


最近、白井聡氏、斎藤幸平氏が資本論についての解説を書かれたが、一巻には違うバージョンがあり、それがマルクスの手で公刊された資本論であることを知っていながら現行版を使うというのは学者としての誠実さにかけるところがあるのではないか。僕は立ち読み程度しかしていないので、お二人の書物については論じる資格はないが、それにしてもやはりテキストについてはもう少し厳密さが必要ではないかと思われる。


ある時代との対話⑤

2021-07-04 18:08:00 | 日記

⑤「存在と時間」冒頭に「私たちの時代は「形而上学」を再び肯定することを進歩のひとつに数えている。それなのに、右に挙げた問いは今日では忘れられている。「存在ウーシアを巡る巨人たちの戦い」を新たに焚きつける努力など自分たちのあずかり知らぬところと高をくくっている」とあり、この本の問いが「存在の問い」であることを明らかにしている。


しかし、序論部で書かれている「存在の問い」は、「存在と時間」第一編、第二編を読んでもその後最後まで出てこない。呆気に取られていたが、この本は第七版までは、前半部とあり、後続する巻が「存在への問い」に答えるはずであった。「存在と時間」序論の最後に「存在と時間」の全体の目次が書かれているが、それで見ると現在「存在と時間」として出ている書物は、当初構想されていたものの、半分ほどであることがわかる。


「第一部

 ①現存在の準備的な基礎分析

 ②現存在と時間性

 ③時間と存在

 第二部

 ①カントの図式論と時間論は時節性をめぐる問題構成の前段階である

 ②デカルトの「われ考える、われ有りの存在論的基礎 考える物の問構       

  成の中には中世存在論が取り込まれている。

 ③アリストテレスの時間論は、古代存在論の現象的基盤と限界を見極め    

  る基準である」

  となっており、既刊部は第一部の①と②であることがわかる。だから「存在と時間」をいくら読み進めても存在への問いには行きあたらない訳だ。

ハイデガーの「存在と時間」という本の題に惹かれて「存在と時間」を買い求め読んだものの肝心のところに行くまでで終わっているという話しを後で知り唖然とした記憶がある。


木田元の「ハイデガーの思想」という岩波新書の本に「存在と時間」の種明かしのようなものが書かれてあり、それで納得がいった。もちろん、今は簡単に書いているが、木田さんの本やいくつかのハイデガーの本などを読んでおそらくそうだろうという感じでわかったという次第である。


ハイデガーには「現象学の根本問題」という講義録があり、それが「存在と時間」の書かれなかった後半部だと言うことだった。ハイデガー全集が1976年に刊行された時も現象学の根本問題が第一回配本になっており、ハイデガーも「現象学の根本問題」にはなみなみならぬ力を注いでいたようだ。当時、創文社からハイデガー全集が続々と公刊されていたが、「現象学の根本問題」は未だ刊行されていなかった。しかし、1930年代のニーチェ講義やシェリング講義など講義録も「存在と時間」の後半部を補うものだと教えられこれらの講義録も熱心に読んだ。


冒頭「存在ウーシアを巡る巨人の戦い」という文句をあげたが、ウーシアとはアリストテレスまで遡る用語で、それがやがてラテン語でSubstantia. ドイツ語のSubstanz 実体という意味に変わってくる。実体とは神さまのことで、アリストテレスの時代には単純に存在と捉えられていたウーシアが、ラテン語、ドイツ語、近代語になるに従い元の意味から離れ神さまに変わっていく。ハイデガーはそれをひっくり返すことで、西欧の歴史全体をひっくり返そうとしたのではないかと推測される。


創世記の批判だと思われるが、無から世界創造があったのか、もとからあった素材が変わったのか、世界の始まりの捉え方ひとつで、われわれの根底には絶対神があるのか、存在ウーシアがあるのか、そこには大きな違いがある。無からの創造を説いているのは歴史的に形成されたキリスト教だけである。


さて、マルクスに話しを戻せば、マルクスは価値実体Wert Substanz という用語を使う。が、わざわざ実体という用語を使うことによりそこにキリスト教的な神学に対する皮肉をこめているように思われる。が、それは後ほど話していきたい。