ここでフランス語版資本論での資本論の改訂からヴェラ・ザスリーチ宛の手紙に至るまでのマルクスの思想のプロセスを知るために、1977年に執筆されたと思われるロシアの「祖国雑記」編集部に宛てた手紙を考察してみたい。
ロシアはいち早く資本論ドイツ語初版を翻訳した。ロシア語版資本論は1872年にダニエリソーン(ニコライ・オン)の手で翻訳され、900部があっというまに売れた。他方、ドイツ語初版は1867年に刊行され1000部すって4年かかってドイツで売れたのは600部。マルクスの著書はドイツよりもロシアで売れ出した。それはマルクス自身も想定していなかったことだ。
それだけに誤解も多くマルクスを困惑させた。しかし、ドイツではさっぱり相手にされなかったマルクスが、ロシアで読まれはじめたことはマルクスを喜ばしたであろう。ドイツ語二版の改訂は、ほとんど第一章に限られているが、同じ時期に構想されたラシャトル版資本論がマルクス自身の手によって全面的に改訂されたのもこのあたりに事情があったと思われる。
ところでロシアで問題になったのはやはり初版序文の「産業上最も発達した国は、産業規模の上でこれに続く国々にたいし、それらの国々自身の未来の姿を示しているに過ぎない」であり、初版第六章の「この収奪の歴史は、国が違えば違った色合いを持っており、まちまちな順序でまちまちな段階を通る。典型的な形態を取るのはイギリスだけであって、だからわれわれはイギリスを例に取ることにする」であった。つまり、この二つの文章の解釈を巡っての論争が始まった。それは、ロシアは資本主義の道を必ず通らなければならないのか、それとも資本主義の道を通らずに社会主義の道に進むことが出来るのかという問題であった。
1975年にラシャトル版の最終巻が出た際にマルクスが「この収奪が根底的に成し遂げられたのは、今なおイギリスだけである。したがって必然的に、この国がわれわれのスケッチのなかでは主役を演じるであろう。だが、西ヨーロッパの他の全ての国も同じ運動を通過する」と改訂した。ラシャトル版で、マルクスは本源的蓄積編で書かれたような歴史の歩みを行うのは、西ヨーロッパだけであると自らの歴史観の及ぶ範囲を西ヨーロッパに限定した。が、また、それはロシア人の知るところとはならなかった。
ところで資本論初版の全訳があるのは日本とロシアだけであるらしい。しかも、初版は、甚だ読みにくい。それをすぐに翻訳し、あっという間に900部が売れたロシアの知識人の革命にかける情熱はすごい。その後、レーニンの時代にはこの初版が今まで通り流通していたのか、二版以降の資本論が新たにロシア語に翻訳されたのかわからないが、興味深い。
こうした事情を背景に、「祖国雑記」編集部への手紙は書かれた。ロシアの中では、反マルクス派が、ロシアは資本主義の道を経ることなく社会主義に至れるという、マルクスと同じ主張の人々で、マルクス派がマルクスの資本論の文言を額面通り受けとったもののマルクスの主張とは違う人々だったのも歴史の皮肉を感じさせる。
マルクスはまず、「ロシアが1861年以来歩んできた道を今後も歩みつづけるならば、ロシアは歴史がこれまでに一国民に提供した最良の機会を失ってしまい、資本主義制度の有為転変の全てにさらされることになるだろう」とし、農奴解放以降のロシアにおける資本主義の発達について、否定的にマルクスが捉えていることを述べる。
まず、マルクスはラシャトル版資本論、第8編、本源的蓄積編から引用し、ラシャトル版でなされた改訂の意味は、資本の創世記に関する記述が西ヨーロッパに限定されていることを述べた上で、その後、「我が批判家は、この歴史的な素描をロシアに対してどのように適用することが出来たでしょうか?」と問い、第一に「ロシアは、あらかじめ農民の大部分に転化することなしに、それに成功しない」と同時に、第二に「ロシアは、資本主義のふところにひとたび引きこまれるや、他の世俗的諸民族と同様に資本主義制度の無慈悲な法則に服従させられるであろう」と書いた後、「西ヨーロッパでの資本主義の創生に関する私の歴史的素描を、社会的労働の生産力の最大の飛躍によって人間の最も全面的な発展を確保するような経済的構成に最後に到達するために、あらゆる民族が、いかなる歴史的状況に置かれようとも、不回避に通らなければならない普遍的発展過程の歴史的哲学理論に転化することが、彼には絶対に必要」とし、それは名誉でもあるが、また恥辱でもあるとした。
しかし、このようにロシアのマルクス賛成派を叱るのは酷である。なぜならロシア人はマルクス自身が書いた資本論初版に基づき自説を述べたからである。ロシア人はラシャトル版の改訂のことなど知らず、歴史観をこのように変えたのはマルクスの方である。ドイツ語初版、二版からラシャトル版への改訂、マルクス自身は自身で改訂したラシャトル版の高みからものを言うが、ロシア人にはマルクスの資本論初版に基づいて自説を展開しているに過ぎない。ここにも歴史の皮肉がある。
やがて、マルクスはロシアマルクス主義には組みせず、ナロードニキ支持を明確にしていく。その中で、改めてミール共同体を研究し、その結実がヴェラ・ザスリーチ宛の手紙、その草稿ということになる。
すでにこの時点で、資本論はマルクスの手から離れ一種の近代社会主義運動の綱領的文書になっていたことがわかる。エンゲルスがなぜラシャトル版の改訂を無視し、ドイツ語版資本論にこだわったのか、この辺りに事情の一端があるように思われる。(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます