ある時代との対話

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斉藤幸平ノート①

2022-09-07 14:40:00 | 日記

①先日、用事があり父に電話した。携帯からいきなり「斉藤幸平はどう思う」と声が漏れて、返答に窮した。どう思うもこう思うも読んでいないのだからなんとも言えないのだが、父は斉藤幸平教授の本で学習会をしていたらしい。父はひと言正しいと思わないと言った。


先日から後期マルクスを集中して勉強しており、ついでに「人新生の資本論」を手にとった。以前ブックオフで売っていて、少し読みかけて、本自体が行方不明になっていたが、本棚の本の間に挟まっていた。それで、マルクスについて書いてある箇所だけ読み返した。いかにも秀才という感じのひとで新MEGAの編集もやっている。ただ、結論的に言うとマルクスについて誤解があるのではないかと思った。


マルクスは、革命家である。それと同時にヴェラ・ザスリーチについても誤解があるのではないかと思った。彼女は1876年にトレポフ将軍にピストルから銃弾をお見舞いし、当時、スイスに亡命していた今で言うところのテロリストである。ザスリーチ宛の手紙にしてもマルクスはその点を考慮して推敲に推敲を重ねたと思われる。最終的にザスリーチに出された手紙が簡素な文面になったのもザスリーチの身を案じた結果ではないかと思われる。マルクスが革命家であり、ザスリーチはトレポフ将軍に銃弾をお見舞いした同じ革命家であったという事実は些細なようであるが、この点を実感出来ない斉藤教授は、奇妙なことを言い出す。「


「では、いつ生産力至上主義から脱却して、変貌を遂げたのか。マルクスの理論的転換に大きな役割を果たしたのは、第一章で触れたあのリービッヒだ」。リービッヒを読んだからマルクスはヨーロッパ中心主義から複線的な歴史観に立ったというわけだ。いかにも優秀過ぎる先生の発想だが、違うだろう!


1853年当時マルクスは「なるほどイギリスは、ヒンドゥースターンにひとつの社会革命を引き起こしたさいに、低劣この上ない利害にもっぱら突き動かされていたし、その利害を追及するやり方もおろかであった。だが、そんなことは問題ではない。問題なのは、アジアの社会状態における根本革命なしに人類は自らの使命を果たせるかということである。果たせないのであれば、イギリスはどんなどんな罪を犯しているにせよ、この革命を実現することでそれと意識しないままに歴史の道具となったのである」筑摩マルクスセレクションと書いていた。


しかし、数年後セポイの反乱に遭遇する中でヨーロッパ中心主義から徐々に離れていく。


「このセポイの行為がどれほどいとうべきであるとしても、それはイギリス自身が、その東方帝国の建設期ばかりではなく、長い統治を経た後の最近の10年間においてさえ、インドで行ってきた行為の圧縮した反映に過ぎない……フランスの君主性に加えられた最初の打撃は、農民からではなく貴族からやって来た。インドの反乱を始めたものは、イギリス人から苦しめられ辱められ身の皮まで剥ぎ取られたインドのライヤトではなく、イギリス人から衣食住を受け可愛がられ肥え太らされ甘やかされたセポイからであった」マルエン全集12271


セポイの反乱に接する中でマルクスはマルクスのそれまでの歴史観を変えていくきっかけを見いだす。マルクスにヨーロッパ中心主義の限界を気づかせたのはイギリス植民地支配に対するインド人民の闘いなのである。マルクスはリービッヒやフラースを読んだからその歴史観を変えたわけではなく、インド、中国、アイルランド、あるいはポーランド、カフカズの山間の要塞のムスリムのロシアに対する闘いが、マルクスがリービッヒやフラースの問題意識を吸収していくきっかけになるのである。後期マルクスといえどもマルクスの念頭にあったのは常に「階級闘争」なのである。


②さて、本論に入る前にさらに述べておかなければならないことは、斉藤教授は新MEGA云々と言う割には、その資料の扱いが雑であることである。

まず、氏が引用する資本論は現行版である。が、現行版はマルクスが公刊した最後のドイツ語資本論、二版をベースにエンゲルスがマルクス死後再編集して刊行したものだ。しかし、マルクスは二版刊行後資本論第一巻の全面的改訂版と言えるラシャトル版資本論(フランス語版)を出している。エンゲルスが資本論3版、4版を出す中でラシャトル版のマルクスによる改訂作業をことごとく無視したことは二つの資本論を並べて読めばわかる話しだ。が、なぜ、資本論一巻にすらエンゲルス版とマルクスが生前刊行したドイツ語初版、二版、ラシャトル版があることを述べないのか?新MEGAについては相当な紙数を割いて書かれているが、なぜマルクスが自身で公刊した主著資本論が、長年隠されてきたのか、その事実には触れようともしていない。


氏の資本論からの引用は、二カ所。しかし、どちらもラシャトル版から引用するべき箇所である。


「産業のより発展した国は、発展の遅れた国に対して、ほかならぬその国自身の未来の姿を示している」斉藤167


しかし、ラシャトル版ではこの箇所が大きく改訂されている。


「産業上最も発達した国は、産業規模の上でこれに続く国々に対し、それらの国々自身の未来の姿を示しているに過ぎない」邦訳フランス語版資本論

Le pays le plus développé industriellement ne fait que montrer à ceux qui le suivent sur l’échelle industrielle l’image de leur propre avenir.

ラシャトル版10


斉藤教授は前記の資本論からの引用をマルクスが資本論公刊時にもヨーロッパ中心主義に陥っていた証拠として引用されているが、二版刊行後同時的に薦められていたラシャトル版の刊行作業の中でのマルクス自身の改訂はどう考えるのか。マルクスは、ラシャトル版では初版序文のヨーロッパ中心主義的歴史観に対して限定を付している。


もう一点、資本論からの引用は、「この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の基礎とする個人的所有を作り出す。すなわち協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有を作り出すのである」


Die kapitalistische Produktions- und Aneignungweise , daher das kapitalistische Privateigentum, ist die erste Negation des individuellen, auf eigne Arbeit gegründeten Privateigentums. Die Negation der kapitalistische Produktion wird durch sie selbst, mit der Nothwendigkeit eines Naturprocesses , producirt. Es ist Negation der Negation. Diese stellt das individuelle Eigentum wieder her, aber auf Grundlage der Errungenschaft der kapitalistischen Aera, der Kooperation freier Arbeiter und ihrem Gemeineigentum an der Erde und den durch die Arbeit selbst producirten Produktionsmitteln.ドイツ語二版793


コモンと訳せるドイツ語はない。gemeinsame がそう英訳できるようだが、無理な意訳と言わざるを得ない。全体の論調に決定的に影響を与える引用であるだけにここで意訳があるとご苦労さまーと言わざるを得ない。Gemeineigentum も共有財産でコモンとしてしまうのはどうか?


「資本主義的生産様式および資本主義的奪取様式は、したがって資本主義的私的所有は、自分の労働にもとづく個体的私的所有の第一の否定である。資本主義的生産の否定は、この生産そのものによって、自然過程の必然性をもって生み出される。それは否定の否定である。この否定は個体的所有を再建するが、資本主義時代の成果に基づいて、すなわち自由な労働者の協業なり、土地とか労働そのものによって生み出せる生産手段とかの、自由な労働者の共有なりに基づいて、個体的所有を再建するのである」江夏訳邦訳887


次回はラシャトル版ではどうなっているのか?


L’appropriation capitaliste, conforme au mode de production capitaliste , constitue la première négation de cette propriété privée qui n’est que le corollaire du travail indépendant et individuel. Mais la production capitaliste engendre elle même sa propre négation avec la fatalité qui préside aux métamorphoses de la nature.C’est la négation de la négation. Elle rétablit non la propriété prive du travailleur, mais sa propriété individuelle, fondée sur les acquêts de l’ère capitaliste, sur la coopération et la possession commune de tous les moyens de production, y compris le sol.ラシャトル版342


資本主義的生産様式に適合する資本主義的奪取は、独立した個別労働の必然的帰結にほかならない私的所有の、第一の否定である。しかし、資本主義的生産はそれ自身、自然の変態を支配する宿命によって、自己自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定の否定は、労働の私的所有を再建するのではなく、資本主義時代の獲得物にもとづく、すなわち、協業と土地を含めたあらゆる生産手段の共同占有にとに基づく、労働者の個体的所有を再建する。フランス語版資本論下457


フランス語はよくわからないが、commune がそう読めるかも知れないが、しかし、コモンによる占有などとわかりにくい表現を使うよりも共有もしくは共同所有でいいのではないか。むしろ、ここにコモンを無理に入れることにより、アソシエーションもそうだが、コモンを「新しいコミュニズム」の原理にするつもりなのであろう。が、その発想こそがソビエトマルクス主義への逆戻りであることをここで指摘しておきたい。要するにマルクスが拒否した西欧中心主義の宿痾である普遍主義をもう一度蘇らせる結果になるからである。しかもコモンによる占有というがやはりコモンの誰がどういう形で占有ないし管理するのかという問題があることも指摘しておく。


③もう一点、マルク共同体について書いているのはエンゲルスであってマルクスではないだろう。マルエン全集旧版の事項索引を見てもエンゲルスの書いたものしか乗っていない。新MEGAにあるというならば典拠を示さないと読者に失礼だろう。新MEGAは、われわれ一般の読者には触れることもできない高価な本でしかも大学の図書館にしか置いていない。そうであるからこそきちんと出典を明らかにしないと新MEGAからと言えばどんな出鱈目でも書けることになる。


この「マルク」に出てくるゲノッセンシャフトリッヒという言葉が、「協働体的富」という意味で、普段この用語を使わないマルクスがゴータ綱領批判で使っているらしい。しかも、ゴータ綱領批判では「協働的富」であったものが「協同体的富」として訳され直している。そして、それを論拠として斉藤先生が構想するエコロジー社会主義の論拠とされる。「コミュニズムによる社会的共同性は、マルク協同体的な富の管理方法をモデルにして、西欧においても再構築されるべき」であるという。


ゴータ綱領批判には確かに「労働そのものが、第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展に伴って、またその生産力も増大し、協働的富のあらゆる泉が湧き出るようになった後、ーその時初めてブルジョア的権利の狭い視界を踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことができるー各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて」全集1921


ゴータ綱領批判はもともと出版を目的として書かれたものではなく、エンゲルスが1891年の出版の際に序文で書いている通りブラッケに送られ、ベーベルやリープクネヒトの間で回し読みされた手紙のようなものである。しかも、エンゲルス自身が序文で断っているようにエンゲルスが再編集をしている。


もし、ゲノンセンシャフトリッヒという言葉を普段マルクスが使わないのであれば、「マルク」はエンゲルスが書いたものなのでエンゲルスが手を入れた可能性が高い。どちらにせよ、ゴータ綱領批判のこの箇所は共産主義の高次の段階が述べられている箇所なので富の管理やコモンやアソシエーションもなくなった日のことの話し。斉藤先生の引用する目的には役に立たないと思われる。


ローザ・ルクセンブルクからの手紙

2022-09-04 18:47:00 | 日記

クラウディア・フォン・ヴェールホフは、著書「世界システムと女性」の中で、ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」について、マルクスの「本源的蓄積」という概念を再び新しい文脈で経済学的分析に浮かび上がらせたことを特筆している。


「まもなく私はローザ・ルクセンブルクにぶつかった。その時に私は彼女を新しい目で読むようになっていた。彼女の資本主義分析、とくに植民地と農業セクターにおけるその作用の分析は、私を一度ならず興奮に引き入れた。彼女は本源的蓄積という概念を、明示的に、次のような意味で用いていたのである。すなわち、決して終結していない社会的過程、少なくとも農業セクターと植民地にふりかかっているそのような過程としてである」


ただ、ローザ・ルクセンブルクは、原始的蓄積primitive Akkumulation という概念を資本蓄積論の中で使っていても、マルクスのDig sog.ursprüngliche Akkumulation いわゆる、本源的蓄積という概念は使っていない。この用語上の違いに意味があるのかどうかわからないが、ローザ・ルクセンブルクが、マルクスのいわゆる、本源的蓄積に焦点を当てながら経済学の前提である資本家と労働者からなる純粋資本主義という経済学の虚構の前提を批判していることは間違いない。


クラウディア・フォン・ヴェールホフは、経済学のこうした前提に対して「こうした視点からでは説明出来ない問題がある。それは世界の大多数を占める膨大な人口が、今日にあっても「近代的生産者」の二つのカテゴリーのいずれにも属さず、また「姿を消す」傾向を示していないのはなぜか、という事だ」と。


「これは特に「主婦」としての女性、「農民」としての農業生産者、それに都市と農村における「周辺化された」生産者一般について言える」

そして、クラウディア・フォン・ヴェルールホフは次のように問う


1、かくも多くの人々、世界中の生産者が、どのようにして、なにゆえに、そのような「非近代的」で、「低開発」で、不自由なもっとももっとも惨めなものと思われる条件下でー働き、生活しているのか?


2、マルクスが「本源的ないし原始的蓄積過程」と呼んだものは、たしかに資本主義発展の前提であるに違いないが、しかし、それ以上の条件ではなかったはずである。資本主義が世界システムとして数世紀にわたって膨張し続けたにもかかわらず、この過程が未だに終了していないということは、どのように説明できるのか?と!


そして、ローザ・ルクセンブルクの業績を次のようにたたえる。

「直接的生産者の、生産手段からの強制的分離過程」、ひき続いてこの生産手段が新たな一階級たる資本家の手中に、ないしは「指揮下に」集中する過程、かつての生産者が生産手段から自由になるとともに、自らの労働力を自由に処分しうるようになり、この二重の意味で自由な賃金労働者へと転化する過程、これは実際に起きたことである」と。


マルクスによってその過程は主にイギリスを中心に考察され、ローザ・ルクセンブルクによって世界の植民地化過程の中で再度考察された。


まず、ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」の考察に入る前にマルクスの「いわゆる、本源的蓄積」について最初に考察してみたい。本来ならばラシャトル版から引用するべきだが、僕の趣味でドイツ語初版から引用する。ラシャトル版こそマルクス最終校正の資本論であり、また本源的蓄積章は編に格上げされ、にもかかわらず、エンゲルス版で無視された重要な改訂がなされているが、僕が常に読んでいる資本論はぼろぼろになってしまった初版で、読み慣れた本から引用するのがいいと思ったからだ。ラシャトル版での重要な改訂については引用文を同時に置くこととしたい。


ある時代との対話(終わり)

2021-07-20 19:24:00 | 日記

 資本論ブームだそうである。以前はリーマンショックの後がそうだった。それは何十冊かの解説書を産んだだけで、リーマンショックが現象的に終息していくと、資本論ブームも終わった。そして、その時出版された何十冊かの解説書はブックオフに暴落して並んだ。リーマンショックの時もしかし、マルクスが書いた本の新しい翻訳、労働者向けのマルクス選集の発行などは伴わなかった。マルクス=レーニン主義の延長で何かが語られていたに過ぎなかった。


今回も書店に行くと、資本論の解説本が増えだしている。しかし、相変わらず資本論ブームといいながら解説書の本の山が出来ているだけで、マルクスそのものの研究はゆっくりした歩みでしか進んでいない。


例えば、2017年にドイツイデオロギーの新MEGA版が刊行され、ドイツイデオロギーの全貌が資料的には出そろった。ブリュッセル時代にマルクス・エンゲルスによってドイツイデオロギーという書物は構想されたのか、されなかったのか、それがマルクスを読む読者の知りたいことだ。新MEGAでドイツイデオロギー、ドイツ語で一次資料として刊行されただけで、それ以来マルクス研究者からは音沙汰がない。新MEGA、一冊3万円の本が二巻本で1800 頁、しかもドイツ語の生原稿のまま、そのままの編集でとても素人に読める代物ではない。しかも、ドイツイデオロギー問題は封印されたままである。


また、資本論についても今読むことの出来る資本論は、国民文庫か、岩波文庫、新日本出版から出ているエンゲルス版四版だけだが、資本論一巻には、マルクスが自分の手で刊行した違うバージョンの資本論がある、ドイツ語初版、二版、ラシャトル版である。僕も出来るだけ比較して見たが、二版と現行版も食い違う箇所があり、マルクスが自身で最終校正をしたラシャトル版の重大な改訂箇所がエンゲルス版では二版のままの記述になっている。最低、ドイツ語二版とラシャトル版の比較はされなければならないがそれすらされていない。 


こうした基礎研究を掘ったらかして、解説本を量産することは、それこそ資本論をねたにした商品を量産することに等しいのではないか。が、やがて暴落、ブックオフに並ぶことになる。そして、資本主義の冷酷さを実際に証明する。それはもう漫画であり、マルクス=レーニン主義の焼き直しであり、もうそんなことをしても誰も一般の人は振り向かないのではないか?


面白いのが、新左翼の人びと。この連中ときたら資本論一巻にいろんなバージョンがあること、二巻、三巻はエンゲルス著と言ってもよく、マルクス死後エンゲルスがマルクスの決して完成されていない草稿からなんとか仕上げたものだが、そういうことも知らず、時代の最先端を走っていると思い込み次々と新しい横文字の思想の読書会を行うか、マルクス=レーニン主義に先祖帰りしているかのどちらかのようである。


さて、僕自身はいろいろ因果がありマルクスの資本論に今後もこだわりたいと思うが、しかし、やはりマルクスだけでは時代は読み解けないのではないかと思っている。また、一個人の思想にそれだけの重みをもたせるのは危険である。当たり前の話しではあるが。


それで、今、2019年に刊行され、すぐに買ってそのままほっておいた「カール・ポランニー伝」を読み始めた。カール・ポランニーも日本に紹介されて半世紀たってようやく研究書も出て、伝記的事実も知れるようになった。また、ポランニーの絡みでカール・メンガーの「経済学原理」の初版と二版を読み比べて見たい。限界効用革命の当事者が後に限界効用革命を否定したならばそれは面白いと思う。


自分なりにマルクスを読んできて得たものも大きいが、それは、学ぶということだったように思う。マルクスの中には社会主義の体系などないーマルクス本人も書いているがーただ、あるのはマルクスはシューベルトの交響曲の名前と同じで未完成だということだ。


ある時代との対話⑦

2021-07-16 16:52:00 | 日記

 「資本家的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集まり」として現れている。したがって、この富の基本形態である商品の分析は、われわれの出発点である」


マルクスは財一般でもなく、富でもなく商品から資本論を始める。資本主義が支配する社会の中では商品なくして生きていけず、また、自らも商品にならざるを得ない。


第一章商品章を、二版以降マルクスは商品から貨幣の生成史として書き換えたために、私もそうだったが、多くの読者がここに貨幣論を読みこんでしまったきらいがあった。しかし、初版資本論を読む限り、第一章商品にあたる箇所に、貨幣形態は出てこない。つまり、マルクスは商品そのものを問題にしている。


では、商品とは何か〜「商品の価値が持つ実在は、つかみどころがないという点では、フォルスタッフの女友達である寡婦クイックリーとは違っている。商品体のもつかさばりとは極度に対照的に、商品の価値の中には自然素材が微塵も入り込んでいない。したがって一つ一つの商品はどういじりまわしても、価値物としては捉えどころがない」


「商品は一見したところでは、ありふれた自明のもののように見える。これとは反対に、われわれの分析が示すところでは、商品は形而上学的な精密さと神学的なうわべの飾りにみちた極めて複雑なものである」商品とは形而上学的、神学と同様、実は人間が作り出した訳の分からないものである。


商品を財一般から区別するものは、その使用価値性ではなく、価値である。すべては使用のために作られるのではなく、価値を増やすために作られる。社会全体が商品生産になることによって、社会全体が逆立ちし、倒錯する。


価値という「この共通なあるものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的などといった、何か自然素材ではありえない。商品の自然的特性は、それがこの商品に、使用価値を産む有用性を与える限りでのみ考察される」


商品の自然的属性が問題になるのは商品を有用物にし、使用価値が問題になる時だけである。しかし、商品の価値は、商品からの使用価値の捨象によって初めて成り立つ。ただ、ここで一言挟んでおけば資本主義の限界は使用価値であり、商品の肉体であり、素材である。価値だけではヘーゲルの概念と同じように空中に漂うしかない。「富の社会的形態がどうあろうとも、使用価値は、富の素材をなしている。われわれが考究する社会では、それは同時に交換価値の素材的担い手である」ラシャトル版邦訳4つまり、資本主義に外部あるいは限界は存在する。


「商品の使用価値がひとたびわきに片づけられると、商品には一つの特性、労働生産物という特性しか残らない。しかし、労働生産物そのものが我々の知らない間に変態されている。もし、我々が労働生産物の使用価値を捨象するならば、労働生産物に使用価値を与えているあらゆる物質的ならびに形状的な要素も、同時に消滅する…………したがって、もはや、これらの労働に共通な性格しか残らない。これらの労働はすべて同じ人間労働に、人間労働の支出に、人間労働力が支出された個々の形態に関わりなく、還元される。」


「さて、労働生産物の残留物を考察しよう。どの労働生産物にも、幽霊のような実在がある。これらすべての物体は同一の昇華物、同じ無差別な労働という原器に変態されて、もはや一つのことしか表さない。すなわちこれらの物体の生産には人間労働力が支出されたということ、そこには人間労働が積み重ねられているということである。この共通な社会的実体として、これらの物体は価値である」


価値あるいは価値実体という概念は何かと言われた場合、マルクスは商品の使用価値を捨象した後に残る商品に共通ななにものかであり、それを抽象的人間労働の結晶と言っているが、さらにそれは幽霊のような実在と言っている。マルクスが価値実体と、わざわざスコラ哲学の実体Substanz を使ったところなど、そしてそれを幽霊だと言っているところなどは半分悪ふざけをしたのではないかと僕は思っている。実体とはそれ自身で自足するものであり、神さまのことだ。このあたりマルクスの初期の歴史的に形成されたキリスト教批判が生き残っているのではないかと思う。要するに資本主義の神さまである価値は幽霊だと言いたいのだろう。その幽霊に翻弄され金儲けに走る人間を嘲笑っている感じがする。


その価値という幽霊は、それ自体一つの商品をいくら眺めていても見いだせない。なぜなら幽霊だからだ。価値形態論は、だから必要とされた。要するに商品の価値は売れてみて初めて分かるのであり、ここでマルクスは価値形態をとく。二商品の価値関係の中で等価形態の位置に置かれた商品は、その自然の姿のまま相対的価値形態の価値を表現する。ここでは私的労働が社会的労働に転化し、具体的労働が抽象的労働に、さらに、使用価値が価値になる。

マルクスは、商品によって表される労働の二要因で、使用価値形成労働と価値形成労働に商品を形成する労働を二面性を持つものとして浮き彫りにした。


「最初、商品はわれわれにとって、使用価値と交換価値という二面性を持つものとして現れた。次いで、われわれが見たように、生産労働が厳密な意味で価値のうちに表現されているこういう労働の二重性格を浮き彫りにして見せたのは私が最初である。経済学はこの点をめぐって研究するものであるから、ここではもっと詳細な細目に立ち入らなければならない」


使用価値形成労働は、「労働は、それが使用価値を生産し、有用である限りでは、どんな社会形態にもかかわりなく、人間の実存条件、永遠の必然性、自然と人間の間の物質代謝の媒介者である」

この点が未来社会に向けての出発点である。その時こそ働かないでたらふく食えるのである




②商品とは、分析して見ると、形而上学的詭計に満ちた神学的な意地悪さでいっぱいの代物であるとは最初に見たマルクスの言葉だが、商品経済の中では、価値実体という幽霊に踊らされて使用対象としての商品に支配されるばかりか自分自身まで商品にならなければ生きていけない。資本主義など逆立ちした、倒錯した社会なのだ。つまり商品そのものが問題なのだから純粋な市場経済やまともな資本主義などあるわけではない。


「労働生産物が商品形態を帯びるや否や、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?明らかにこの形態そのものからである。


人間労働の同等性という性格は、労働生産物の価値という形態を獲得する。継続時間による個別労働の測定は、労働生産物の価値量という形態を獲得する。最後に、生産者たちの労働の社会的性格がその中で確認されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を獲得する。このことが、これらの生産物がなぜ商品に、すなわち火を見るより明らかで、しかもそうではないもの、あるいは社会的なものに変換するかの理由なのである………


この場合人間にとって諸物相互の関係という幻想的な形態を取るものは、たんに人間相互間の特定の社会的関係であるにすぎない。この現象に類似したものを見出すためには、それを宗教的世界という曇った領域のうちに求めざるを得ない。そこでは人間の頭脳の産物が、それぞれ特殊な体躯を附与されて人間との交渉やこれら産物相互間の交渉を行うところの独立な存在、という外観を呈する。商品世界における人間の手の生産物についても同じである。労働生産物が商品として現れるやいなや労働生産物に付着する物神崇拝、すなわち、この生産様式に、不可分の物神崇拝、と名づけることの出来るものなのだ」ここで物神崇拝と翻訳されているドイツ語はFetischismusである、呪物崇拝でもいい。


引用ばかりで恐縮だが、ラシャトル版からの引用なので読みやすいと思われる。僕が下手な説明をするよりもマルクスに語らせた方がいいと思われた。しかし、ドイツ語二版にあってラシャトル版にない表現がひとつあった。

 phantasmagorischeという表現で、幽霊ショーのことらしい。マルクスは資本家的生産様式を幽霊ショーになぞらえている。幽霊がうようよいて毎日幽霊ショーを繰り広げている世界である。商品もまた幽霊であり、それを物神崇拝しなければならない世界というわけである。



「労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定される場合にかぎられる。価値量は生産者たちの意志や予測にかかわりなく不断に変化し、したがって、彼ら自身の社会的運動が彼らの目には物の運動という形をとる…………私的労働の生産物の偶然的な、いつも可変的な交換比率においては、その生産に必要な社会的労働時間が規制的な自然法則として力ずくで勝利をしめるからであり、このことは、家が頭上に落ちてくれば誰にでも重力の法則が感じられるのと同じである。従って労働時間によって価値量が決まるということは、商品の価値の表面的な運動の背後に隠された秘密である」


人間と人間の関係が物の形をとって、人間の手の産物が、商品として現れるやいなや、人間を支配し、物神崇拝を生み出すのは、商品の表面的な運動の背後に規制的な労働時間、価値実体が働くからである。価値増殖のための生産様式に於いては、すべてはひとのための生産ではなく、価値増殖のための生産に変わる。この商品生産におけるフェテイシズムは、つまり、商品の支配であると同時に、商品内部に存在する価値による内面の支配を生み出す。


「労働生産物は価値としてはその生産に支出された人間労働の純粋にして単純な表現である。という後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時期を画するものであるが、労働の社会的性格を物の性格、生産物自体の性格として出現させる幻影を、少しも一掃するものではない。この特殊な生産形態、つまり、商品生産にとってのみ真実であるものーすなわち、この上なく多様な種類を持つ労働が、同じ抽象的人間労働としてそれらの同等性のうちに成り立っていること、そして、また、この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていることーこの事実は商品生産の機構と関係にとらわれている人間にとっては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実のように見える」



「ブルジョア経済学のカテゴリーは、それらが現実の社会的諸関係を反映する限り、客観的な真理を持つ知性形態であるが、これらの諸関係は、商品生産が社会的な生産様式であるような特定の歴史時代にしか属していない。われわれがべつの生産形態を考察すれば、現代において労働生産物を覆隠しているこの神秘性はまるごと、たちどころに消え失せるであろう。」と言ってロビンソン物語に入っていく。


「最後に、共同の生産手段を用いて労働し、協議した計画にしたがって多くの個別労働力を同一の社会的労働力として支出するような自由人たちの集まりを描くことにしよう。ロビンソンの労働についてすでに述べたことはどれも、ここでは再現されている。が、それは社会的にであって、個別的ではない。ロビンソンの生産物はすべて、彼の個人的で占有的な生産物であり、したがって、彼のために直接的な有用性を持つ物品であった。結合した労働者の全生産物は、ひとつの社会的生産物である………


マルクスは、まず難破した船でのロビンソン個人の労働を描き、中世社会、家族内労働、さらに未来社会を考察することによって富が商品形態をとらなくても、社会が再生産されることを示した。

(蛇足だが、最後に引用した箇所はアソシエーション論の論拠として使われているが、ドイツ語初版、二版ではVereineが使われており、ラシャトル版でも、associationは使われていなかった。団体ぐらいの意味だろう。)


マルクスは、「宗教界は現実世界の反映にほかならない、労働生産物が一般に商品形態をとる社会、したがって、生産者たちのあいだのもっとも一般的な関係が彼らの生産物価値を比較することから成り立ち、またこの関係が諸物のこういった外皮のもとで彼の私的労働を同等な人間労働として相互に比較することから成り立っている社会、このような社会は、抽象的な人間を礼拝するキリスト教、とりわけプロテスタントや理神論等というキリスト教のブルジョア的な典型のうちに、最もふさわしい宗教的補足物を見出している…………一般的に言って現実世界の宗教的反映は労働と実際生活との諸条件が人間にとって、対同類、自然の透明で合理的な関係を、目に見えるようにする時に初めて消滅するであろう。」


商品世界の夢幻から脱出するには如何なる方法があるのか?


「物資的生産とそれに含まれている諸関係にもとづく社会生活は、自由に協力し、意識的に行動し自分自身の社会運動の主人公となった人間の仕事が、そこに現れる日にはじめて、その姿を覆い隠す神秘的な雲から解放されるであろう。だが、そのためには、社会内にひとそろいの物資的存在条件が必要であるが、この存在条件自体が、長くて苦悩にみちた発展の産物でしかありえない」ラシャトル版邦訳55


これにつけ加える言葉を僕は持たないが、資本主義が夢幻の世界で有れば、どうやってその夢まぼろしをみぬくことが出来るのかということで、昔、いわゆる物象化論について論争した。物象化ーマルクスはこの第一章でその言葉は使っていないーはどうすれば認識できるのかということを論争していた記憶がある。


サボる哲学のアナキスト栗原先生も述べるように、サボればいいのであるーと言ってもみんなでサボる必要があるのだが………


さて、最後に引用したのはラシャトル版資本論からであるがドイツ語二版では次のようになっている。ラシャトル版のマルクスの改訂を無視し、二版の記述をそのままにした現行版の編集の罪は大きいと言うべきであろう。よく読み比べて欲しい。


「社会的な生活過程の姿、すなわち物資的な生活過程の姿は、それが自由に社会化された人間の産物として、人間の意識的に計画された制御のもとにおかれるや否や、初めてその神秘的な霧のヴェールを脱ぎ捨てる。しかし、そのためには、社会の物資的な基礎または一連の物資的な存在条件が必要なのである。これらの条件そのものは、長くて苦悩に満ちた発展の歴史の、自然発生的な産物なのである」ドイツ語二版68


ある時代との対話

2021-07-11 20:21:00 | 日記

 資本論にはマルクスがドイツ古典哲学を受けついでいることから、ある種の難しさがある。哲学の本はよく日常語で書かれているから原書で読めばわかりやすいと言われる。ただ哲学が日本には明治以前にはなかった学問であり、哲学用語の中にはプラトンやアリストテレスの時代からはるばる旅をして近代にやってきた用語もある。そういう用語が現代では日常語として使われていても、学問的に使われた場合、難しい場合がある。そういう哲学固有の難しさがあることは事実だと思う。これは原書で読んでも同じだと思う。


例えばphilosophy だが、普通は哲学と翻訳され誰もそれを疑わないが、philosophy ー実は知を愛するという類の意味らしい。西周がphilosophy を哲学と翻訳したのはどうもオランダ留学中にヘーゲルの精神現象学を読んで、ヘーゲルが哲学を学問に高め云々と述べているところからphilosophy を哲学と翻訳してしまったらしい。Religion が宗教と翻訳されているが、宗教はもともと仏教の中の言葉で、仏教の上位の概念としての宗教一般をさすのに相応しい言葉とは言えないと思うが、それでずっと通ってきてしまっている。またReligionのラテン語のReligioは、もともとキリスト教の宗教儀式をさす言葉らしい。誤訳だとかそういうことをあげつらいたいわけではなく、もともと横文字を日本語にうつしきれない固有の困難があり、その点を考えながらマルクスでもカントでも読んだほうがいいと思われる。


資本論では、最初に価値実体だとか価値形態とか日本語にはない言葉が出て来てこれに惑わされる。価値実体は、Wert Substanz . 価値はドイツ語ではWert.英語ではvalue.

実体は、Substanz だがこの言葉、実体以外にも内容、実質、物資などの意味があり、一番苦労させられる商品章を読む場合、実体以外にも、内容や物資などに置き換えて読んで見るとわかりやすいと思われる。またアリストテレスのウーシアからはるばるラテン語、ドイツ語になってきた言葉でその辺の意味も考えると面白い。スコラ手紙では神さまの意味になったこともある。


さて価値形態はWert form で英語ならvalue from.

form はなぜか形態という仰々しい訳語をあてられているが、形式という意味もあり、形のフォーム。実体、形態などと最初から出てくると誰しも訳文で辟易させられるのだが、価値形態なら価値の形式ぐらいに読み変えて読んでみると腑に落ちるかもしれない。


マルクスの資本論と言えば科学と言われているが、この科学、ドイツ語ではWissenschaft という言葉が使われており、Science とは互換性はないらしく、自然科学の意味での科学として使うとわかりにくくなる。資本論には政治経済学批判との副題もついていて、むしろ科学批判の文脈で読めばわかりやすいのではないかと思う。


資本論の翻訳についてどれがいいのか、よくわからないが、岡崎次郎訳、などが文庫でも手に入り読みやすいのではないかと思われる。