マルクスが単線的歴史観から複線的な歴史観に変化した決定的な点を著作の上で求めるならば、恐らく1972-73年ぐらいではないかと思われる。
1973年に刊行された資本論第2版ではマルクスは、資本論初版序文を「産業が発展している国は、それほど発展していない国に対して、この自身の未来の姿を示しているだけのことだ」ドイツ語二版5とマルクスはまだ述べている。
しかし、ラシャトル版では
「産業上最も発達した国は、産業規模の上でこれに続く国々にたいし、それらの国々自身の未来の姿を示しているに過ぎない」と訂正している。
「産業規模の上でこれに続く」という文言を挿入することにより、この文章を西ヨーロッパに限定している。この点はラシャトル版でのもっとも重大な改訂であるラシャトル版8編「いわゆる本源的蓄積」編の改訂に対応するためでありドイツ語とフランス語という言語上の表現の問題ではない。したがって、文献史上、著作の上での決定的な転換点はラシャトル版での初版序文の改訂であると言っていい。しかし、公認のマルクス研究者は、エンゲルス版第四版だけを資本論と見なす。ゆえに、この転換点には触れることも出来ないのだ。官許研究者の限界である。
ついでに、改めてたちかえる予定であるが、ラシャトル版資本論での「いわゆる本源的蓄積」の改訂を参考のために引用しておく。ラシャトル版第8編26章から
「この収奪が根底的に成し遂げられたのは、今なおイギリスだけである。したがって必然的に、この国がわれわれのスケッチのなかでは主役を演じるであろう。だが、西ヨーロッパの他の全ての国も同じ運動を通過する。この運動が、環境にしたがって地域的色彩を変えるか、あるいはもっと狭い範囲内に閉じ込められるか、あるいはさほど目立たない特徴を示すか、あるいは違った順序を辿るにしても。」ラシャトル版資本論315
ヴェラ・ザスリーチ宛の手紙、「祖国雑記編集者への手紙」など全てラシャトル版からマルクスは資本論の文言をフランス語で引用している。さらに、草稿、本文含めフランス語で書いていることは要注意。
ついでに参考までにドイツ語二版から改訂箇所を引用しておく。
「この収奪の歴史は、国が違えば違った色合いを持っており、まちまちな順序でまちまちな段階を通る。典型的な形態を取るのはイギリスだけであって、だからわれわれはイギリスを例に取ることにする」ドイツ語二版745
ドイツ語二版が刊行されたのは1973年、ラシャトル版は弾圧による中断を挟みながら1972年から76年にかけて9分冊で刊行された。ドイツ語初版から二版への改訂作業は、改悪とも言える第一章商品だけなのに対ししかし、ラシャトル版では資本論一巻の改訂作業は全編に及んでいる。ラシャトル版はマルクス自身がフランス語に翻訳したと言っても言い過ぎではない。しかし、この辺の事情がエンゲルス版第4版を聖書のように崇めているマルクス研究者やマルクス主義者の研究ではわからないのが実際のところだ。新MEGA云々よりもマルクス研究者ならマルクスの主著の研究をしていただきたいと思う。
さて、斉藤先生は、「ゴータ綱領批判」を引用しながらこの時期のマルクスはエコ社会主義へと生成変化しており、マルクスは階級闘争や生産力史観や革命やそんなたわごとを言うはずはないと述べておられるが、「ゴータ綱領批判」は出版目的で書かれたものではなくメモ書きのようなものであることをもう一度確認したい。その上で同時期に書かれたバクーニンノートから階級闘争や生産力史観や革命などそんなたわごとをマルクスが忘れてしまったのかどうか見てみたい。この1975年あたりマルクスはほんとうにエコ社会主義に転化したのか興味あるところである。
バクーニンが「どんな民主的形態をそなえていても事実上の独裁となることがわかっているので、この独裁はただ過渡的で短いものに過ぎないと考えることで、自らをなぐさめている」とバクーニンの「国家と無政府」から抜き書きした後でマルクスは、あの巨体のバクーニンに向かって偉そうにこう言う。
「君ー。それは違う。労働者と闘う旧世界の諸階層に対する労働者の階級支配が存続しうるのは、階級の存在の経済的基礎が廃絶されるまでのことである」全集18-645
「共産党宣言等々に反するたわごとにすぎないリープクネヒトの人民国家についてくどくど述べたてている点を別とするなら、これは旧社会を転覆するための闘争の時期には、プロレタリアートはまだ旧社会の基礎の上で行動するのであり、したがってまた、多かれ少なかれ旧社会に属していた政治的諸形態をとって活動するのであるから、この闘争の時期中はプロレタリアートはまだ彼らの最終的体制に到達しておらず、解放のための手段を行使する、ということに過ぎない」
さらに「小学生程度の愚かしさ!徹底した社会革命は、経済的発展の一定の歴史的条件と結びついている、それらの条件は社会革命の前提である。社会革命は、したがって、資本主義的生産とともに工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆のなかで相当な地位を占めるようになったところではじめて可能である」全集18-643と基本的な社会革命の前提になる考え方は述べている。
やはりエコ社会主義はマルクスの社会革命に関する基本的考えとはほど遠いようだ、もちろんそういった視覚がマルクスにないとは言わないが、斉藤先生が目指すエコ社会主義の適任者ではないようだ。
*②について
少し言葉足らずだったので、後日改めて書き直します。ある程度補足を書いておいたので見ていただければ幸いです。
バクーニンの「国家と無政府」を初めて邦訳で読んだ時のことを思い出す。バクーニンのこの本は章立てもなにもなく、最初読んだ時は地図を持たずに深い森の中に足を踏み入れた感覚に襲われた。しかし、その森の中には忘れがたい景色が胸に焼きついた。そして、何度かこの本を読む上でマルクス批判としては一番大切な文献だと思った。今回、マルクスのバクーニンノートを読む上で、バクーニンの本との対照は行えなかった。しかし、また、マルクスが1200部だけ発行され、しかもロシアの亡命者のゴタゴタに巻き込まれバクーニンすら自分の本の校正刷りを読んでいないこのロシア語で書かれた本を手に入れたのか調べたくなった。バクーニンにせよ、プルードンにせよ、マルクスは彼らから逆に最も影響を受けたのではないか。対立面だけが語られるが、共通点を探すことも必要ではないかと思った。
(つづく)
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