ある時代との対話

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ある時代との対話⑤

2021-07-05 19:04:00 | 日記

 ⑤

マルクスの「資本論」に入る前に、(と言っても第一章「商品」だけ〜全てについては僕の手には追えない〜)簡単に資本論という本について述べておきたいことがある。というのは、2巻、3巻はエンゲルス編集ということでだいたいそういう理解になっているが、一巻についても実はいろんなバージョンがあり、それについて簡単に述べておきたい。 


マルクスが生前刊行した資本論は第一巻だけで、ドイツ語版は、1867年に初版が、1872年に二版が刊行され、さらに18721876 年にかけてフランス語版資本論がほぼマルクスの手で翻訳されて世に出ている。しかし、今、世の中の書店で買えることが出来、読むことが出来るのは1890年にエンゲルスが刊行したエンゲルス版第四版をベースにしたデイーツ版と呼ばれている資本論。ところでエンゲルス版第四版は、スターリン時代に政治的に資本論第一巻においても定本とされ、それ以来資本論第一巻は他のマルクス自身が刊行したヴァージョンがあるにもかかわらず現行版でいいとされてきた。


しかし、例えば、ドイツ語二版と最後のマルクス刊行の資本論、フランス語版と比べてみると、資本論一巻全体に改訂作業はなされており、特に最後の本源的蓄積章においては相当重大な中身まで改訂されているにもかかわらず、フランス語版の改訂はマルクス自身の改訂であるにもかかわらず、従来から見過ごされてきた。


初版から二版に至る過程でも主に商品章を中心に書き換えが行われており、ドイツ語初版、二版、フランス語版のそれぞれの研究、さらには、それぞれを比較した研究は不可欠であるのに、皆無である。


例えば、ドイツ語初版、二版、フランス語版の章立てを書いて見る。


初版では、六章(章は現行版の編におおよそ対応する)のみという非常にシンプルなものになっていて、さらに小見出しも何もないので読みにくいことこの上ない。にもかかわらず、マルクスの当初の資本論に込めた意気込みが伝わり、資本論が何であるのかがよく分かる資本論である。


ドイツ語二版は、現行版にもっとも近い形の資本論で、725章になっている。


ところがフランス語版になると833章になっており、本源的蓄積章が編へと格上げされている。従来、資本論の議論というと重箱の隅をつつく瑣末な議論が多かったので、細かいことははぶくが、初版から二版、二版からフランス語版の改訂について、専門とする学者の手で今後研究が進むことを期待したい。


世の中は、またまた資本論ブームらしいが、こういう基礎研究を掘ったらかしにしてエンゲルス第四版をまだ使っているということ自体が資本論研究が商業主義あるいは資本主義に迎合していると言われてもおかしくはない。


最近、白井聡氏、斎藤幸平氏が資本論についての解説を書かれたが、一巻には違うバージョンがあり、それがマルクスの手で公刊された資本論であることを知っていながら現行版を使うというのは学者としての誠実さにかけるところがあるのではないか。僕は立ち読み程度しかしていないので、お二人の書物については論じる資格はないが、それにしてもやはりテキストについてはもう少し厳密さが必要ではないかと思われる。


ある時代との対話⑤

2021-07-04 18:08:00 | 日記

⑤「存在と時間」冒頭に「私たちの時代は「形而上学」を再び肯定することを進歩のひとつに数えている。それなのに、右に挙げた問いは今日では忘れられている。「存在ウーシアを巡る巨人たちの戦い」を新たに焚きつける努力など自分たちのあずかり知らぬところと高をくくっている」とあり、この本の問いが「存在の問い」であることを明らかにしている。


しかし、序論部で書かれている「存在の問い」は、「存在と時間」第一編、第二編を読んでもその後最後まで出てこない。呆気に取られていたが、この本は第七版までは、前半部とあり、後続する巻が「存在への問い」に答えるはずであった。「存在と時間」序論の最後に「存在と時間」の全体の目次が書かれているが、それで見ると現在「存在と時間」として出ている書物は、当初構想されていたものの、半分ほどであることがわかる。


「第一部

 ①現存在の準備的な基礎分析

 ②現存在と時間性

 ③時間と存在

 第二部

 ①カントの図式論と時間論は時節性をめぐる問題構成の前段階である

 ②デカルトの「われ考える、われ有りの存在論的基礎 考える物の問構       

  成の中には中世存在論が取り込まれている。

 ③アリストテレスの時間論は、古代存在論の現象的基盤と限界を見極め    

  る基準である」

  となっており、既刊部は第一部の①と②であることがわかる。だから「存在と時間」をいくら読み進めても存在への問いには行きあたらない訳だ。

ハイデガーの「存在と時間」という本の題に惹かれて「存在と時間」を買い求め読んだものの肝心のところに行くまでで終わっているという話しを後で知り唖然とした記憶がある。


木田元の「ハイデガーの思想」という岩波新書の本に「存在と時間」の種明かしのようなものが書かれてあり、それで納得がいった。もちろん、今は簡単に書いているが、木田さんの本やいくつかのハイデガーの本などを読んでおそらくそうだろうという感じでわかったという次第である。


ハイデガーには「現象学の根本問題」という講義録があり、それが「存在と時間」の書かれなかった後半部だと言うことだった。ハイデガー全集が1976年に刊行された時も現象学の根本問題が第一回配本になっており、ハイデガーも「現象学の根本問題」にはなみなみならぬ力を注いでいたようだ。当時、創文社からハイデガー全集が続々と公刊されていたが、「現象学の根本問題」は未だ刊行されていなかった。しかし、1930年代のニーチェ講義やシェリング講義など講義録も「存在と時間」の後半部を補うものだと教えられこれらの講義録も熱心に読んだ。


冒頭「存在ウーシアを巡る巨人の戦い」という文句をあげたが、ウーシアとはアリストテレスまで遡る用語で、それがやがてラテン語でSubstantia. ドイツ語のSubstanz 実体という意味に変わってくる。実体とは神さまのことで、アリストテレスの時代には単純に存在と捉えられていたウーシアが、ラテン語、ドイツ語、近代語になるに従い元の意味から離れ神さまに変わっていく。ハイデガーはそれをひっくり返すことで、西欧の歴史全体をひっくり返そうとしたのではないかと推測される。


創世記の批判だと思われるが、無から世界創造があったのか、もとからあった素材が変わったのか、世界の始まりの捉え方ひとつで、われわれの根底には絶対神があるのか、存在ウーシアがあるのか、そこには大きな違いがある。無からの創造を説いているのは歴史的に形成されたキリスト教だけである。


さて、マルクスに話しを戻せば、マルクスは価値実体Wert Substanz という用語を使う。が、わざわざ実体という用語を使うことによりそこにキリスト教的な神学に対する皮肉をこめているように思われる。が、それは後ほど話していきたい。







ある時代との対話④

2021-07-02 16:50:00 | 日記




当時、社会主義圏の崩壊という事態の前で、僕のチッポケなマルクス主義は動揺した。批判的であったとはいえソ連始め東ドイツ、東欧圏の社会主義体制が脆いビルディングか何かのように崩れていったのだ。動揺しない方がおかしい。それを社会主義は歴史的必然とした自称前衛の方がよほどおかしかったのだと思う。あの時点で少しは社会主義の見直しを図れば良かったように思うが、冷戦崩壊の後、数年もするとそれもいえる雰囲気ではなくなった。


僕はこの当時、政治的にではなく思想的に真底動揺した。当時はマルクス主義の凋落の後を受けてフランス現代思想が思想界を賑わし、また、ハイデガー全集の刊行も始まりハイデガーやフッサールの現象学も書店の棚を賑していた。そんな時に岩波文庫で出ていたハイデガーの「存在と時間」を書店の書棚で何気なく手に取り読み始めた。そして、買い求めた。が、一度目は簡単に挫折した。岩波文庫の「存在と時間」は桑木務というひとの翻訳でドイツ語と日本語が混じったようなひどい翻訳だった。それで今度は中公から出ていた原佑訳の「存在と時間」を読んだ。これは、読み通すことが出来た。やはり、一回読めばわかるという本でもなくその後何回も読み直すことになった。


「資本論」、「精神現象学」や「存在と時間」もそうだが、この種の大著は後でバラすがそもそも曰くつきの作品が多く、それでなくても読み通すだけでも大変なのに、途中までしか完成していなかったり、異本があったりとややこしい本が多い。しかし、僕はプロセスが大切だと思う。専門的な学者でもない限り、この種の本を何回も読める時間もなく、一回読めばわかる本でもないが、大著を読むことを通して一つの主題を追いかけたことそのことが大切だと思う。それに例えば、「存在と時間」を読んで「存在とは何か」ということがわかるかというと、わからない。なぜなら「存在と時間」は、「存在とは何か」という問いに行き着く前に何らかのハイデガーの都合で終わっているからである。つまり、「存在と時間」は序文で「存在とは何か」と問いながら、この問いに答えるはずの後半部が書かれずじまいに終わった欠陥品なのである。



そのことは、「資本論」も同様で、2巻、3巻はマルクス死後エンゲルスが編集したもので、またマルクスはその草稿を完成させていなかった。しかも、第3巻の原稿が最も古く1865年までぐらいに書かれ、続いて2巻、そして、第1巻という具合に書かれた。ただ、2巻については何回もマルクスは手直しをしたようであるが、刊行までには至らなかった。2巻、3巻を読んだ方はお分かりだと思うが、2巻では急に文体そのものが変わる、しかも最後の拡大再生産表式では中途半端に終わっている。それも計算が合わない。3巻はエンゲルスも相当苦労して編集したようだが、繰り返しも多く、また、最後の原稿はここで途切れている………で、え!と思った方もおられると思うが「資本論」も完成したとは言いにくい。しかも、また詳しくお話ししたいと思うが、一巻にもマルクスの手で刊行された資本論とエンゲルスがマルクス死後編集し決定版になった現行版、資本論という、おおきくわけると二つの資本論がある。なかなかこんな手の込んだ本を一回でわかるはずもないが、にもかかわらずやはり読むこと自体は無駄ではないし、そこで苦労して学んだことは身についていると思う。


話しが脱線して恐縮だが、社会主義の崩壊という事態の中でハイデガー哲学に出会い、「存在と時間」を読み始めたが、当時の日本のハイデガー哲学者の本なども参考にしながら読み進めるとハイデガーが20世紀最大の哲学者と言ってもおかしくない哲学者であったという事実にもかかわらず、ハイデガーがナチに加担していたということをどう考えるのかという問題に直面した。僕の中でこの問題が今でも解決したわけではない。しかし、ハイデガーの哲学にだけ話しを絞って述べてみれば、ハイデガーは西欧哲学史をひっくり返そうとしていたようである。その問題意識は僕の私見だが、マルクスのそれとどこか重なると思われる。





ある時代との対話③

2021-07-01 11:47:00 | 日記

 レーニンも、マルクスを読んでから「国家と革命」やら「何をなすべきか」を読んだが、どうも好きになれなかった。レーニンに対する第一印象は学校時代の教師の目、ひとを見るときのあの嫌な上から目線を感じた。例の「何をなすべきか」の外部注入論で労働者は労働組合意識しか持てず、社会主義意識は外部から注入しなければならないというものであった。ロシア革命を変質させていったのもレーニン主義に一端があるのではないかと思ったが、そういうことは大きな声で言いづらい雰囲気があった。よくも悪くもスターリン書記長に社会主義の悲劇の責任を押しつけて終わりということではないかと思った。ポーランドでは連帯労組が社会主義政権から弾圧をされていた。よくポーランドの連帯の記事が週刊誌にも乗りそこに出てくる連帯労組の組合員に同情したのを覚えている。ただ、レーニン選集を読むぐらいの知的誠実さは僕にもあった。


当時、シモーヌ・ヴェイユというフランスの女性思想家の本も読んだ。最近になって岩波文庫でも読めるようになったが当時はハードカヴァでないと読むことが出来なかった。シモーヌ・ヴェイユはフランス共産党ではない民主共産主義のグループにいたようだった。ヴェイユの彼氏で、ポリス・スヴァーリンというひとがいるが、このひとはドイツ共産党の創立者ローザ・ルクセンブルクの影響を受けていたようで、そのスターリンの伝記は、ロシア革命の悲劇と社会主義の問題の原因を遠く1903年のロシア社会民主労働党の分裂と「何をなすべきか」に見ている点で、ドイッチャーの「スターリン伝」より優っていると思う。シモーヌ・ヴェイユは1930年代に革命ロシアを追い出され、フランスに亡命していたトロツキーとも論争し、一歩も譲らなかった。シモーヌ・ヴェイユの周辺にはジョルジュ・バタイユがいたり、当時のフランスの第一級の思想家がいたようだ。ただ、第四インターナショナルがシモーヌ・ヴェイユの家でトロツキーとともに結成されたというのも面白い話しだ。


それに、当時は書簡集でしか読めなかったローザ・ルクセンブルクの思想に触れたことも、コミュニストではなく、ひとりの労働者として物事を考えようという立ち位置のようなものを僕に与えてくれた。岩波文庫で、「獄中からの手紙」という小さな本が出ていて社会主義者というとレーニンのような文章が標準だと思っていたが、ローザのその文学的な文体には知性を感じ、またその音楽や文学の趣味もモーツァルトやベートーヴェン、文学ではゲーテやレッシングといったものでロシアの革命家にはないものも感じた。後にローザ・ルクセンブルクの「ロシア革命批判」を読んだが、時間があればまたその話しをしたいと思う。マルクス主義といえばボルシェビキだと言うのが相場だが、実は違った。そんなことも驚きだった。


僕自身は、レーニン主義との対決を通して、もう少し平たく言えば左派系活動家との対決を通して自分なりにマルクス、それも資本論を読んできた。マルクスの資本論も、最初は教科書通りマルクス経済学として宇野経済学の影響を受けながら学んでいたが、どうも学者が研究室で考えることは、労働現場の中で労働者が考えることとずれるらしく、次第に宇野弘蔵を読むよりは資本論そのものを読む方が生きる指針になった。そういえば、資本論をなぜ読むかと言えば、生きるためであり、生きる指針としてだ。資本論の副題にもKritik der politischen Ökonomie ー経済学批判と書いてある。


そうこうしているうちに天安門事件が起こった。198964日、人民解放軍が人民の集まる広場に戦車を突入させた。テレビに写る中国の民主化を願う学生・労働者の叫びには心から共鳴した。昨年だったか、ブックオフで天安門事件関連の書籍を二冊入手した。あの時の記憶が蘇った。中国共産党の独裁に抗して闘う若い中国の民主派の活動家たちの姿が、声が蘇った。しかし、今でも中国で中国の民主化を望む活動家は生きている。中国共産党の腐敗した姿だけを見て中国を批判するのは一面的だと思う。



Segui il tuo corso, e lascia dir le genti !


さらにハンガリー、チェコ、東独で社会主義政権はドミノ倒しのように倒れた。108日ベルリンの壁が崩壊した。一年前誰がこのことを予想したであろうか?




ある時代との対話②

2021-06-30 18:56:00 | 日記

 ②


働いていたレストランの近くに新進堂という本屋があり、岩波文庫を読み切ることに情熱を燃やしていた。赤帯のフランス文学やロシア文学は読めても、それでも挫折することも多かった。厨房で働いていると言っても腕一本でやっていけるわけでもなく、当時、冷凍食品でいいものが出来てきて手づくりの店は大手外食産業に押されていた。休みと言っても何するわけでもなく、あっという間に時間だけが過ぎた。


そんな時に「資本論」に出会った。岩波文庫 向坂逸郎訳 全9冊を購入、抱えるようにして持って帰った。無謀だったが三か月ほどで全三巻を読み切った。ただし、中身がわかったわけではないが、一回読んでわかる本でもない。ただ、商品の価値は労働だというぐらいに漠然と理解出来た。それに剰余価値ー会社はこうして儲けるのかと思うと会社の頭の良さに感心もした。ただ、働くものは社会の主人公だと思うと嬉しかった。もっとこの本を理解したいと思ったが、しかし、それからこの呪われた本に生涯マルクスの幽霊に付き纏われるとは思わなかった。というのはマルクスは幽霊が大好きで共産党宣言の始めにもこんな風に書いている。Ein Gespenst geht um in Europa.


その話はともかく資本論を読んで初めてマルクスが誰であり、マルクスとソ連が関係があるとわかったような次第である。資本論を読んでから共産党宣言や賃労働と資本を読み出すと言う始末。ただ漠然と労働者というか働くものの社会がくればいいと思った。


しばらくして父に紹介してもらい近くにあった二月書房に行った。初めて行ったのは夕方だったと思う。小さな店の奥に入っていくとそこにご主人が座っておられた。そのお店にはずいぶん長く通った。街の小さな書店は大型書店のようにあちこち動かなくともいろんなジャンルの本が目に入る。同じ本でも棚の並びが変わると違う風に見える。そうして出会った本もたくさんあった。


当時は、バブルの余韻が未だ残るジャパンアズナンバーワンと思っている日本人もたくさんいた時代、マルクスなんか過去の思想家だった。未だそれでも社会主義圏も存在し、ソ連邦もあった。ロシア革命のオーラが世界を包んでいると錯覚されていた時代だった。


が、ともかく資本論だけを読んでいたのではダメだとわかり、哲学ではヘーゲルやフォイエルバッハも文庫本で手に入るものは読んだが分からなかった。マルクスの延長でもレーニンを読まなければならないようだった。マルクスの本の解説を読むと必ずマルクスとレーニンの名前が並べてあったが、これもある種の神話だった。するとレーニンとくるとスターリンになるが、この名前には僕のように大学に行かなかったものでも抵抗があった。マルクスの思想は正しいが、ソ連でおかしくなったというのはどうもいただけないと思ったからだ。ソ連の話しもそれほど薔薇色には見えなかったが、社会の安定という観点から見るといいと思ったことはあった。スターリンの問題は僕がマルクスと向き合う上でずっとネックになっている。


結局、資本論を読んでから反対に共産党宣言やドイツイデオロギーを読む始末。酷い勉強の仕方かもしれないが、しかし、そうするより他に道はなかった。これではメインデッシュを食べてから前菜を食べるようなものだった。が、かと言って正攻法で勉強すれば勉強していたかというと嫌になってやめていたように思う。そう人間うまく形にははまらない。