繁華街をしばらく歩いて大通りに出ると勤め先のレストランがあった。出勤は朝10時、帰るのも午後10時だった。朝、着替えて厨房に入るとすぐに冷蔵庫からミンチを出し、玉ねぎのみじん切りしたものを一緒にボールに開けて、玉子とパンを入れてハンバーグを作った。だいたいいつも大きなボールに三杯は作っていた。ハンバーグをこねて、オーブンに入れるところまで準備しなければならない。
それが終わると今度は米を洗わなければならない。四升を二杯か、三杯。そこで一息つくともうランチの準備をしなければならない。それから何度か休憩を挟んで、夜10時までずっと立ちっぱなしだった。それでもそれまでについた仕事よりはまともな方で食事が出た。そのレストランで働いている時、近くに大きな書店があったので文庫本を買って川の近くまで行って本を読んだ。新潮文庫や岩波文庫の小説や文学の本をよく読んだ。ロシア文学が流行っていたのでドストエフスキーの「罪と罰」も買ったが挫折したことはよく覚えている。
休憩中、よく労働組合や学生団体がデモをしていた。スローガンに反対ではない、しかし、何か違うのだ。そういう違和感は今でも左翼系の人々に対しては持っている。その違和感が何かなのはよくわからない。しかし、毎日の労働は辛く、先の見通しが立たない、特に給料は安い、さらに職場での人間関係には苦しんだ。当時はバブルと言われたが、街の小さなレストランで働く人間のところにはバブルの恩恵はなさそうだった。小さな頃からお金に興味があった、というかお金とは何かーこのひとを苦しめもし、幸せにもする紙切れーという疑問を持っていた。
僕の父も母も民青同盟?の活動をしていたらしく、そこで知り合ったらしい。が、僕が物心ついて覚えているのは母と父がいさかいをしていた光景だ。理由はいつもお金。ただ、あの紙切れが一枚ないだけで、否少し少ないだけで小さな家が大騒ぎになるのだ。机はひっくり返る、父が出ていく、その後には母がいつも泣いていた。よく考えるとこの争いの原因は父でもなく母でもなくお金。そうあの誰かの絵が書かれた紙切れ。
父は新聞配達をしていた。朝疲れた顔をして狭い部屋で着替えている光景が今でも浮かぶ。子供ながら冷静にその光景を見ていた。母も時々どこかに働きに行っていたのを思い出す。僕の家は屋根裏部屋でよく僕は頭をぶつけた。時々、そんな部屋にお客さんがあった。労働組合のひとだったらしい。僕は戦艦やゼロ戦が好きだったので労働組合のおじさんにはよく説教をくらった。父は文学を志していたようである。いつ本を読んでいたのかわからないが、部屋には本が所狭しと並んでいた。父は本だけは気前よく買ってくれた。お陰で読書習慣だけは悪ガキだったにもかかわらずついてしまったようだ。
その父も僕が小学生の時にいなくなった。しかも、それまで、一年に一回は引っ越しするという、生活だった。今思い返すと借金からの夜逃げだったのかもしれない。(つづく)