12月7日付でこのような紹介が出ていた。
リンクの記事だけだと見えないが、永江朗氏が書いていて、正確な引用ではないが
”若い時だったら感心したかもしれないが、いまは野坂昭如の文章を悪文の例に挙げているあたりに違和感を感じる”というようなことが書いてあった。
びっくりである。
この本は表紙にもあるように、”機能的な文章とは”ということについて書いた本だ。このような本に小説であればどうなんだというのは、オリンピック選手に”ボディービルダーのような筋肉の美しさがない。走ることに特化している”とかいっているようなものだろう。
そもそもが田中克彦氏が漢字について書いていた時に書いていたように、小説家というのは日本語のエリートで、俺たちだったらこういう風にかけるぞ、と一般人に見せびらかして感心させることを職業にしている人たちだ。
一方この本が”機能的”といっているのは、例えば職場などで、一歩間違えば命がかかってしまうような文章を誤読なく正しく伝えるような”機能”を果たせる文章ということなのだと思う。
そういった現場で鍛えられてきた強みをこの本に感じる。そこは解説者の某国語学者も全く理解しないので、おそらく国語研究所でどうのという”メタ”の話にもっていってしまったのだろう。例えば同じ学者でも、法律学者であれば、法律に関しての自分の考えが正しく伝わることしか考えないだろうが、国語学者は一度ありのままに世の中にある文章を採取して、それをもとに研究するわけなので、そもそもの出発点が異なっているのではないだろうか。
小生は国語を学ぶことは、民主主義の社会の中では自分の意見を文章にすることが大切だからだと思う。そういった意味ではがきの料金というのもあげるのは問題だと思っている。誰でも自分の意見を書いて、新聞に投書したり、政治家におくったりできるのが民主主義の社会なのだと思うからだ。ただ書いただけでは文章は意味を持たない。
最後に誤解があるとよくないが、小生は今の”論理国語”なるものは全く無駄だと思っている。自分の考えといっても、人間千差万別であり、当然それを広げるにはいろいろな文章に触れることは大切だ。そのことを否定するわけではない。ただ、文芸の中には、あえてわかりにくい文章を書いて、エリート的な優越に浸ろうとする人がいると思うのだが、そういったものへの批判はある、しかしそれは文芸的なものだけではなく、本多勝一氏が批判したように新聞などにも表れる。そう考えると文章を書くというのは読んでもらいたい人への誠実さがないといけないということで、ただ誠実というだけではなく、それを表現するテクニックを学ぶためにこの本はあるのだと思っている。