うろうろとする日々

音楽家のあいつぐ逝去の報道について(神話化される音楽家)

5月4日の天声人語、そして評伝がフジコ・ヘミング氏の逝去について書いてました。

ここのところ、小澤征爾氏、ポリーニ氏と続けて亡くなられてますが、小沢氏と同じくらいの扱いに見えます。

確かに多くのひとに届いたという意味ではフジコヘミング氏の音楽は大したものだと思います。

しかし彼女の音楽を取り上げるときに、彼女のストーリーと切り離すことなく語られるのはどうなんだろうと思います。がこれも小沢氏の逝去の時は、青年期の海外に出たときの話と組み合わされることが多いし、ポリーニ氏の時は、ショパンコンクールでどうの、という話がつきます。

これはもしかしたら紅白歌合戦で司会者が歌手を紹介するときの前振りのようなものなんでしょうか?

もちろん亡くなられた直後にその人の生前のエピソードを語るのはありでしょうけど、結構生前の音楽自体にストーリーをくっつける傾向があるように思います。

でもそれは必要なんだろうか?もちろん自分自身も例えばポリーニのペトルーシュカを聞いたとき、まあそもそもがそのCDを買ったのは本などでの紹介でしょうし、何も前提がなかったわけではないですが、そのようなストーリーで買ったわけではなかったし、聞いた時も音楽を聴いていたと思います。聞いた時の驚きのようなものがその後につながったと思います。

そういった聞き方をフジコヘミング氏の音楽を愛したり、コンサートに行ったりする人との間には何か音楽に関する前提が違っているようなきがしてなりません。もちろん音楽をどうきくかは、まさに個人のストーリーと音楽家のストーリーが交差するところであって、他人がとやかく言うことではありません。しかし、現実に大きなコンサートホールをいっぱいにできる人たちが少数いる。そこには個人のストーリーを越えたビジネスとしての必要性もあったのかと思います。じゃあポリーニ氏とグラモフォンの関係はどうなんだという話もありますが、日本の中ではもう少しいろいろな要素が絡み合ってクラシック音楽が提供されているような気がしてなりません。

ということでまとまりなくてすみませんが、端的にいうと、日本ではテレビなどで取り上げられて、いろいろなホールがいっぱいになる音楽家が存在するわけですが、テレビなどで演奏家のストーリーを語られることが多すぎるんじゃないかなあということを感じてるってことですね。朝日新聞の天声人語や評伝(特にネコやおちゃのはなしは全然関係ないような)にそれを感じました。そういったことをあまりやってると音楽家が神話化されてしまうように思います。やっぱり音楽家は音楽自体を聴くことで評価されるべきじゃないのかなあと。

ましては朝日の評伝に紹介されていたような、52歳からピアノを始めた人の話など、個人としてはともかく、中学生が話を聞いてたりするのを見ると、ちょっとどういう趣旨なんだろう?と思ってしまったことがありました。また最近では滋賀大学の学長が東京芸大のピアノ科中退なのでピアノを最近学長として卒業生に送ったということにも神話を感じます。ようは音楽家は神話化されやすく、いろいろな神話がほおっておくと生まれていくような感じを持ってます。

まあ例えば吉本隆明氏なども神話化されていたような印象はあるので、ストーリーがくっつくと神話化されるのは音楽だけじゃないですけど。朝日新聞では例えばスポーツの野村記者などもあたかもスポーツ選手を神話化することが仕事みたいな記事をたくさん書いてます。ジャーナリストとしてどうなんだろうと思うところ。

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5月5日追記

NHKで5月4日にヘミング氏の特集番組を2本やっていた。そのうちの1999年のほうはへーっという感じだった。

たしかにこのときの演奏であれば理解できるものだった。(が好きかどうかは別)

問題は10年以上たって、だんだん衰えていくのを前と同じ演奏であるかのようにいってしまった周りの人間で、それは”神話化”だと思う。

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